第111話 帰らぬ人の帰郷 (2)
当然といえば当然だが、根岸の打ち明けた話に家族は全員、仰天した。
「い――家を一軒貰うって」
衝撃からまず立ち直り、そう発言したのは
「しかも、都指定特殊文化財? 明治時代建造の邸宅? あのさ兄貴っ――そんなもん、どう管理するんだよ。ちょっと床掃除するのも大変なんじゃないか?」
「
「いや、リョウの言うとおりだ」
根岸は弟に向けて首肯した。
ちなみに、母の
「建物丸ごと文化財だから、きちんと
「雁枝さんの結界……雁枝ってひとは、ええと」
復唱しかけた涼二郎がまごついた。
「今の
「吸血女って、人間の血を吸うアレ?」
「そのひとは長い間吸ってないけどね」
不安げに自分の腕を擦る小春に対して、根岸は説明する。しかし彼女は小さく首を振った。
「そんなの、分かんないじゃん。ってか昔は吸血してたって事でしょ。ねえ、
小春の眼差しは真剣だ。彼女は本気で根岸を心配している。
「『悪い怪異』かどうかの判断は難しいな。怪異の善悪の感覚って、人間とは少しずれてるから」
「なに怪異側みたいな事言ってんの?」
「怪異だよ、僕は」
するりと落とされた根岸の言葉に、小春が息を呑んだ。
「もう人間じゃない。こうして、家族として家に上げてくれるのは凄く嬉しいけど、でも別の生き物だ。敵対する怪異をこの手で殺したし、人が死ぬのも怪異が死ぬのも見送った。そして……人を殺してきた怪異を今、仲間だと思ってる」
ミケも、血流し十文字も、恐らくは雁枝も。彼らの多くは殺人を経験している。根岸はそれを知った上で、既に心の中で、彼らを受け入れてしまっている。
この感情は最早、後戻りのきかないものかもしれない。そんな予感がする。
「おい、小春にそんな話聞かせるな」
堪りかねた様子で涼二郎が苦言を呈した。
「いや、どこかで言っておかないとと思って」
「分かったよ」
ひとつ溜息を吐いて、涼二郎は両親に話を伝える。
「要するに兄貴は」
と、彼は最後に付け加えた。
「もう、完全にあっち側で……怪異に囲まれて、怪異としての役目を果たして生きてくつもりなんだな」
「当面、トクブンでも働くけど。人間の通貨もいくらか必要だし」
「やめてよ!」
突然、小春が声を張り上げる。
「そんな言い方! 人間の通貨、だなんて! 人間じゃないみたいな――人間じゃないのは分かるけど――」
首を振り、腕を広げて主張を続けようとするも、そこで彼女は声を詰まらせた。両目に涙が滲んでいる。
「うちにっ――帰ってくればいいじゃん! 仕事とか役目とか、そんなのどうだっていいでしょ!?
どうにか叫び声を絞り出し、勢いのまま椅子を蹴って立ち上がった小春は、リビングを出て行った。
「小春!」
奈緒子が咎めるとも困惑ともつかない表情で腰を上げかける。しかし彼女は結局、嘆息して再び席についた。
それを見届けてから、今までほとんど押し黙っていた定明が口を開く。
「秋太郎。お前はこの家にもう、戻らないのか」
言葉足らずな物言いだったが、問いかけの意味するところは重かった。
根岸は少し逡巡してから答える。
「……しばらくは、来ない方がいいと思ってる」
家族に『
以前、反怪異を掲げる国際テロ組織と邂逅した事も、詳細は明かしていない。
――怪異を嫌う物騒な連中がいるから気をつけてくれ。自分が怪異となった事実は周囲にあまり知られない方が良い。
そう連絡を入れるに
彼らを『こちら側』に巻き込みたくはないのだ。ただ平穏に暮らしてくれるならば、二度と会えなくても良いとすら思う。
「前に、電話で軽く話したとおり……反怪異を掲げる危険な組織がある。彼らは普通の人間だって平気で殺す。その組織には僕の存在も、ミケさんの――大事な仲間の存在も知られてる。今回の事件で、もっと大勢に知られたはずだ」
一度両目を閉ざしてから、根岸は続けた。
「怪異も味方ばかりじゃない。小春が言ってた『悪い怪異』ってのも勿論いる。僕は……説明すると長くなるけど……屋敷と一緒に、とある役目を継ぐつもりなんだ。怪異の起こす厄介事に、関わっていくことになる」
だから――と、根岸は順々に家族の顔を見比べた。
「とりあえず、安全が確保出来るまではここに来ない」
涼二郎が根岸の言葉を両親に伝え、定明は「そうか」と短く相槌を打ったきりまた沈黙する。
根岸は俯き気味の奈緒子の方に首を向けた。
反怪異組織や危険な怪異との関わり以外に、もう一つ単純な話をすると、奈緒子にとって姿の見えない怪異が家の中をうろついている状況は、割り合い危険である。
うっかりぶつかるかもしれないし、細々した物が消えたり現れたりもする事になる。
何より、家族の一人が確かにそこにいるのに見えない、という事実を常に意識させられるのは、彼女にとって辛い事ではないかと思えた。
沈思する根岸の前で、奈緒子はふうっと、再び深く息を吐く。この一年分の心労がそこに篭められていた。
「……これって、罰なのかしら」
ごく小さな声で、奈緒子は呟いた。
「よしてくれ」
すぐさま、定明が制止の声をかける。しかし奈緒子の言葉は止まらなかった。
「私が……私が秋太郎を信じてあげられなかったのが、全部の始まりだったじゃないの。だから、今こうして罰を受けてる……秋太郎はそこにいるのに、会う事も出来ない」
「そんなんじゃない。そんな訳ないよ母さん!」
思わず、ほとんど叫ぶように根岸は口走った。涼二郎が辛そうに視線を寄越したが、母は反応を示さない。
「見える見えないってのはただの体質なんだ。誰が悪いとか、罰だなんて話にはなりようがない。僕は、昔の事なんか気にしてない」
単なる独白に近かったが、根岸はそう続けた。
厳密には、気にしていないというのは嘘だ。奈緒子がずっと後悔に苛まれてきた事を、根岸は知っている。過去の出来事はともかく、彼女のその感情については気にかかっていた。
過去の出来事――それは根岸が、初めて霊感を発現させた時の、ほんの些細な事件だった。
◇
人間が霊感体質を発現させるかどうか。
それは多くの場合、十歳頃までに決まると言われている。
だが例外もある。根岸はその例外で、小学六年生の時に初めて、強い霊感を
思春期に差し掛かる頃になって霊感を強める子供には共通点が見られる。
事故、引っ越しなどによる環境の変化、人間関係の変化、身近な人の死。そうした出来事が発現の切っ掛けになるのだ。
つまりはストレスにより精神が揺らいだ時に、物理法則を超えた
根岸秋太郎のケースにおいては、彼の母方の祖父母と、愛犬の死が切っ掛けだった。
――祖父母は、根岸の家の近くに住んでいた。車で十五分程の所にある自然の多い郊外だ。
祖父の死は突然訪れた。
ある朝に家の玄関で倒れて、それっきりだった。
仲睦まじい夫婦だったからこそ余計に、祖母は深刻に自分を責めた。
私が早く気づいていればと繰り返し泣き続け、塞ぎ込んで、間もなく身体を壊すと共に、認知に異変を
結局、祖父の死から一年もしないうちに祖母は後を追うようにして静かに息を引き取ったが――
しかしそれまでの間、親族の中で最も近所に住んでいた奈緒子は随分と心を痛めたし、生活の世話に入院手続きにと、実務的な苦労もあった。
小学生とはいえ、根岸はそれなりに大人達の動揺や失意の理解出来る年齢になっていた。
弟や妹はまだ幼い。自分がしっかりしなければと、子供なりに決意した。
そんな彼の一番の相棒は、赤ん坊の時から変わらず、愛犬のムギである。
メスの柴犬で、もう十五歳にもなる。根岸より年上で、彼にとっては姉のようなものだった。
――不幸は重なると言うが、まさにこの時の根岸家はそういう巡り合わせの中にあったのだろう。
祖母の死の少し前に、ムギが急死した。
急死といっても、十五歳である。今まで健康だったのが不思議なくらいで、老衰と診断された。
その直後から、根岸は死んだはずのムギの姿を目にするようになった。
生きていた頃と変わらない姿だった。まだそのままにしてあった庭の犬小屋からひょっこりと顔を出して、学校帰りの根岸を出迎えた。
あまりに自然に現れたものだから、根岸はいつもどおりその背を撫でた。温度を感じない毛並みに、初めて怪異だと気づいた。
「母さん、見て。ムギが幽霊になって帰って来てくれた」
ムギを連れて家に入り、母に訴えると、奈緒子はぎょっとした。
折り悪く、彼女は入院したばかりの祖母の見舞いに行ってきたところだった。
長くはもたないと医師に告げられた。
それで気落ちした矢先に、息子が幽霊の話を始めたのだ。
「変な冗談はやめて!」
思わず――だったのだろう。奈緒子は根岸の言葉を激しく否定した。
根岸は戸惑った。今もはっきりとムギはそこにいるのに、母には見えていない。足音もする、息遣いも聞こえるというのに。
この時、ムギが見えたのは根岸だけだった。父も弟も妹も認識しなかった。
『見えづらい』タイプの幽霊だったのだろう。
特殊な力は何もなく、食事も摂らない。
そして、怪異としての寿命も長くなかった。
幽霊のムギとどう接すれば良いのか分からず、周囲に相談も出来ず、根岸が困っているうちに、ムギの姿は徐々に薄れていった。
『本人』の死から二ヶ月足らず、丁度四十九日ばかり経ったところで、愛犬の霊は再び完全に見えなくなり、根岸は一人、二度目の別れに泣き崩れた。
程なくして祖母も亡くなり――
しばらく慌ただしかった根岸家は、日常の落ち着きを取り戻しつつあった。
ムギが消えて以降、根岸の前に怪異は現れなかった。
主のいない犬小屋は丁寧に掃除されて物置に仕舞われ、ひょっとしてあれは幻だったのかと、当の根岸ですら考えた。
だがそうではないと、すぐに分かった。
学校からの帰り道、
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