第10話:三年目-夏後編2
僕は寺田先生の言葉に従い、一度帰宅して着替えてから隣町へと向かった。僕の僅かな算段として帽子を深く被り顔を隠すように電車に乗る。これならきっと夜になっても声をかけられる事はないだろう。タイミングよく警邏中の警官に声を掛けられる事もそうないはずだ。ただ僕は、幽霊ちゃんの事を考えているうちに隣町の駅に立っていた。それは数年前に来たのが最後だったはずだが、存外にしっくりとくる街で自分が生活している街のような感覚に陥った。駅を出て街を歩く。目的地はわからないが、それでも足は目的地を知るように歩いていく。僕自身何処かに向かっているつもりはなかった。だが自然と足は進んだ。迷わずにたどり着いた家は根拠もなく、ユーレイちゃんの家だと僕は確信していた。呼び鈴を鳴らそうとして躊躇う。本当にユーレイちゃんの家なのだろうか。標識に目を落とすと確かに幽谷と書かれていた。そう多い苗字でもない。僕は少ない勇気を振り絞り呼び鈴を鳴らした。
僕からは何も聞こえない。呼び鈴の音が消えていない限りは誰かがいれば聞こえているはず。僕はもう一度呼び鈴を鳴らす。堪え性がないのか気が急いていたのか、体感的には1分程度で2回目の呼び鈴を鳴らした気がした。呼鈴が通電したのかプツっと音がする。
「はい」
その聞き慣れた声に言葉が詰まった。
「あの、えっと……」
「……ゆーくん?」
「うん。……ゆーれいちゃん、だよね」
「……うん」
「えっと……」
言葉が続かない。色々と話したいことはある。だか躊躇いが強かった。何を話そうか、何から切り出せばいいのか。色々と考えていたはずなのに、その全てがゆーれいちゃんの事を声を聞いただけで泡沫と消えた。カチャリと金属音が聞こえると、玄関の扉が開いた。
「……何」
「いや、えっと……」
以前見えない彼女は玄関の扉を開け、隙間からこちらを覗いているように感じられた。
「その、しばらく会ってなかった気がして……」
「……なにそれ、私に会いたかったの?」
「……うん」
会話の間が長い。たぶん普段とそんなに変わらない間の長さなのだろう。僕の気持ちが浮足立っているせいで体感的に間が長く感じているのだ。扉が閉まらない所を見ると、ゆーれいちゃんは僕の前にいてくれているはず。そう判断して僕は返事を待てずに口を開いていた。
「ゆーれいちゃん、この前はごめん。怒らせたかったわけじゃないんだ。ただ、その……見えないのは本当で……。今も見えてなくて……。でも、会いたかったのも本当で……」
ゆーれいちゃんは何も言わない。しかし、朧げながらに僕はその存在を感じていた。
「僕はもっとゆーれいちゃんと話したくて……。ゆーれいちゃんの事を自分の目で見たくて……。僕達ももう3年で残り半年くらいしか時間がなくて……」
そう、もう夏休みに入ってしまう。ここまで何も考えていなかった将来についても考えなければならない。その場しのぎで進学という体を取ってはいたが、僕が本当に学校を卒業する為には先に片付けなければならない問題が目の前に、3年近く前から、傍にあった。
「ゆーれいちゃん、僕は君の事が見えない。それでも僕はゆーれいちゃんともっと──」
キィと金属の擦れる音が言葉を遮った。僅かに扉が開いた事を認めると同時に彼女の存在が空気に希釈された。見えない彼女は僕の前から遠のいたのだ。しかし、扉が閉まることはない。それは中に招かれているのだと解釈した僕は恐る恐る扉のノブに手を掛けて家の中へ、敷居を跨ごうとして違和感に気がついた。気がついた瞬間、言いようのない不安が胸を締め付けて鼓動を早くした。
──扉が開いている?
どうやってここまで来た?
何も考えずに歩いた結果たどり着いた。
僕はゆーれいちゃんの家の場所を知っている?
寺田先生に隣町に住んでいるとしか聞いていない。
誰が玄関を開けた?
ここはゆーれいちゃんの家だ。
僕は誰と話した?
間違えるわけがない、ゆーれいちゃんだ。
玄関の扉は開いたまま、ただ何かを待っているように思えた。
怪談の類でよく聞く話がある。
幽霊は自分からは扉や窓を開けて家の中へは入れない。
誰かが招くことで、中へ入ることができる。
中があるという事は外があるということだ。
内外があるのであれば境界も存在する。
その境界を踏み越えるために必要な行為が、相手に招き入れられることなのだ。
僕は今、外から中へ入ろうとしている。
玄関の扉で隔たれた境界を越えようとしている。
ゆーれいちゃんが開いた扉を潜ろうとしている。
彼女の起こしているはずの事象は何一つ認識できていなかった僕が、初めて声以外で認識できた事象。
あぁ、オカルト脳が恨めしい。
僕は今、この境界を超えるべきか躊躇いがあった。
あまりにも都合が良い流れに、僕は招かれたのだと否応なく理解させられていたからだ。
僕がゆーれいちゃんを探した結果辿り着いたのではない。
──ゆーれいちゃんが僕をここへ招いたのだ。
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