四十六幕 呂布奉先
三国時代において、純然たる武の力量だけが誰が一番かと問われれば、真っ先に彼の名前が挙がるであろう。
今、関羽の目の前にいる男である。
玉座に足を組み、肘掛けについた左手で項垂れた顔を支えていて、表情まではよく見えない。
しかし、右肩を支えに抱いている
それだけで、関羽には充分であった。
「……呂布。お主がなぜここに……」
呂布は気だるそうに顔を上げた。
その顔を見て、関羽は戦慄する。
顔一面に走る
理性の欠片など微塵もないことは、誰の目から見ても明らかであった。
「……オ、お前ハ、か、関羽カ……ヒ、久しイナ……」
人の声かと問われれば、断じて否。
汚泥の底から湧き出た
流石の関羽とて、額に伝う汗を感じずにはいられなかった。
「お主が、魔王なのか、呂布よ」
「ま、まおウ……。そんナ呼び名ナど、シ、しらヌ」
そして呂布は、ゆっくりと立ち上がった。
その姿はまさに偉容。体躯は関羽より頭ひとつ、いや二つほど大きい。
生前、二人の背丈にそこまでの格差はなかった筈。
呂布の体が、異常なのだ。
全身の筋繊維がまるで一本一本に意思が宿ったように狂おしく
そして呂布に呼応するように、馬という馬が一斉に竿立ち
動物とは直感で、危機を悟ものが。呂布の放つ圧倒的な邪の覇気に、馬が本能的に反応してしまったのだろう。
関羽をはじめ、各兵が手綱を捌き、馬を御す。
そして恐怖に耐えられず突き動かされたのは、馬だけではなかった。
嗚呼、悲しいかな。人も動物であるが故に。
「カンウ様! 彼奴を討ち取ればすべて終わります!」
「この戦いに決着をっ!」
「ま、待てっ! 迂闊に立ち合って敵う相手ではないっ!」
関羽の静止を振り切って、騎兵が十、呂布へと向かった。
人は恐怖を素直に受け止められるほど、そう強い生き物ではない。
その場合、大抵の人間は圧倒的な恐怖を乗り越えようと、攻撃に転化する。そうせざるを得ないのだ。それは防衛本能の
呂布は悠然と玉座から立ち上がると、
呂布にしてみれば、目の前にたかる小蠅を追いやる程度のこと。
ただそれだけで突進した馬の首と騎兵が、ことごとく輪切りにされてしまった。
その撃圧は凄まじく、さらには関羽の頬さえも薄く傷つけた。
「……サ、さア、関羽。オ、おレと戦エ。オ、おレを倒しニこい。オ、オマえの武を、し、シボリつ、くして、お、オレをタノシませ、ろ……!」
頬を拭うと、関羽は手の甲についた己の血を凝視する。
そして、その左手を大きく開き、付き添う騎兵を制する格好をとる。
「皆、手出しは無用。この場は俺一人が、引き受ける」
「し、しかし関羽様! 彼奴のあの力は想像の域を超えています! 相手にとって多勢に無勢です。ここは皆で囲み討ちるべきかと」
「ならぬっ!」
関羽の大喝で、進言した騎兵たちが沈黙する。
関羽とて、それがこの場での正論だとは承知している。
ここは戦場なのだ。命のやり取りが当たり前のように行わせている、殺し合いの場所なのだ。
甘い幻想や夢物語などは、弱矢よりも役にたたない。確固たる信念を抱き、ただひたすらに眼前の敵を屠る。
汚れのない純然たる殺し合いには、卑怯などという概念すら存在しない。望むらくは敵の殲滅。願わくは味方の生存。
ただただ、それだけである。
だからこそ、関羽は背中の兵たちに語りかけた。
「……もう、誰も死んでほしくないのだ。皆の気持ちは重々に伝わっている。だけどな、彼奴の前では敵わないのだ。ここは俺に任せてくれまいか」
結局のところ、関羽本人が一番甘いことを言っているのだ。
関羽に従う残りの騎兵は四十弱。無駄に散らす命とわかっていても、四十が四方から呂布を襲えば、多少の隙も生まれよう。
ともすれば、それを好機と呂布に先制を喰らわせることができるやもしれない。
四十の命と引き換えに。
だが、それができないのも関羽という人であった。
どこまでも清廉で、慈悲深く、蕩しいほど甘く、懐が深い。
「……呂布よ。お主が何故この世界でそのような姿になっているのか、俺には分からぬ。だが、お主が諸悪の元であるなら、何の迷いもない。お主をここで、斬る」
一方で、味方を害するものにはどこまでも峻厳で、激烈で、微塵の情けも容赦も無用。
それも関羽という人である。
偃月刀の切先の先にある呂布の表情が、幾分か和らいだ気がした。
「そ、ソレでこそ、関羽ヨ。オ、俺は長い間、こ、コノときを、ま、待っていたノかもしれヌ」
呂布が玉座から一歩、また一歩と降りてくる。
関羽も馬を歩ませ、間合いを詰めていく。
「フェルスタジナ軍、関羽雲長、見参! ———呂布よ、いざ尋常に、勝負!」
手綱を打つと、関羽が駆る駿馬が空に舞う。
今ここに、熾烈極まる死闘の火蓋が、いよいよ切られた。
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