第110話 帰らぬ人の帰郷 (1)

 土曜日。

 山梨県笛吹ふえふき市、石和温泉いさわおんせん駅へと根岸は降り立った。


 駅を出ると、すぐに弟の涼二郎りょうじろうの姿が目に留まる。


「あれ……リョウ?」


 思わず目を瞬かせて、根岸は弟に呼びかけた。


 二つ年下の涼二郎はこの春から社会人になる。

 甲府こうふ市に本社を置く県内の大手企業に就職が決まったと聞いた。

 大学時代は長野県で一人暮らしをしていたはずだが――


「もうこっちに戻ってきてたのか」

「そりゃそうだろ。週明けには入社だよ?」


 涼二郎はそんな風に素っ気なく肩を竦め、「車、あっち」と送迎用の駐車場に向けて歩き出す。


「それに」


 足を進めながら、涼二郎は続けた。


「東京の事件で兄貴が目撃されて、こっちにもまたチラホラとマスコミっぽい連中が来たんだよ」

「えっ」

「だから、念のため小春こはるが外出する時はなるべく俺が送迎してる。……一度、父さんが何か嫌な目に……取材だか撮影だかされたっぽいけど、すぐ追っ払った」

「――悪い」


 車の助手席のドアに手をかけて、根岸は呟くように言う。

 妹の小春はまだ十七歳。今年受験生だ。しかも難関の音楽大学を目指している。余計な心労をかけたくはなかった。


「僕のせいで」

「別に兄貴のせいじゃ……いや、多少は兄貴のせいか」


 涼二郎の物言いは常に単刀直入である。いつも通りの空気に、根岸は微かに顔を綻ばせた。


「これで俺が兄貴とそっくりだったら、『いいになる』とか言ってカメラに追い回されたかもしれない。似てない兄弟で助かったな」


 冗談とも真剣ともつかない表情でそう吐露して、運転席の涼二郎はシートベルトを締めた。


 根岸は父親似だが涼二郎は母に似ている。冷静できっぱりした性格のくせに、目元は柔らかで卵型の輪郭も優しげだ。地味顔と評されがちな根岸よりいくらか整った容貌である。


 車が走り出し、しばらくの沈黙ののち根岸は話題を変えた。


「就職――決まって良かったな。県内じゃ大手じゃないか。営業だって?」

「ああ。だからこの先、県外への転勤とかはあるかもだけど」

「ずっと地元志望で就活?」

「……拘ったってほどじゃないが、まあ一応。つうか、兄貴の方が元々は郷土愛みたいなん強かったじゃんよ」


 わざわざ韮崎にらさきの史跡の発掘調査説明会とか聞きに行ってさ――と涼二郎は呆れた風に語る。


「あったな、そんなこと」

「そのくせ就職先は東京って」

「山梨の特殊文化財センタートクブンはあの年、新卒募集してなかったんだよ。募集出してる所片っ端からエントリーして、たまたま東京に入れた」

「だからって、それで――」


 にわかに、涼二郎の声音に熱が篭もった。憤りのような悔しさのような。


「それで死んじまってたら……」


 そこまで吐き出して口を噤み、ふっと息をつく。


「悪かった」


 もう一度、根岸は謝罪を繰り返した。涼二郎も再び「別に」とぶっきらぼうに応じる。


「……文句ついでにもう一つ言うけど」


 自宅も近づいてきた頃になって、いくらか気を取り直した風に涼二郎が発言した。


「なに?」

「今日の晩飯のリクエスト、カレーって何だよ」


 根岸は戸惑って運転席に目を向ける。

 帰郷にあたって、母の奈緒子なおこから夕食のメニューは何が良いかとかれていた。根岸は至って正直に、好物を答えたのだが。


「え……カレー美味いだろ。量も作りやすいし」

「せっかくの帰省に? いい肉のすき焼きとか食えるかと思ったのに」


 先程とは別のニュアンスを篭めて、涼二郎は溜息を吐いた。


「兄貴、ちゃんと飯食えてるんだろうな」

「ああそれは、一人暮らしの時より大分良いもの食べさせて貰ってる。世話になってる屋敷の家令さんが料理上手で」

「……その家令さんて猫だって言ってなかったか? 猫が料理?」

「器用なんだよ。怪異だからな」

「ふーん……?」


 怪異についての知識の乏しい涼二郎には今ひとつピンと来ないらしい。


 車は家の前へと到着していた。



   ◇



 「母さん、兄貴帰ってきたよ」


 先に家に入った涼二郎が、キッチンの奈緒子に声をかける。

 洗い物をしていた奈緒子は水を止め、根岸の入ってきたドアへと笑いかけた。


「ああ、おかえり秋太郎しゅうたろう


 その視線は開いたドアに向けられているものの、根岸を捉えてはいない。


 彼女は平井直樹ひらいなおきと同様、極端に霊感の弱い体質である。テレビでニュースに映し出されるくらいの大妖怪であればぼんやりと感知出来るが、より存在の曖昧な幽霊となると、視認する事すら出来ない。


 一般市民が怪異に関わる機会は案外稀である。弱霊感体質でも、日常生活に支障を来たすような事態はそうそう起きないものだ。

 ただ、家族が幽霊になってしまった以上は少し話が変わってくる。


 ちなみに、涼二郎にもスペル・トークンを操作するほどの霊感はそなわっていない。根岸の姿は見えているし会話も交わせるが、怪異に対処する能力はなかった。


「小春はまだピアノ教室?」


 涼二郎が言う。


「ええ。お父さんがさっき迎えに出たから、もうすぐ帰るはずだけど」


 問いかけに応えてから、奈緒子はまたドアの方へ目を向けた。

 根岸は既にそこから移動してキッチンのすぐ前に立っていたが、「秋太郎」と彼女は誰もいない方角へ呼びかける。


「部屋はそのままにして、掃除もしてあるから」

「ありがとう母さん」


 聞こえないのは分かった上で、根岸はそう口にする。涼二郎が微かに俯いた。


 根岸は階段を上がり、自室のドアを開ける。

 母の言ったとおり部屋の中は、高校を卒業し家を出た時からほとんど変わっていない。一先ず背負っていたバッグを下ろした。


 このバッグはそこらのショッピングモールで買ってきた普通の商品で、つまり物質生命体の世界に物理的に存在しているのだが、それも根岸が所持している間は、奈緒子には認識が難しい。


 根岸が生きていた頃、他の弱霊感体質の人間に話を聞いたところでは、幽霊が動かした物品は「ふと目を離すといつの間にか移動していた」ように感じられるらしい。


 怪異の憑いた人形などが「捨てたはずなのにいつの間にか部屋に戻ってきた」といった話はよくあるが、あれは怪異側からすると、堂々と目の前を歩いているのに気づいて貰えないという、これはこれで奇怪な現象なのだ。


 弱霊感体質の人間にとって、本来の世界の物理法則を超越した事象の全てが認識困難である。

 怪異が「動かない人形」に戻る事ではじめて目に止まる。


 奈緒子も、根岸の手から離れ床に下ろされたバッグなら視界に映せるのだろう。


 つらつらと考えながら根岸は、小学生の頃から変わっていない部屋の隅の学習机を、何とはなしに撫でる。


 引き出しを開けると、最初に目についたのは財布だった。

 根岸が持っていた物だ。


 ――人間として死んだ根岸秋太郎の、遺品。


 大学を卒業した時、父から贈られた。


「お前も社会人だから。何か一つ、を身に着けてみるのはどうだ」


 そんな風に父は語って、根岸には少し分不相応に思える渋いデザインの革財布を差し出した。


 父は根岸以上に真面目一辺倒で、ごく物静かな人物だ。普段は、人生観やらポリシーやらを人前で言葉にしたりするタイプではない。

 そういう父が格好をつけた事を言い出したのが妙におかしくて、こんな財布に入れる中身が乏しいのは恥ずかしい――と思いつつも、根岸は素直に受け取ったものだった。


 引き出しの中の財布を手に取り、裏返してみる。

 裏面には、根岸の記憶にない黒い染みが広がっていた。染みを拭き取ろうとしたのか、強くこすったような痕跡もある。


 ……血痕だろう。根岸が殺された時に付着した。


 血痕をぬぐおうとして、結局それは無理と分かり、この引き出しに仕舞い込んだ父の心情を根岸は思う。


 やはり、人としての根岸秋太郎は間違いなく死んだのだ。

 短くも確かな生を全うし、周囲の人々はその命の喪失を悲しんだ。

 今ここに存在する根岸は、あくまで別個体に過ぎない。


 思考に耽っていると、唐突に背後のドアがノックされて開いた。

 父の定明さだあきがそこに立っている。


「お……秋太郎、か?」


 定明は眼鏡を額に押し上げたり、またかけ直したりしながら根岸のいる方角に目を凝らした。

 彼も弱霊感体質だが、母ほどではない。根岸の姿はもやもやした人影として視認出来るし、何故か眼鏡を外した状態だとより焦点が合わせやすいのだそうだ。


 概ね、成人するまでに怪異と関わる経験のなかった人間は物質生命体の世界に感覚が固着され、それ以降霊感は衰える一方と言われている。

 霊感体質に目覚める時期には個人差があるが、多くは十歳までの幼少期だ。


 根岸が初めてじかに怪異を目撃したのは十二歳。平均よりかなり遅い能力発現だった。


「父さん、ただいま。小春を迎えに行ってたって?」


 急いで財布を引き出しに戻し、根岸は父に話しかける。

 彼にとって幽霊の声は聞き取りづらいらしいが、何とか通じた。


「コ――? 小春か? ああ、一緒に帰ってるぞ」

「お疲れ……それと、ごめん」


 小春が自転車で通っていたはずのピアノ教室にまで送迎をつけざるを得なくなったのは、根岸の巻き込まれた事件を受けてだろう。


 自然とトーンの低くなってしまった謝罪の声は、半端にしか届かなかったようだ。定明は「うん?」と不思議そうな顔をした。


 父と揃って階段を下りようとしたところで、丁度一階から上ってきた小春に出くわす。


秋兄しゅうにい! おかえりー」


 まだスプリングコートを脱いでもいない小春は、いくらかハネ癖のある髪を、今日は下ろしていた。

 どちらかというと涼二郎に、つまり母方に似た顔立ちで、実年齢より少し大人びて見える。

 ただし気質は末っ子然としていて、家族の中でも一番明るい性格と思われた。


 昨日、小春から『怪異を見てしまった』とのLINEを受けた時、正直に言って根岸は驚いた。

 困っているなら相談に乗るが通話にするか、と返すと、『家で直接話す』と彼女は応じた。


 今現在対面してみるに、怯えたり深刻に悩んだりしている様子は伺えない。しかし他の家族の手前、そう装っているだけかもしれない。


「レッスン頑張ったらお腹減ったぁ。母さん、秋兄も帰ってるんだしアレ解凍しようよ、冷凍チーズケーキ」

「今から? 夕ご飯入らなくなるでしょ」

「大丈夫だって」

「小春、冷凍庫開けるのはいいけど手は洗ったの?」


 母とやり合った末に洗面所へ向かう小春の背を見送り、根岸はもう一つの帰省の目的について切り出す事にした。


「リョウ、父さんと母さんに伝えて欲しい。夕ご飯の前に、話しておきたい事があるんだ」

「え? ああ、そういえば話があるっていうんで帰ってきたんだよな」


 涼二郎はひとつ頷いて、根岸の声を両親に伝える。


「あら、じゃあ……ちょっと座る?」


 奈緒子がリビングの方を振り返った。

 そこに手を洗い終えた小春が戻ってきて、


「なに? やっぱりおやつにするの?」


 と混ぜっ返す。根岸は眉尻を下げた。


「冷凍ケーキの解凍を待つ時間はちょっと……」

「じゃあ冷凍の鯛焼きにしようよ。あれならレンチン出来る」

「色々あるな」


 音戸邸おとどていも、来客が多いのでミケが茶菓子を常備しているものだが。


(そういえば、家ってこんな感じだったな)


 変な所に懐かしさを見出す根岸である。

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