第11話:三年目-夏後編3


心臓の鼓動が全身に響く。

玄関の扉に手をかけたまま、浅く呼吸を繰り返し自分を落ち着かせた。

これはきっと、ここまで問題を後回しにしてきたツケなのだ。

小さな嘘も嘘だと言えずに時間が立つと、今更嘘だと言えなくなる心境に近いかもしれない。

これは僕が前に進む為には必要な事だ。

自分に言い聞かせると、僕は力の入らない足で境界を超えた。


玄関で靴を脱ぐと上り框を跨いで廊下に立つ。

それは何の事はない普通の家であった。

しかし、さっきまでゆーれいちゃんが居たとは思えない伽藍洞。

足は自然と僕の理外を歩く。

始めて来たゆーれいちゃんの家は自宅の様に慣れ親しんだものに感じられ、迷うことなく階段を一歩一歩あがって行く。幾つか見える部屋の扉、ちょうど中程にある扉の前で僕の足は理外から立ち返って立ち止まった。

ここがゆーれいちゃんの部屋なのだろう。

玄関をくぐってからは妙に落ち着いていた。

入るまでにあった躊躇いや不安が薄れ、目の前にある扉を開くのが当たり前だと感じていた。今に思えば境界を超える前の不安は虫の知らせだったのだろう。

僕は頭の片隅では冷静に危機感を捉えていたが、脳内の大部分がぼやけており、柔らかい綿が危機感を弛く抑えているのを何となく理解していた。


僕は抗うことなく、誘われるままに、目の前のドアを開く。

躊躇いはなかったが動作は緩慢であった。

一つ一つの動作を確認するようにドアノブに手を置き、ノブを回し、ノブが回り切ったことを確認してから僅かにドアを引き寄せる。ドアはスムーズに開き音もない。引き寄せたドアを避けるように半歩位置を移動し、更にドアを開く。ようやく人が通れる隙間を確保したドアから手を離し、部屋へと一歩踏み出した。

入り口正面に設けられた窓が開いている。夕暮れ時ではあるが、まだ明るい外光に照らされ満足な明るさがあった。この部屋にたどり着くまで屋内という事もありどこか停滞した空気感を感じていたが、ドアを開けた途端に流れた空気が肌を撫でる。同時に白いレースのカーテンが揺らめいた。


初めて踏み入ったゆーれいちゃんの部屋。

どこにでもあるような個室にも関わらず、何故か僕はこの部屋に開放感を覚えていた。

「ねぇ、ドアくらい閉めてよ」

不意の声に僕は身体を強張らせる。

声は入り口から右側、綺麗に整えられたベッドの方から聞こえた。声に促されてドアを手早く締めてから、遅れて返事を返す。

「ん、ごめん」

「立ってないで適当に座ったら? そこの椅子とか」

恐らく窓を挟んでベッドの反対側にある勉強机の椅子を指しているのだろう。僕は平静を装ってベッド側に椅子向けると腰を下ろした。

「どう? わたしの部屋」

「何か思ったより普通だね。もっとオカルトっぽいものあると思ってたよ」

「なにそれー。私はもっぱらスマホが情報源なんだよー」

「うん、そっか。最近って学校には来てたの?」

「ゆーくんがいじめるからなぁ。私が居ても居なくても変わんないみたいだし、どっちだろうねー」

「少なくとも同好会の教室には来なかったよね」

「どーかなー」

「僕さ、ゆーれいちゃんは見えないけど一緒に活動したあの空き室限定で、ゆーれいちゃんが居るかわかるんだよね」

「なにそれ、ストーカーなの?」

「……違うよ」

「ほんとかなぁ、今日だって家に押しかけて来るしさぁ」

表情の分からない彼女の機嫌は声でしか判断できない。その声からは疑惑の色が見て取れた。

「それはごめん。でも、夏休み前にゆーれいちゃんと仲直りしておきたくて……」

「ふぅん。まぁ、いいよ。と言うか、別に怒ってないよ」

「ほんと?」

「ちょっとイラッとしたけど、ご飯食べて寝たらどうでも良くなっちゃった」

「じゃあ学校には来てたの?」

「うん。でも何かやる気なかったから寝てたかサボってたかな。ゆーくんと話すのが何となく気まずかったし」

「僕のせいなの?」

「そうだよ。留年したらゆーくんのせい」

「酷いなぁ」

本当に酷い。この約三年間で培ってきたゆーれいちゃんとの関係は、きっと終わる。そも声しか聞こえない相手と付き合ってきた自分を褒めたいくらいだ。それでも僕はこの関係が切れない様に、今もこうして食いついている。


開放された窓から穏やかに風が流れる。

目に見えない風ですら、白いレースを揺らす事で存在を主張していた。

風はゆーれいちゃん、白いレースは声。

僕からすれば、ゆーれいちゃんは風そのものであった。

だからこそ、何処へでも行きそうで怖い。

ゆーれいちゃんを見る事ができなくて怖い。

ゆーれいちゃんを捕まえる事ができなくて怖い。

僕の気持ちは、風には届かない。


誰もいないベッドを眺める。

ただのベットを眺める。

僕には何も認識できないが、きっとそこには僕にとって大切な物があるはずであった。

あると思い込んでいる。

その何もないベッドから不意に声が届いた。

「あ、そうだ。ゆーくん、机の一番上に何か黄色くて大きいのあるよね。それ中学校の卒業アルバムなんだけど見てみる? もしかしたら私の事見れるかもしれないよ?」

「見ていいの?」

「うん、いいよ。頑張って探して。私は文明の利器でオカルトめぐりしてるから見つけたら教えてね」

僕はゆーれいちゃんの言葉に従い黄色くて大きいものを手に取った。厚紙でできたケースからアルバムを抜き取る。アルバムは艶のあるフィルムで化粧された物であった。僕は1ページ目から順に読み勧めていく。幽谷なんて名字は多くない。クラス毎の卒業写真を後ろから見れば、すぐに名前があるかどうかは判別できた。だが、如何せん量が多い。ゆーれいちゃんの卒業校は市内でも最も学生が多い中学校である。同時に読み進める内に目につく行事の写真は僕自身の過去も想起させ、手を止めさせた。幾分時間はかかったが7割ほど進めた所で幽谷の名を見つけるに至る。窓から差し込む陽光は仄暗さを感じさせ、僕は無意識に顔を上げた。窓の外は宵闇が顔を出している。ゆーれいちゃんはその間一言も発していない。僕は幽谷の名前を改めて認識してから、名前の上にある顔写真に目を向けた。

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