第11話

 ラクーシャの忠告通り、同僚たちからの敵意の視線が向けられていた。


 しかし、それ以上に感じたのは嘲笑、嘲りの視線だ。


 視線だけではない。わざとらしく貶すような笑い。それがエレナに向けられていた。


 元々、真面目に仕事する者は少数だ。日々巡回し、争いを仲介し、犯罪を見かけた場合には捕縛する。


 ここまでやっているのはエレナ一人と言って良い。


 だからこそ、不真面目な騎士からは疎まれていた。


 ――劣等感を刺激する、ということなのだろうか。


 ラクーシャの言葉が思い浮かぶ。


 なぜこうも疎まれていたのか、ようやく理解が及んだ気がする。


「劣等感など抱くくらいならば、真面目に仕事すれば良い」


 と、思うのもラクーシャに言わせれば、強さなのだろうか。


 生来、努力せずに腐って生きるということがわからなかった。


 足りないのであれば、足りるまで積み上げれば良い。


 誰にだってできることだ。なければかき集めれば良い。


 だが、そうやって生きることは余人には難しいのだと薄々感づいてはいた。


 それでも、騎士ならば。それ相応の努力をしてきたはずだ。


 そうでなければ目指すことのできない立場なのだから。


 ――と、エレナは信じていたが。これは子供のような無邪気な発想なのだと現実は告げている。


 だが、それが何だというのだ。今までと何も変わらない。追従して真面目に働く者がいないとわかっただけだ。


 くすくすと、笑い声が聞こえる。


「……ふう」


 さすがにうっとうしくなってきたエレナは、部屋を移動した。


 寄宿舎から出ることは許可されていないから、寄宿舎で人が寄りつかない場所……まあ、ほこりっぽい備品庫であれば良いだろう。


 備品庫は、真面目に仕事をすればすり減った備品を補充するためによく立ち寄るだろうが、ここではもっぱら備品を横領す(がめ)るために騎士が立ち寄るくらいだ。


 横領は半ば当たり前に行われているため、備品は最低限しか補充されない。その補充された物も誰かが持って行ってしまうため質が低い物だけが残る。


 つまり、夜に立ち寄る人間はいないのだ。


 エレナは備品庫へと入ると、窓を開けた。


 充満していた埃が、窓の外へと逃げていき、新鮮な空気と淀んだ空気が緩やかに入れ替わっていく。


 十分ほどもすれば換気も完了するだろう。エレナは窓際に身を乗り出し、外の空気を吸った。


「はあ……」


 エレナが深呼吸をしたとき、足下から声がした。


「どうかしましたか」


 それは男の声だった。


 足元に目を向けると、気配を消して影に同化している筋肉質の男がいた。


「キミか。すまんな。誰かに見られていたようだ」


「バレましたか」


 オーガストは意外そうな声を上げる。


「人の目は気にしていたはずなんですが……」


「うん。私もそう思っていたのだが、人の目はどこにだってあるらしい。砂の中には隠れられないということだな」


「クビにされたわけではなさそうですね」


「あくまで真偽不明の噂という扱いのようだ。だから、謹慎だ」


「で、あればよかった」


「……一人で先走るなよ」


 隠れてやり過ごすと言っていながら、闇討ちを仕掛けていたように、この男は向こう見ずだ。男としての恐怖を持ち合わせておらず、強さに絶対の自信があるらしい。


「そういうわけにもいきません。ここでやめてしまえば、あなたが犯人だと言っているようなものだ」


「そう思わせるために停止した、とも考えられる」


「そんな回りくどい考えをここの住人がしますか。今度こそクビになりますよ」


 オーガストはやれやれとため息を吐く。


「今でさえ、疑惑の段階で謹慎を与えられているのです。なれば、犯人と思わしき状況を作られれば、その状況に則った処理をされかねない」


「騎士団長はそういう判断を下さない、と信じたいものだ」


「危険は犯さないにこしたことはないですよ」


「キミが言うか」


 エレナはあきれ混じりに言った。


「はは。とにかく、しばらくは私一人でやりますよ」


「無茶はするなよ」


「ええ。無茶のしようもありませんから」


 ウインドミルの構成員は今や表には一切出てこず厳戒態勢を敷いているようだった。


 危機には敏感な住民も、肌感覚で察しているのかエリア全体が奇妙な緊張感に包まれている。


「いくら構成員を把握していても、ひとかたまりに潜られているのなら手の出しようもありません」


「厳戒態勢下でも、さらしあげたからなおさら表には出てこないだろう。他組織につけこまれることも危惧しているだろうし、ここまで来ればことを急く必要もない」


「わかっていますよ。無茶はしません」


「ならば良い」




 犯罪者が活発に行動し始める夜、路地裏はいつもより賑やかだった。


 怒気と、せわしない人のやりとり、そして走り回る幾人かのチンピラ。


「そっちに行ったぞ!」


 逃げている者と、追っている者。普通であれば、この騒ぎを見に来る野次馬や、止めに入る者もいるかもしれないがあいにくとここはトンプソンエリアである。


 このようなことは日常茶飯事で誰も気にしない。精々が、追いかけられている者が気絶、ないしは死体となった時に浮浪児たちが身につけている金目の物を漁りに来るくらいだ。


 追いかけられている者はうまく追っ手を交わしきることができない。地理感覚が薄いのか、妙にもたついた逃走経路を辿りエリアでもより危険な方へと逃げて行ってしまっていた。


 路地裏の四方から詰め寄る女たちの数は徐々に増えていき、どこかへ誘導しているような追い方である。


 辛うじて捕まらないまま逃げ続けた者は、そのまま導かれるようにとある薄汚れ、朽ちかけた建物へと入ってようやく終着点を知り、足を止めたのだった。


「ようこそ。わざわざ来てくれるなんてうれしいね」


 胸元に一際大きな風車の入れ墨を入れた女――ヴァンがそこにはいた。


「……」


 追われていた者は、素性を隠す装いをしていたが、それでも呆然としているのが伝わってくる。


「ふふ、苦労したんだ。男のくせにちょびっとばかし腕がたつからね。雑魚どもは蹴散らされるし、醜聞で舐めた態度をとる馬鹿は多いし……全部お前のせいだよ」


 ヴァンは上機嫌に腕を広げて語る。


 もちろんその間にも獲物を逃がさないように風車の入れ墨を入れた女たちが、建物を取り囲んでいた。


 視線は中心にいる追われていた者に向けられ、これから起こすことへの期待で巻き起こる悍ましい熱気に包まれていた。


「始まりはなんだったか。――そう、お前が分不相応に上納金を断ったことからだ。男は女に金を払って安全に暮らす。それが常識だろう?」


 なあ、とヴァンは問いかけるが、答えを返す者はいない。それでもヴァンはうんうんとうなずき、言葉を続けた。


「あまつさえ、お前ははした金で妙な使いっ走りを始めるときた」


 ガリ、とヴァンの胸に傷が走る。


「お前は本当に些細なはした金で何だってした。――身体を売ること以外は。いや、お前のような男を買うくらいなら、そこらの場末の男を買うから、需要がなかっただけだろうがね」


 ヴァンの腕を上げる合図と共に、建物の中へ部下が入ってくる。


 ……もはや逃げ場はない。


「なあ、オーガスト・ダン=ピストンド君。全部キミが悪いんだよ。なんだってはした金でもめ事を解決して、あげくにはウチの構成員を半殺しにするのかな? 頭を垂れて納めればよかったじゃあないか」


「……ふうん」


 素性を隠していた者が初めて、声を発した。


 その瞬間、取り囲んでいた者たち、とりわけヴァンに緊張が走る。


 その者の声は男のものとは違い、掠れ気味だが男とは別種の艶やかさがあった。


「全部キミが巻いた種じゃないか」


 呆れ果てた女の声。


「エレナ=トンプソン――」


 ヴァンが忌々しく叫んだ、その瞬間である。


 ガコン、と何かが外れる音が建物に響いた。


「――」


 何の音だ、と誰もが疑問に動きを止める。まさにその瞬間たたみかけるようにギシギシと軋む音に変わった。


 ヴァンの顔が青ざめる。


「逃げ――」


 事態を悟った誰かの叫びをかき消すように彼らを取り囲む屋根が、壁が、建物が――崩壊した。


 上がる悲鳴も、破壊音がすべて飲み込んでいく。


 砂地獄に飲み込まれたかのような、一瞬の出来事だった。


 瞬きの間に建物はすべてを巻き込んだ瓦礫の山へと変貌していた。


 そして、その瓦礫を見つめる男が一人。


「大きな建物が崩れる様というのは、中々爽快なものですね」


 誘い込まれたはずのオーガストが、瓦礫の山の麓にひょいと顔を出して瓦礫の山へと飛び乗る。


「生きてますか?」


 オーガストが瓦礫へと呼びかける。


 その声に返事するように、瓦礫の一角が吹き飛ぶ。


「ああ、服がどろどろに汚れてしまったが、なんとか無事だよ。おかげさまで」


 どこか不満げな声と共に、瓦礫の中からエレナが這い上がってくる。泥にまみれ疲労困憊な姿は浮浪者と見間違うほどだ。


「くそっ、もう少し手はなかったのか」


 エレナの着込む騎士服が脈動してほのかに光っていた。これこそが、本来の騎士服の使い方なのである。


 騎士服を編むための繊維は、すべて生命樹。


 成長を封じるように編み込まれた生命樹はそのまま使うよりも遙かに扱いやすく、安全性を確保できる。


 爆発的な力を抑える代わりに安全性を確保したケセドといえよう。


 その隊服にエレナの生命力を限界まで食わせて、建物の崩壊から身を守ったのだ。


 建物の崩壊というかなりの質量から身を守るための生命力は莫大で、これ一回でエレナの生命力は枯渇しかけ、騎士服も崩壊寸前である。


「ああ、疲れた」


 エレナは瓦礫に座り込む。


「お疲れ様です」


「全くだ。これ以上生命力を絞り出したら死ぬ」


「それにしても、謹慎を破って良かったんですか」


「出世の目はなくなったな」


 エレナは皮肉った笑みを浮かべた。


 ――トンプソンエリアから出られない以上、出世の見込みなぞないが。


「騎士服も朽ちかけだ。どうにかごまかした方がいいかもしれんな……」


 ――ガラガラと、遠くで瓦礫が崩れる音がした。


「……」


 オーガストは素早く音の方向へ向き直るが、エレナにその元気はない。


「どうした。瓦礫が崩壊しただけだろう」


「……」


 オーガストは答えない。その代わりに女の声が、返ってきた。


「ふざけてるぜ。ああ、ふざけてる」


「生きているとは……」


 オーガストが驚き混じりにつぶやく。


「糞ったれ……こんなもん馬鹿な奴に着させてりゃ十分だったのによォ」


 忌々しげな女の声。エレナが顔を向けると、身体を生命樹の鎧で覆ったヴァンが瓦礫の上に立っていた。


「――逃げられるか?」


「いえ……」


「逃がすと思うか?」


 怒りが臨界点を超えているのか、声に色が消えていた。


 ヴァンは瓦礫の上で無造作に立っている。だが、視線は二人に固定され、一挙手一投足に偏執的な視線を送られているのを、本能的に感じていた。


「オーガストくん。私を見捨てれば、逃げられる可能性は?」


 オーガストは意外そうな顔をして、エレナに視線を送った。


「無理でしょうね。動けない貴方を殺すのに足を止める必要はありません」


「私が人質にされたり、危ない目にあっても見捨てるといい。危なくなったら自分の命を優先してくれ」


「ずいぶんとあっさりと命を捨てますね」


「――男の足を引っ張って無様を晒すのはごめんだね」


「騎士として?」


「女として、さ」


 オーガストはふ、と笑みを浮かべる。


「では武術家として、貴方を守って見せましょう」


 オーガストは瓦礫を踏みしめ、臨戦態勢をとった。


「男が女に逆らうもんじゃねえよ」


 ヴァンは呆れた風にため息をする。


「ちっとばかし鍛えている風だが、何ができる。どれだけ鍛えようが、子を孕む余分もねえ生命体が勝てるとでも?」


 ヴァンは鎧の上から胸に爪を立てた。ガリガリと鎧をかきむしりながら、言いつのる。


「男は媚びて腰を振っておくもんだぜ。柔い拳で何を殴ろうってんだ、ええ?」


 怒りを食っているかのように、ボコボコと身体が膨れ上がっていく。


 全身を覆う生命樹が、ヴァンの命を食らって成長しているのだ。


 馬鹿にする言葉を吐きながらも、ヴァンの選択は極めて冷静だった。


 すなわち、過剰な力で一方的に押しつぶす。


 そしてそれは、古今から女が男に対する態度でもあった。


 圧倒的な力による序列の固定化。これこそが男と女の関係の真理だとでも言いたげにオーガストを見下す。


「殺してくれと泣きわめくまでやぶってやるよ」


 ヴァンの体躯が倍以上に膨れ上がる。


「逃げろ」


 過剰なケセドの成長に、エレナは戦慄する。


 怒りに満ち見下した態度こそ取っているが、その瞳に理性は確かに宿っている。ケセドに飲まれず制御下に置いている証拠だ。


 あれは、万全なエレナでもどうしようもない。


 焦りに任せてやはり逃げろと、エレナはオーガストを見た。


「オーガス――」


「死ね」


 パン、と空気が弾ける音がした。


「――ト……?」


「……がっ」


 苦悶の声。


「甘い甘い。目に見えないほどの速さと、目に見えない速さには天と地ほどの差があるんですよ」


 楽しげなオーガストの声。


 オーガストはヴァンの腕に手を添えて立っている。


 文字通り目には見えない速さで突進し、オーガストを殴りつけたはずの腕は肘関節からへし折れていた。


 骨が突き出しているのか、関節の内側に突き出ている。


オーガストは突き出された拳を紙一重で見極め、関節の逆側を蹴り砕いたのだ。


 苦悶の表情で反射的に腰を引いて頭を下げたヴァンに、オーガストは膝蹴りを見舞った。


「ぐはっ」


 鼻から血を吹き出しながら、反動で頭が上がったヴァンの折れた腕を引っ張ってもう一撃、顔面を真っ直ぐ蹴り抜いた。


「があっ!?」


 悶絶したままなされるがままのヴァンである。


 折れた腕を引き抜くこともできず、鼻とと口の中は血であふれ、呼吸もままならない。 瀕死と言って良いだろう。それでも、オーガストは手を抜かなかった。


 悶絶して前後不覚となった相手の脳天にかかとが刺さる。


 足下の瓦礫に埋め込まれた女は、その顔を上げることなく沈黙したのだった。


「……」


 エレナは絶句していた。まさか、一方的にたたきのめすとは思ってもいなかった。


 そもそも、勝つことを考えていなかった。所詮は男である。生命樹も持っていない。そんな中で、勝つと確信できる方がおかしい。


 それが、ただの体術。男の、たいした出力の出ない肉体での技術。


 それが、ケセドと着込んだ女に勝つなんて。


「……すごいな」


 エレナはなんと言って良いかわからず、人並みの感想を漏らした。


「もちろんトリックはありますよ」


 オーガストは苦笑いをする。


「まず、この人は怒りに駆られて、我々を死ぬより酷い目に遭わす、という目的があった」


 ピン、と指を立て浪々と語る。


「次に、生命樹を過剰な成長をさせて、一撃で済ませようとしましたね。つまり、この人はなんだかんだといって合理性を重視しているのです。加えて肉体操作の修練などは当然積んでいない」


「そうだな」


 エレナは頷いた。少し考えれば、誰だって読み解けるパーソナルだろう。


「そして、この人は男を見下す傾向が強い」


 オーガストは笑みを浮かべて、伏しているヴァンを見た。


「ならば簡単でしょう。フェイントはなし。攻撃は最速で一直線に向かってくる。加えて、ケセドで強化された肉体とはいえ、技術はないのだから人体の癖を消すという発想がない。ならば目に見えない速さで動けても速度が乗っていない踏み込みは誰だって見分けられるでしょう。そして、嬲り者にしたいのだから、はじめの一撃で殺す気はない」


 オーガストは楽しげに手を鳴らした。


「ここまでわかれば攻撃を見極めるのは容易いことです。手加減の意識があればなおさらね」


「理屈はわかったが……」


 理屈通りにいけば何も苦労はしないのだが、この男にとっては違うらしい。


 簡単な洞察に命を投げ捨てる度胸。男が持ち合わせて良いものではない、とエレナは思った。


「……何を言っても無駄だろうが、キミは無茶がすぎるな」


「ははは」


 オーガストは柔和は笑みを浮かべた。


「笑ってごまかすんじゃあない」


 この男は人よりも獣のような感覚で生きているのか、人に理解してもらおうという思いがないらしい。


 すべて自分がどうしたいか、どうするかで完結している。


 もっとも、そうでなくては男の身でここまでの修練を積むことはできないのだろうが。「さて。今回の騒動に関しては、大方、片がつきましたね」


 オーガストは座り込んだエレナに手を差し伸べる。


 差し出された手を、エレナはじっとみつめて、ぽつりと言った。


「いや、まだ残ってる」

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