三題噺集
葉舞妖風
インスタント 古酒 河童
「違いが分からなければ人間として大成できん」
それが口癖の部長は会社の飲み会で決してお酒を口にしなかった。品質の良いものしか受け付けない主義のようで、自慢の舌が低質なお酒で汚されるのが我慢ならないらしい。大衆居酒屋のお酒の質の低さは認めるところではあるが、何もそこまで毛嫌いする必要があるのだろうかと由美子は思ってしまう。まあそこは百歩譲って、個人の自由なので好きにしてくれたらいいのだが、部長のグルメぶりが私の仕事を増やしてくるのはいただけない。毎日豆の焙煎からコーヒーを作らなければならないこちらの身にもなって欲しいものだ。
「由美子さんも大変ですよね。河童の世話をさせられて」
隣の静香がビール片手に話しかけてきた。飲みものに関してはこの上ないこだわりがあるくせ、おつまみの塩だれキュウリだけは嬉しそうに頬張る部長。皿のように禿げあがった頭頂部と相まって、ついた渾名が『河童』。部長の前ではおくびにも出さないが、女子社員の間では市民権を得ている呼び名だ。
「そう思うなら静香も手伝いなさいよ」
「嫌ですよ。人が苦心して淹れたコーヒーを飲みながら、『やっぱり由美子君が淹れてくれないと駄目だな』なんて言われるのは二度とごめんです」
その節は静香のことを想うと心苦しくなる。最初はちょっとした新入社員いびりなのかなと思っていたのだがどうやら本心からでた言葉だったようで、やっと引き継げたと思っていた部長にコーヒーを淹れる係は気づけば由美子へと戻ってきていた。
「一応私も努力はしてるんですよ。休日の朝は自分で豆からコーヒーを淹れてみたり、喫茶店を巡ってみたり。だけど私は違いが分からない人間らしいので」
そう言うと静香は呆れたように首を振る。
「私だって河童の言う違いなんて分からないわよ」
「あれ、そうなんですか」
「そうよ。河童は気に入っているようだけど私は自分が淹れたコーヒーより自販機で売ってる缶コーヒーの方が好きだし、12年もののボウモアだかアードベッグよりもここで飲むハイボールの方が好き」
「な、なんですか?ボウモアにアードベッグって」
「スコッチウイスキーの名前よ。そのうち嫌と言うほど河童の口から聞かされるわよ」
「うわぁ。河童のお酒のこだわりってワインだけじゃなかったんですか」
静香が辟易した顔をした。肩をすくめた由美子もきっと渋い表情をしているに違いない。すると、そんな自らが立たされている苦境を嘆く暗い雰囲気を破るかのように、営業スマイルを浮かべた店員の元気な声が届いた。
「お待たせしました!山芋の鉄板焼きと軟骨のから揚げです」
「よっ!待ってました」
好物の到着で静香がテンションを上げた。アルバイトの大学生らしき店員から料理を受け取ると、静香は満面の笑みで話しかけてきた。
「河童の話はやめましょう、由美子さん。あ~あ、素敵な出会いってどこかその辺に転がってませんかね」
そんな独り身の女の儚い願望は大衆居酒屋の中で虚しく木霊した。
「由美子君、コーヒーを」
「分かりました。少々お待ちください」
日課の始まる合図が告げられ、由美子は席を立ち給湯室に向かった。「いい加減自分で淹れたらどうなの?」と心の中で愚痴りながら部長用のマグカップを用意していると、由美子は自らの失態に気が付いた。
――しまった。豆を切らしていたのを忘れてた!
部長用のコーヒーは「黎明亭」という、部長がひいきにしている喫茶店から豆を買い付けなければいけない。いつもは豆が切れそうになると昼休みに買い付けがてらその喫茶店で昼食をとるのだが、今回はすっかり失念してしまっていた。
どうしようか。素直に謝るのも手だが、「そんなんだから違いも分からんのだ。違いが分からなければ人間として大成できん」というお決まりの口癖のお説教を受けるのは癪だ。かといって今から喫茶店に買い付けても、待たせすぎだとしてお説教コースになるのは目に見えている。
こうなったらヤケだ。覚悟を決めた由美子は自分用のインスタントコーヒーの粉を部長用のマグカップにぶち込んだ。インスタントといってもアラビカ種の豆をブレンドした、貰い物の少し上等なものなので上手くいけば騙せるかもしれない。
「お待たせしました」
由美子が机の上にコーヒーを運ぶと、部長はすぐさま口をつけた。
「うむ。やはり朝は由美子君の入れてくれた黎明亭の豆のコーヒーに限るな!」
部長は満足そうに言うと、何事もなかったかのように仕事に戻った。
三題噺集 葉舞妖風 @Elfun0547
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