十八幕 関羽の決意

 突き抜けるような空の蒼に、鳥がさえずりながら風を掴んで優雅に舞っていた。

 時折吹きすさぶ突風が、たわわに実った麦畑を揺らしていて、黄金色の小波さざなみが大地を駆け抜ける。


 その麦畑の畦道あぜみちには、台車を引く関羽と後ろから押すシエルの姿。二人は麦をフェルスタジナ城へ運搬する最中であった。


「シエル殿下。本当に護衛の兵はいらぬのでござるか?」

「シエルでいいって。今は殿下なんて呼ばないでよ。真っ昼間だしさ、城の周辺になんて滅多に魔物は出ないから大丈夫。それに護衛なんて、そんなぞろぞろ人を連れて歩くのは好きじゃないんだ。その点カンウさんがいれば、護衛の兵の何十人分の頼もしさだからね」 


 シエルのおもてに笑顔が咲く。


 城主として、さらには領主としての責務を果たしたその上で、シエルは家畜を養い麦を育てる遊牧民の暮らしを週に三日、欠かさず続けていた。


 それはもちろんフェルスタジナ領内での最上秘密事項トップシークレットである。知っている人間は、アーディンと関羽、それにヤージャ。加えてシエルが心を許した文官数人だけである。


 いつもであればヤージャに手伝ってもらう収穫物の運搬を、シエルの裏の生活を、何故に関羽が手伝っているのか。


 答えは至極簡単である。


 アーディンから聞き出した関羽の非番の日を見計らい、一日自分に付き合うよう使者を出したのだ。シエルにとっては軽く誘ったつもりであろうとも、曲がりなりにも領主の下知である。関羽に断るすべはない。


 領主と言えどまだ14歳の好奇心旺盛な年頃である。アーディンから関羽の素性のすべてを聞いたシエルは、ますます彼に興味を持ってしまったのだ。


 関羽からしてみれば、領主に個人的に呼び出されるなどたまったものではない。シエルを主と仰ぐアーディンの懐疑的な目に対しては、幾度となく弁明し肝を冷やしながら、現在に至る。


(アーディンの心配性にも困ったものよ。よもや間違いなどおこるはずもなかろうに)


 上下を繋ぎ合わせゆったりと作られた作業着が、まだ小さな膨らみをしっかりと覆い隠し、髪を束ねた頭には目深に被った大きめの帽子。

 最初に関羽と出会ったときと同じ格好は、余程まじまじと見なければ女性とは見抜けないだろう。


 城下町の住人にも、今だ露見していないことも頷ける。


(だが、休暇としての過ごし方であれば、悪くはないな)


 空では大小の鳥たちがなんとも楽しげに、頭上を旋回していた。


 土の匂いは心をどこか落ち着かせてくれる。

 日々蓄積されていた調練の疲れが、関羽の体からゆっくりと溶け出していった。


 ††††††††


「おばちゃん! いつもの麦を届けにきたよ!」

「おやおや、今日も精が出るねぇ。ちょっと待ってね。……はい、ご苦労さん。またお願いするね」


 城下町の定食屋に麦を納めたシエルは、恰幅の良い女店主から対価となる銀貨を八枚貰い受けた。


 アルガート帝国において流通している銀貨とは、それ一枚で家族四人が二日は暮らせる額である。ちなみに金貨の価値はその十倍、銅貨の価値は1/10と素直に比例する。


 関羽はその光景を、少し離れた路地から見守っていた。


 なにせ人目を引く体躯である。

 今後シエルのお忍びの活動に支障が出ないようにとの配慮からだ。


 当然ながら城下町に入る際にも、シエルと関羽は時間をずらした。門を守護する衛兵たちで、関羽の顔を知らない者はいないからである。


 人が大勢行き交う目抜き通りから枝分かれしている細い路地へと、空の荷台を走らせながらシエルが息を切らせて駆けてくる。


「今年は豊作だから売値はそれほどなんだけど、あそこの店は僕が作る麦を高く買ってくれるんだ」


 手にした銀貨を誇らしげに関羽へ見せると、大切そうに腰から下げた皮袋へと滑らせる。関羽も思わず笑みが溢れた。


「それは結構なこと。シエルが丹精込めて育てた麦であろう。……シエルが振る舞ってくれたトンカツは実に美味かった。この城下町で何度かトンカツを食べたのだが、あれに勝るものは一軒もなかった。妥当な評価と言うものであろう」

「へへへ。また食べにおいでよ。ヤージャもじっくり話がしたいってさ」


 と、一転。

 照れた顔が次第に翳りを見え始めると、うら寂しい路地へと同化する。シエルは華やかな目抜き通りに体を向け、背中の関羽へ声を出す。


「……ねえ。カンウさんは、この国の危機について知っているんだよね?」

「無論。アーディン殿が話してくださった」

「そう。じゃあ率直にどう思った? 聞かせておくれよ、カンウさんの感想を」


 この問いに対しては、さすがの関羽も言葉に詰まってしまう。


 未知の敵の脅威に晒されている国の危機。その猶予は残り一年弱。

 その力量も総数さえも定かではない強敵を打ち倒すのであるならば、国を挙げての総力戦が兵法にかなうものであり、皇子皇女を競わすなど下策である。


 しばし会話が断絶された。

 無言の刻に終止符を打ったのはシエルだった。

 

「……僕はね、王位継承なんて興味がないんだ。王なんて、兄さんたちの誰かがなればいいと思ってる。だけどね、みんなが幸せに暮らせる場所は守りたい。今この通りを楽しそうに歩いている人を、もっともっと増やしたい。本当にただ、それだけなんだよ。僕の願いは」


 笑顔が絶えない目抜き通りを眺めるシエルを見て、関羽は思い出す。

 それは前主君、いや、兄である劉備との思い出だった。




 劉備がまだ領地を持たない流軍の将として各地を転々としていた若かりし頃。


「なんでこーんなに広い土地なのに、くだらねぇ争いが絶えないのかねぇ」


 兵の数は二千弱。騎馬は300にも満たない。だが兵の数とは関係なしに進軍には兵馬の足を回復させる休息が必要である。

 

 散り散りと馬が草をみ、兵が腰を落として談笑をする中、劉備は大の字になり空を見上げて呟いた。


「それは漢王朝の衰退が原因なのは周知の事実。佞臣や逆賊が蔓延る朝廷から帝をお救いたてまつらなければ、この動乱は治まらぬでござろう」


 隣に立つ関羽は即座に答えた。


 義を持って国を立て直す。桃園の誓いから五年、なかなか実は結ばなくともその想いは少しも色褪せていない。だが、関羽は意外な言葉を耳にする。


「だーかーらー。雲長は頭が固えって言うんだよ」

「ぬ、それはどういう意味でござるか?」

「王朝だとか帝だとか、本当に必要かねぇ? そりゃまとめるモンがいなきゃ、国は成り立たないかも知れねーが、それは帝じゃなけりゃいけねーのかい?」

「これは大胆なことを言う。仮にも帝の傍系である兄者が言う台詞ではないのではござらぬか?」


 劉備は上半身を持ち上げて、関羽に向く。


「帝の傍系なんて所詮は飾りよ、飾り。大体民たちにとっちゃ、誰が帝だろーが関係ないって話よ。そんなモンにこだわるより、俺っちは小さくてもいいから戦のない平和な国を作りたいねぇ。もしそれが、俺じゃなくて雲長が帝にならなきゃいけないのなら、俺は喜んで従うぜ」

「……なっ!? それはあまりにも……」


 関羽は言葉を失ってしまう。

 漢王朝の復興が、万億の民を救済する唯一の道筋だと考えていたからだ。


「例えばだな。こんな争いが絶えない土地は捨てちまって、だーれにも見つからない場所を探して、そこで皆、面白楽しく幸せに暮らせば争いはなくなる。……どうだ? いい考えだろぉ?」


 国を心底憂い、民草のためにと誓いを立てた気持ちに嘘偽りは微塵にもない。

 ただこの尊敬に値するどこか憎めない兄弟を、世に押し上げようという想いがないと言ったら嘘になる。


 自分の中に埋もれていたさもしい虚栄心を寸分のたがいなく両断され、関羽は己の器の小ささ恥じた。


 そんな関羽の葛藤などつゆ知らず、劉備は空を見上げて呑気な声を響かせる。


「あの雲の上にでっけえ国を作れたら皆、笑顔で暮らせるんじゃねーかなー」


 劉備の隣で同じく大の字になっていた、末弟が初めて口を開いた。


「……でもよぅ長兄。どうやって雲の上になんて乗るんだよぉ」


「いっけねぇ。それは考えてなかったわ。益徳、お前ときどき鋭いな。ハハハハハハハハハ!」


 劉備の音声はそれだけで人を魅了する。その哄笑が空高く木霊した。




「……ねぇ、ねぇったら!! カンウさん、聞いてるの!?」


 関羽の意識は旧懐きゅうかいの刻から引き戻される。

 関羽は己の袖を引くシエルの手をそっと掴んで優しく離した。


 己の武は、このために。

 そう思わせてくれた二人目に、決意と熱気を融合させた眼差しを向け。


「この関羽、シエル殿下に命を捧げます」


 シエルの瞳に、片膝を地に落とし拝手する関羽の姿が映り込む。

 シエルの耳と頬は熱を帯びると、桃色に染まった。

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