第13話「紫紺の徒花」

「白井決めてくれ!」


 歓声が空気を揺らし、緑の芝生が風でそよぐグラウンドで、サッカーのユニフォームに身を包んだ一人の青年が叫んだ。ドン!サッカーボールが土を巻き上げて、宙を飛ぶ。


「任せろ!」


 白井と呼ばれた青年はボールを胸で受けて足元まで伝わせると、そのままゴール目掛けてシュートを放った。相手のキーパーがボールに触れられなかったのを見た途端、白井の周りに味方の選手たちが歓声を上げて集まった。相手選手たちは膝から崩れ落ち、地だけを見つめていた。

 グラウンドから少し離れた観客席の日陰で、浅黒い肌の少女は穏やかな紫の瞳で、試合の様子を眺めていた。その瞳には味方選手に肩を組まれた白井だけが映っていた。


(白井先ぱ――)


「やっぱ白井先輩やばいよね!」

「分かる!かっこよすぎ!」

「行ってみようよ!」

 

 穏やかだった紫の表情は一気に陰鬱なものになった。いつもの神経質な様子は失せていて、どこかあきらめたような表情だった。席をゆっくり立った彼女は帰路につこうとした。その時だった……

 紫の視界に彼女が一番嫌いなものが映った。


「紫……さん?」

「……白井美幸?」

「「なんでこんなところに居るの!?」」

「あたしは応援したい人が居たから来たのよ!」

「わ、私だって兄が試合に出てるから――」


 紫の中で一つの疑念が沸き、次第に水彩絵の具のようにある考えがにじんでいった。


「兄って……白井……し・ら・い?――!あああああ!!」

「ど、どうしたんですか!?紫さん!」


 紫は今日一番の注目を浴びた――

 

――


 紫と美幸はぎこちなく肩を並べながら、観客席の外周を歩いていた。傍目から見たら友達のように見えたかもしれない。


「兄に会いたいなら私のほうから言いますけど……」

「……そんなのやに決まってるでしょ?馬鹿じゃないの?」

「どうしてですか?」

「どうしてって……聞く前に考えなさいよ」


 美幸は紫の意図を理解できなかったのか首を傾げた。紫は憂鬱な表情で顔をそむける。視界に美幸の兄が映ると再び美幸に向き直った。


「でも、紫さんが兄を応援してくれてたなんて嬉しいです!」

「こっちはあんたがあの人の妹だなんて知りたくなかったわよ……」

「ど、どうしてですか?」


 顔が紅潮した紫が美幸を怒鳴りつけようとした時だった――


「美幸!母さんが探してたぞ……ってそちらの方は?」

「えっとこちらは……」

「あ……私は二階堂紫です。み、美幸さんにはいつもお世話になってます……」


美幸は紫のあまりの豹変っぷりに目を丸くした。先ほどまで吊り上がっていた眉はハの字に曲がり、髪のいじり方さえ恥じらう乙女のように変わり果てていた。紫はぎこちなくウインクを美幸に送る。


「あ、あぁぁそうそう、紫さんは同じ部活の副部長さんなんです。いつも……そのしごかれてるというか……」


 美幸がそこまで言うと紫の眉は吊り上がり、眉間にしわが寄った。それを見た途端、美幸の背筋に悪寒が走った。


「じゃなくて!指導してもらってるの!そう指導!」

「美幸……」


 美幸の兄から先ほどまでの陽気な雰囲気が消え去っていた。その表情を見た途端、紫の顔が陰鬱なものに変わった。


「やっぱり――」

「なんて良い先輩に恵まれたんだ!本当によかったな、美幸!」

「え――」

「俺は白井勇樹。よろしくお願いしますね、紫さん!」


 勇樹が紫の手を取り、激しく上下に揺らすと紫の頬がどんどん赤く染まっていった。


――


 レトロな内装の空調が利いた店内で、オレンジのマニュキュアをした手が銀のスプーンをくるくると回していた。その手が、色とりどりのゼリーの中から紫のゼリーをすくい上げる……

 

「なー美香ー」

「何~?」

「あんた紫の願いって聞いたことある?」

 

 机に突っ伏した美香は頭を横に振った。いつも大きく開いている水色の瞳はほとんど開くことはなかった。


「あーそういえば、うちも聞いた事ないっすね」

 

 美香の隣の席に座り、足をぶらぶらしている桃華は、何食わぬ顔でコーヒーにミルクと砂糖をどばどば入れていた。


「なんか紫ってはっきりした性格のくせに、なんも自分の事話さへんやん?」

「分かる~親のこととかも言わんよね~」

「なんか結構お金持ちなんすよね?」

「そうそう、うちよりは豪華や無いと思うけど……」

「それ自分で言っちゃうんすか?」


――



 紫と勇樹は二人で並び、とぼとぼと並木道を歩いていた。勇気のあごにあった汗が、首元を伝うのを見た紫は頬を赤く染めた。


「あの子誰よ?美幸」

「いいから!邪魔だけはしないでね!」


 ぼやいた理香のシャツの裾を引っ張った美幸は、にこにこしながら2人を見守った。


「それにしても紫さんみたいな、可憐で優しい人が美幸の先輩でよかったぁ」

「か、可憐で……や、優しい……」

「どうかしました?紫さん?」


――


 橙色の光と紫の天蓋が折り重なる空の下、校舎の廊下を息を切らしながら走る少女――紫の、その紫の瞳は輝きに満ちていた。髪は短く、彼女特有の髪のカールはまだなかった。階段を降り、踊り場に彼女は出る。


「先輩!」

「君は……誰だっけ?」

「2年の二階堂紫です!」


 肩で息をする彼女は、階段の下にいた男子生徒のもとまで駆け寄った。隣に居た2人の男子は、目配せをするとさっさと先に行ってしまった。追いかけようとした彼だったが、紫のことを思い出したのか、立ち止まった。


「なんかよう?」

「その、お話ししたいことがあって……」

「あ、あぁ……いいけど」


 二人は連なって学校の校舎の外まで出てきた。二つの長い影が校舎の影を貫いていた。


「ずっと好きでした!付き合ってください!」

「え――」


 紫の突然の告白に男子生徒は目を丸くし、しばらくするときょろきょろとあたりを見渡し始めた。答えを待つ紫の顔は真っ赤に染まっていた。


「あのー……嬉しいんだけどさ……」

「なら――」

「ごめん!俺もっとなんていうか可憐っていうか、そういう子の方が……いいかなって」

「え?可愛くないってことですか?」

「そうじゃなくて……その」

  

 紫は言葉の意味を理解できなかったのか、首を傾げた。紫が目を合わせようとすると男子生徒は目をそらした。


「――!か、髪型とか気に食わないなら全部言ってください!なんでも合わせますから!」

「そういうことじゃなくて――そう!今は彼女とかいらないかなーって」

「そうですか……分かりました……ごめんなさい迷惑かけて」

「大丈夫大丈夫!」


 そう言うと男子生徒は足早に校門へ向かった。橙色の光は失せていき、紫の天蓋が彼女を包んでいった。 


――


 暖かな陽気と、目の奥を刺すような青い空が、紫の座る窓際の机に映っていた。彼女が予習をしていると、茶髪の女子生徒が彼女目掛けて突撃してきた。


「紫~!どうだった!うまくいった!?」

「あぁ、千夏。まぁね……」

「……だめだったってこと?」

「なんか彼女はいらないって……」

「は?――それ、嘘じゃない?」

「え?」


 千夏は紫の腕をつかむと教室を飛び出して、2年生の教室が並ぶ廊下まで引っ張った。千夏が指をさすその先を見た途端、紫の胸の奥に重い油彩絵の具のような、窒息しそうな淀みがなだれ込んだ。


「嘘でしょ……」


 そこには昨日の男子生徒と、紫の知らない女子生徒が手をつないで歩いていた。少女の見た目はいかにも可愛らしく、カールのかかった茶髪はやけに輝いて見えた。


「さいてーじゃんアレ。紫あたしが――」


 紫はふらふらと進み、男子生徒の前で止まった。


「でさーその子が――あ」


 紫を見据えると男子生徒はバツが悪そうに視線をそらした……


「どういうことですか?先輩」

「だれですか?この子?」

「いや……その」

「先輩の彼女ですけど……」

「だって先輩、彼女は今いらないって……」

「何言ってるんですか?今日の朝、先輩のほうから告白してきたんですよ?」

「は?」


 紫の足が棒のように止まり感覚が無くなった。心のどこか透き通った部分に、ヒビが入ったような感覚を彼女は覚えた。


「この子、ストーカーなんだよ。なんども来てうんざりしてたんだ」

「いや……ちが――」

「そういうことなら先輩から離れてください!」


女子生徒は男子生徒の前に立ちはだかり、紫を威圧した。周囲の目は紫の敵だった。圧倒的理不尽を前に、彼女の心の殻はひび割れ、中のドロッとしたものが濁流となって心の中を駆け巡った。


「もういい……どいつもこいつもだるい」

「「え?」」


 紫は途端に自分の爪を見ながら踵を返した、千夏を追い越した彼女は悠々と廊下を歩く――

 あっけにとられていた千夏はようやく紫のもとに駆けて行った。


「いいの?紫あいつら――」

「千夏はいちいちハエを叩き殺すの?」

「……え?」

「だから、ブンブン飛び回るハエをいちいち潰すのだるくないの?」

「――あぁ、確かに」

「潰すならアリぐらいがいい……」

「…………だね」

 

 紫の口元は歪み、瞳は輝きが褪せ、何も映していなかった……

 ドン!紫の肩に衝撃が走り、彼女のこめかみに熱が集中した。


「ご、ごめんな――」

「あんたどこ見て歩いてんの!?」  


 紫はぶつかった相手の顔も見ず、その場を立ち去った。

 

――


 「じゃあ!今度遊びに行ってもいいですかね?」

「遊びにってうちに!?」

「もちろん!俺も紅茶とかお菓子好きなんでぜひ」

「あぁぁうぅ……はい……大したものないと思うけど……」


 紫達は駐車場まで来ていた。青い空と照りつく日の光が遮られて、紫の表情は少し曇った。そんな彼女の表情に勇樹は首をかしげたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。


「俺達はここで!紫さんは……たぶんあの車ですよね」


黒塗りの高級車の手前で、白い手袋をした初老の男性が紫達に向かって手を振っていた。


「う、うん。いつも目立って恥ずかしいんだけなんですけどね……」

「それじゃ、また!」

「また……」

 

 勇樹は母が運転する車に乗り込むと、車内からも手を振り続けた。最後に美幸が車のステップに足をかけた時だった……


「し、白井さん!」


 しゃがれて裏返った紫の声に、少し迷ってから美幸は振り向いた。


「今日はあ、あありがとう!」


 美幸はにこっと笑うと車のドアを閉めた。ランプが点灯し、車がガラガラと音を立てて駐車場を抜けていった。

 紫は男性が明けたドアから何の遠慮もなく車に入ると、座席に首をすべて預けふんぞり返った。

 

「お嬢様今日は何かいいことがあったので?」

「別に……早く出して」 


 車は流ちょうなターンをすると町の中へと溶けていった。

 紫は窓に映っては消える ものを見るたびにうんざりとした気分が募った――


END―― 

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