三十四幕 拠り所
騎馬や歩兵は谷を下って最短距離で。
輜重隊は吊り橋を使って
クリグーズド領の最南端には、目指す
なので、クリグーズド領はアルガート帝国内では最も軍備が整い兵力を有する領地である。
だが翻せば、それだけ魔物の脅威に晒されていることに他ならない。
クリグーズド領を進むにつれ両軍は、それを目の当たりにすることとなる。
「……な、なんだってんだよ、この有様はよぉ!」
抑えられない感情をアーディンが吐き捨てる。その視線の先を関羽は追った。
無惨にも打ち壊された家屋の数々。人々の心の平穏を象徴する教会は焼き払われ、その残骸には十字架が傾き立っている。そして周囲には、腐敗を通り越し、もはや風化しつつある人の
「……ひどいものであるな」
だが関羽は、決して顔色を変えなかった。
隊を束ねる長として、不安を兵たちに伝播する訳にはいかない。
それに関羽は、これ以上の惨状を生前何度も目にしてきた。
慣れ、とまでは言わないが、関羽を恐怖たらしめるほどではない。
むしろ真逆。
関羽は静かに怒り、悲しんだ。
(さぞかし無念だったであろう。必ず悪の根源は断ち切る故、安らかに眠ってくれ)
まるで空が関羽の気持ちを代弁するように、涙に似た雨がしとしとと降り始めた。
††††††††
陽が沈むにつれ、雨粒も激しさを増していった。
魔王と称する魔物の親玉が、居を構える領地である。
クリグーズド領内に侵入してから、ついぞ魔物の姿は確認してはいないが、警戒を怠る道理はない。
本来であれば、見通しのきく荒野などが野営に適しているのだが、降り続ける雨は想像以上に兵の体力を奪ってしまう。
不確定な脅威よりも、確定的な減退を防ぐ判断は理にかなっている。
今宵はいくらか雨がしのげる森の中を、野営の場所に選んだ。
「んん? あれは……カンウ? こんな時間にどこにいくのかしら」
いつもならシエルの護衛も兼ねて、シエル専用の軍幕の側で体を休める関羽だが、一人何処かに向かって歩き出す。
女の勘、というやつなのかもしれない。
シエルは軍幕から
関羽はイレメスタ軍が駐屯する森の奥へと進んでいく。
それをシエルは木に隠れながら後を追う。
夜間の森でも彩を放つ、男が一人立っていた。
「お待ちしておりました、カンウ様」
慇懃にジャルクが
一際大きな軍幕まで案内すると、関羽を中へと誘導する。
関羽が軍幕に吸い込まれると、警備の兵がジャルクに駆け寄った。
「……ジャルク様。不審者が一名、木の影に隠れておりますが」
「よい。放っておけ」
「は、はぁ……」
想定内だとジャルクの顔が語っている。
それも自分が画策した、最も良い方向にだ。
シエルが軍幕にへばりつくのを横目で見ながら、ジャルクはほくそ笑んだ。
「役者は整った。さて、どうなるかは我が
一方軍幕の中。
野営とは程遠い設備が、整然と並べられていた。
清潔なシーツに包まれた、寝心地の良さそうな簡易ベッド。焚かれた香で甘い煙が軍幕内に充満している。
一目でそれとわかる高価なグラスに果実酒を満たし、アローラが細い腕を関羽に伸ばす。
「よくきてくれましたね、カンウ」
「俺に話とは、一体なんでござろうか」
差し出されたグラスは受け取らず、関羽は本題を切り出した。
アローラも、武骨な男のあしらいには慣れている。
「……せっかちな人ね。私はゆっくりあなたのことを知りたいのに」
「俺には領主の護衛もあります。あまり時間をかけたくない故」
「では単刀直入に。……カンウ。私の配下になりなさい。さすれば今の報酬の五倍……いえ、十倍は約束します」
この手の男に、まわりくどい物言いは逆効果である。
己の武を、最大限に評価してやれば良い。
これがもし商人ならば、わかりやすく利を提示する。
外交でイレメスタ領を統治するアローラが、身につけた
そしてもちろんのこと、それでもなびかない場合の手段も会得している。
「それとも
羽織っていた薄絹を、アローラは肩から滑らせた。
関羽は静かに目を閉じた。
過去の記憶が、脳裏に呼び覚まされたからである。
「余は関羽、お主を心から敬愛しておる」
場所は許都。
無論、人は遠ざけている。
見る者を威圧する鋭い眼光の持ち主———曹操が、盃を関羽に勧めた。
関羽に言葉はない。
黙って一口、酒を啜った。
「お主は金や官職で心揺れる男でないことはわかっている。だが無理だとわかっていても、余にはそれしか手立てがない。玄徳と過ごした時間の差を埋めるのに、余は与えることしかできないのだ。だが、それでは決して埋まることのない溝なのであろうな」
「曹操閣下がそう感じるのなら、きっとそうなのでしょう」
関羽は盃の酒を飲み干した。
すぐに曹操が酒を継ぎ足す。
「教えてくれ関羽。お主の気持ちを」
「ならばお答えしましょう。曹操閣下から頂いたものは、とても価値があり、身が温まるものばかりです。ですが……」
「私の話を聞いてますか! カンウ!」
美貌の歪んだアローラが、耳障りな金切り声を上げた。
金でも色でも眉ひとつ動かさない。
いや、己が無視されたことのほうが重要なのだろう。女の沽券に関わることだ。
昔を懐かしんでいた関羽が刮目する。
「あの小娘から、何をもらったの!? 何を約束されているの!? 答えなさい、カンウ!」
「とても大切で、得難いものを頂戴した」
「それは、何!?」
「我が心を温めてくれるもの。それは地位にも金にも変えられない、我が心の拠り所なのです。人である以上、それをなくしてしまったら前には進めない。我が心は、シエル殿下と共にあるのです」
「そ、そんなものじゃ、腹は満たされないし、富貴な生活も味わえない。どこに得があるっていうの!」
「これ以上アローラ殿下と話しても、無駄なことかと。……これにて失礼いたす」
軍幕を出ると、いきなりシエルが飛びついた。
「———カンウ!!」
「これはシエル。なぜこのようなところに!?」
「私……カンウにそんなに大したものを与えた覚えは……」
「いや、充分すぎるほど頂いておるぞ。シエルが気づいていないだけでな」
そういえば似たような答えを返したとき、曹操が呵呵と笑っていたことを思い出す。
ある者は愉快に笑い、またある者は腹を立てる。
人とはどうしてこんなにも、儚く愛おしいのであろうか。
関羽の顔に、自然と笑いが浮かび上がった。
「ねえカンウ。何を笑ってるの?」
「いや、なんでもござらん。……シエルはそのまま真っ直ぐに進んでいれば間違いはござらん」
「じゃ、逸れずに真っ直ぐ進むから、私の前からいなくならないでよね? カンウ」
「うわっははははっ! これは嬉しいことを言ってくれる。男冥利につきるというものぞ」
笑い声を残しながら、二人は仲間の元へと歩き始めた。
ただこの一件を境にして。
シエルが女として磨きをかけようと心に誓ったのは、また別の話。
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