第2話「願いの形」
K市市内の一画の簡素な住宅街は、すでに夜の帳が下りていた。近づけばどの住宅からも子供の騒ぐ声と、香ばしいにおいが漂っていた。
その中の一件の住宅の中で、一人の女性がリビングの椅子に座り、心配そうな顔で時計の短針を見つめていた。隣の椅子にエプロンが無造作にかけられている。眉間と目じりにはしわが寄り、長年の辛苦と、やや神経質な印象を見るものに感じさせた。リビングのライトは彼女だけを照らすにはあまりにも明るすぎた。
彼女は白井理香、美幸の母だった。
《ご飯が炊けました》静かな部屋の中で、抑揚のない言葉がやけに響いた。
「旦那はいいとして――美幸、もしかしてグレた?軽いグレならいいんだけど……」
《美幸、もしかしてグレたに関する検索結果――》
「だまれ、機械の分際で――」
誤動作したスマホを理香は即座に止めた。そして何か思いついたのか、おもむろにスマホで検索をし始めた。理香の目が青白い画面で埋まる。彼女の黒い瞳孔は左から右へとスライドし、端まで到達すると、瞬時に右へと返っていった。
《女子高校生――誘拐事件》
《女子高校生――えんこう》
(あの子に限って――)
様々なワードで検索し、理香はネットサーフィンにふけっていた。普段から彼女の眉の先が吊り上がっていたが、それが極致に達していた。右目がやや痙攣しているが、彼女は気づいていなかった。
ピンポーン!軽快な音が鳴り響く。
理香は慌てて立ち上がり、インターフォン越しに相手を確認した。薄暗い中、自分の娘が憔悴しきった表情で写っていた。理香の胸に冷たい氷が投げ込まれたような感覚があった。
《美幸なの?こんな夜遅くまでどこ行ってたの?》
「母さん……開けて」
《ちょっと!美幸!?》
理香はスマホを片手に素早く駆け出し、玄関まで数秒で到達した。あまりに急に飛び出したので裸足のままだった。
ガン!
「痛っ」
「ちょっと何してんの、あんた!?」
理香が勢いよく開けたせいで、美幸の肩にドアが当たってしまった。美幸はその場でへたり込んでいたのだ。理香は娘の姿を見た瞬間、即座に抱きかかえた。
「美幸、何があったの?――言えないことなの?警察に――」
スマホを取り出した理香の手を、美幸の手が遮った。
「ねぇ、夢ってそんなに叶えたいものなのかな……」
「……何言ってんのあんた?」
「人を踏み台にしてでも、叶えたいものなのかな……」
「――そういう子もいるんじゃない?あんたがそれをどう思うかわかんないけど……」
「うん……」
美幸はふらふらと歩き、自室へつながる階段を上がっていく。ボトボト……ボト……美幸が歩くたび不規則な音がやけに響いた。
「ほんとに大丈夫なの?」
美幸は振り返らず手を振り、2階の闇へと吸い込まれていった。理香はその姿を見送ることしかできなかった――
――
美幸の自室の前には、ラップが張り付いた冷めきった食事が置かれていた。美幸は自室の部屋の隅で膝を抱えていた。よく整頓された部屋は、いつもの彼女なら居心地が良かっただろう。彼女は憂鬱な表情で壁に穴が開くほど一点を見つめていた。薄紫色の瞳は今は濁ったように見えた。
しばらくして美幸は机の引き出しをちらっと見た。おもむろに立ち上がった彼女は引き出しを開け、1枚の古い写真を取り出した。写真には幼いころの美幸と、同じくらいの年の活発そうな少女が、笑顔で美幸に抱き着いていた。彼女のスカートの派手なフリルは、風を含んでふわっと膨らんでいた。写真にはピンクのペンで「あたし絶対アイドルになる!!」「加奈がアイドルになれますように」と書かれていた。
写真を見た美幸は少し微笑むと、また憂鬱な表情に戻る。美幸は少し、迷った後スマホを手に取り通話を試みた。
――
《あ~美幸?どうしたのこんな時間に》
「ちょっとね、加奈の声が聞きたくて……」
《――大丈夫、美幸?》
「大丈夫、加奈は最近どう……元気?」
《……あたしは元気でやってるよ。進学校だから勉強の量がやばいけどね》
「加奈が進学校に行ったなんて信じられない……」
《赤点の常習犯だったからね、でも目標があれば意外と何とかなるもんよ!》
美幸は眉をひそめた。
「……目標ってアイドルになること?」
《当たり前でしょ。大学にいけば、またオーディション受けていいってあいつらが言ったんだから》
「また、失敗したら――」
《関係ないよ、何回泣いたってあたしはやる》
「数年しかできないかもしれないのに?」
《たとえ一か月でもやる――》
二人の間に少し沈黙が続いた。不自然な息遣いだけが少しの間響いた。
「これはもしもの話なんだけど……加奈はさ、魔法でなんでも叶うとしたらそれでアイドルになる?」
《魔法?まぁいいけど、結論から言うと魔法でアイドルになんかなりたくないな》
美幸は服の袖を少し強く握った。
「……どうしてか聞いていい?」
《だってさ、今までがんばってきたのに全部に意味がなくなるじゃん……なんていうか道がなくなるっていうか》
「道……?」
「じゃあさ、美幸がRPGのゲームをやってたとしてさ、急に魔王も倒さずクリアしたらどうよ?」
「……面白くないかも?」
「でしょ、レベル上げたり、武器作ったりしたのにさ」
「……でも、傷つかなくて済むかも。途中で仲間が死んだりしないし」
「――美幸のそういうとこ甘さだっていうやつ、あたしがぶん殴るかな」
美幸はそれを聞いた瞬間思わず吹き出してしまった。それにつられて加奈も笑い出す。美幸の顔は赤くなり、眉の先はなだらかになっていた。
「加奈と話してたら、落ち着いた……」
《やっぱなんかあったんだね、いつより元気なかったし》
「バレてたか」
「とにかくあたしは親との約束を果たして、改めてアイドル目指すから!そこんとこよろしく!」
「うん、またね」
美幸は通話を切り、自分のベッドの上に座った。深呼吸をし、少しの間加奈の言ったことを考えていた。
「自分の力でアイドルになる……か」
気力を取り戻した美幸は部屋の扉の方に視線を移す。
「おなかすいた……」
END――
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