第112話 帰らぬ人の帰郷 (3)

 ――幸運だった。


 根岸の担当としてあれこれ世話を焼いてくれた陰陽士おんみょうしは、そう説明した。


 幽霊は存在が曖昧で、『見えづらい』弱い個体ほど死の瞬間のショックに引きずられ、悲惨で恐ろしい外見になりがちだ。

 今となってはよく分かる話である。『見えやすい』幽霊である根岸も、あまり強くないためか致命傷となった深い傷が身体に残っている。


 『見えづらい』幽霊は自身の現状を人間に訴えようとして、霊感をそなえ自分と視線を交わせる相手を見つけると、がむしゃらに近づいて来る。時には精神を暴走させ襲いかかるケースもある。


 根岸が遭遇した轢死者の霊もそんな個体だった。

 意味の通らない、悲鳴に近い絶叫を上げながら、その血まみれの幽霊は逃げようとする根岸に覆い被さってきた。捻じれて千切れかけた手足を絡みつかせ、血泡を吹きながらがなり立てる。

 ただでさえ震えていた足が重みでもつれ、根岸はその場に転んで泣き叫んだ。


 それでも、確かに幸運ではあったのだ。


 根岸の悲鳴を聞きつけて何事かと通りに出てきた近所の住民の中に、霊感が強く怪異に慣れた人物がいた。彼は「怪異だ! 陰陽庁に通報を!」とすぐさま周囲の人間に指示を出して、自らは根岸から怪異を引き剝がしにかかった。


 結果、根岸は大きな怪我を負う事もなく陰陽士に保護された。


 襲ってきた幽霊も、強い個体ではなく本来狂暴な訳でもなかったため、結界に閉じ込めて祈祷方術を数人がかりで詠唱したところ、大人しく消滅した。


 根岸は陰陽庁おんようちょう医療センターに運ばれて検査を受けた。


 そしてその場で、スペル・トークンの使用資格が取れるくらいの霊感の持ち主であると明らかになったのだった。


 ――よくある事なんです。


 陰陽士は両親への説明の中で、そうも語った。


 遺伝的に霊感持ちの少ない家系の中で、突如子供が霊感を発現させると、取り合って貰えずに発覚が遅れ当人が悩んだり、思わぬ事故に繋がったりする。しばしば見られる事態だった。


 何しろ当事者は思春期の少年少女だから、実際に思い込みから来る気のせいだったり、周囲の注目を引くための虚言だったりする例もある。


 思い込みにせよ本物の霊感体質にせよ、家族とのすれ違いにより軋轢が生じるケースも枚挙にいとまがない。


 しかし大抵は時間と共に解決する。


 ――あまり深刻に思い悩まず、これからゆっくりと受け入れて、今までどおりに接してあげて下さい。


 そんな風に話は締め括られた。


 その後、担当の陰陽士は根岸と二人の場で、「信じて貰えなかったことを怒ってる?」と彼にたずねた。


 根岸は首を横に振った。そこまで子供ではない。


 母は祖父母の死と向き合って辛い思いを抱えていた。自分の目に見えない世界をすぐに受け入れられる程、常に心に余裕のある人間など大人にもそうそういない。それくらいは分かる。


 ただ、ムギの幽霊には謝りたいと根岸は答えた。

 会いに来てくれたのに――『会えた』のは自分だけだったのに。何もしてやれなかった。きっと寂しい気分のまま消えてしまった。


 君は強い子だね、と陰陽士は感心した。


 ――怪異と関わる仕事は色々あるから。陰陽士でなくても、もし興味があるならこちらの道に進んでくれると嬉しいな。


 何度かのカウンセリングののちに、陰陽士はそう言って別れを告げた。


 旧怪奇文化財調査センター、現在の特殊文化財センターでの職務に根岸が興味を抱いたのは、それから間もなくのことである。



   ◇



 過去を振り返る根岸の胸には、様々な思いが去来する。


 傷つかなかった訳ではない。自分が家族とすら視界を共有出来ない人間なのだと理解して、心細いものを覚えた。しばらくは外出が怖くて、数日ほど学校を休んだような記憶もある。


 だがそこから立ち直らせてくれたのも、結局は母であり家族の皆だった。

 そして、危険を伴うと承知で怪異に関わる仕事に就き、東京に向かったのは根岸自身の意志によるものだ。誰のせいでもなく、ましてや誰かへの天罰などであるはずもない。


 自分の姿が見えず声も聞こえなくとも、それだけは母に理解して欲しかった。


「――だってさ、母さん」


 根岸の主張のトーンを大分抑えて、涼二郎りょうじろう奈緒子なおこに伝える。


「今、兄貴……ほんとにもっぺん死にそうな顔してるから。分かってやってよ。そんな言い方されたら辛いよ」


 いくらか根岸に同情的な口調で涼二郎が諭すので、根岸は意外に思って彼の顔を見た。


「兄貴、なにその顔」


 と、涼二郎は片眉を持ち上げる。


「……リョウはもう少し厳しい意見かと」

「そりゃあ、ちょっとはムカついてるけどさ」


 今度は急に子供っぽい口振りになって、彼は応じた。


「前に兄貴が帰った時、俺と小春こはるに言っただろ。父さん母さんを頼むって」

「ああ――」


 いつまでこの世にとどまるか分からないからと。確かに根岸はそう発言した。

 あの時涼二郎は酷く怒ったし、泣いた。彼の泣き顔など見たのは、それこそお互い小学生だった頃以来だ。

 根岸よりもしっかり者で、頭も良く要領も良い。ずっとそんな弟だった。


「あれを言われた時から、何となく……こういう形になるんじゃないかとは思ってた。多分、ウチに帰ってくるのは難しいんだろうなって」

「……」


 返す言葉が浮かばない。

 本当に、しっかりしている。


「まあ、言い方の問題つったら兄貴も大概問題あるけどな?」


 社会人なんだからオブラートってものをさ……などと口の中で呟き、こちらをひと睨みしてから涼二郎は沈黙した。


「社会人……そうだな」


 定明さだあきが、代わって口を開く。

 眼鏡を一旦外し軽く額を押さえる、彼のその仕草は困った時の根岸の癖でもあった。


「どのみち、秋太郎はとっくに大人だ。自分の仕事と居場所がある。無理に引き止めるのは……」


 そこで父は少し考える風に言葉を切り、奈緒子へと視線を移す。彼女も顔を上げたが、口を挟もうとはしなかった。


「……もう難しい。しかもお前自身が、自分は人間と違う、一緒に暮らせないと考えてる以上は」


 ――引っぱたいてでも止め置く、という訳にもいかんだろうし。


 そう付け加えて、定明は首を振った。


 一応、人間が怪異を引っ叩く事は可能だ。痛覚もあるから殴られれば痛いだろう。

 ただ、根岸を無理矢理に束縛するとなると難しい。

 何しろつい先日、彼自身も意図しないうちに身体を消し去り、木曜日になって音戸邸おとどていの玄関に現出するという芸当をやってのけたばかりだ。


「とりあえず、今日は泊まっていくんだろう? もうカレーの材料買ってきてあるぞ」


 場の空気を切り替えようとしたのか、定明はいくらか強引に話題を変えた。

 根岸はおずおずといった風に頷く。


「ああ、うん……今日は泊めて欲しい……」


 自ら重い話題を振っておいて、夕食をご馳走になるというのも何やら気まずいものがあった。


 ふと根岸は、食卓を見下ろす。小春が先程解凍した鯛焼きが、手を付けられないまま皿に盛られている。

 小春は二階の自室に篭もってしまったようだ。夕食の時は降りてくるだろうか。彼はそぞろに考えた。



   ◇



 ――夜も更けた。

 両親は早寝な方だから、もう寝室で眠っている。


 小春は自分の部屋から出てきていないようだ。

 夕食の時に奈緒子が声をかけたが、後で食べると返事をしたきり降りてこなかった。


 根岸は自室のベッドに腰掛けて、スマホの画面を見るともなしに眺めている。

 ミケに何と連絡したものか、ここ数十分ばかり迷っていた。


 ――音戸邸を受け継ぎ、『もがり大殿おとど』となる。


 その意志を、いよいよ固めてしまった。そう報告しようというのだ。

 実を言えば、今朝音戸邸を発つ段階ではまだぐずぐずと迷っていた。

 自分に一体何が出来るというのか、五百歳の大魔女の後継など務まるものだろうかと。


 だが――


「……秋兄しゅうにい?」


 不意に、囁くほどの声が聞こえた。

 同時に部屋のドアが小さくノックされる。


「小春か?」


 根岸は立ち上がり、ひょいとドアを開けた。

 そこには予想どおり小春が、何やらもじもじと落ち着かない様子で目を逸らしつつ立っている。

 とりあえず部屋の中に招き入れ、デスクの椅子に座らせると、彼女はしばしの躊躇いの末に口を開いた。


「あ、あの……ごめんね、秋兄」

「えっ?」

「だって、わたし……秋兄が幽霊だから、何か解決して貰えるかもと思って、怪異を見ちゃったって話したんだよね。なのに秋兄が人間と違うって自分で言い出したらキレるとかさ……そんなんスッゴいワガママっていうか、あり得ないじゃん?」


 都合のいいこと言ってるよね――と、小春は椅子の上で膝を抱いて俯く。


「別に、そんな風には思わないよ」


 と、根岸は苦笑を浮かべた。

 寧ろ、怪異となった身でまだ家族から悩みを打ち明けて貰えた事を、根岸は内心で多少喜んですらいた。その感情の方が独りよがりと言えるかもしれない。


「そう、怪異を見たって話だったよな。困ってるなら詳しく聞こうか?」

「いいの?」

「いいよ。半分くらいそのために帰ってきたようなものだし。――夕ご飯、どうする? 母さんが取り分けてくれてるけど」

「いっ、今の時間に食べるのは罪じゃない? 絶対太るって……でもお腹は空いた」

「じゃ、鯛焼きとか」

「もっと重罪じゃん」


 単純なカロリー計算で言えば、カレーライス一皿より鯛焼きの方が軽いはずだ。女子高生の罪悪の計測はよく分からない。


 とにかく二人はひそひそと話し合いながら一階に降りて、残っていた鯛焼きを二つばかりレンジで再加熱した。


「怪異っていうけど」


 鯛焼きの尻尾を齧って、根岸はたずねた。


「何を見たのか分かる? っていうのは、『妖怪』や『魔物』に分類される種族なら弱霊感体質の人でも大部分感知出来るらしいんだ。この前仕事で会った人もそうだった」


 質問を受けて、小春は微かに睫毛を伏せる。


「わ……わたしが見たのは、多分、幽霊……それも」


 彼女の揺らぐ目が、根岸を見上げた。


「ムギの――幽霊かもしれない」


 危うく、根岸は手の中の鯛焼きを取り落としかけた。

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