第109話 メメント・モリ (3)

 再び訪れた陰陽庁おんようちょう医療センターで、根岸は数日ぶりに血流し十文字と対面した。


 結界を張り巡らせた保管庫内から、結界つきアタッシュケース内へ。安全確認が完了しても取り扱いは相変わらず厳重だ。


 アタッシュケースの蓋を閉ざす前に、根岸は槍の穂を感無量な気分でまじまじと眺めた。

 根岸がDIYで後付けした柄の方は戦いの中で大分傷ついてしまったが、質実剛健な十字型をした鈍色にびいろの穂には錆ひとつない。


 ふと、気配を感じて傍らに目を向ける。


 そこに小袖姿の少女が立っていた。

 こうだ。顔半分と側頭部が血まみれなのは変わっていないが、彼女は穏やかな微笑を浮かべ、根岸に向けて深く一礼した。

 根岸も会釈を返す。

 顔を上げた時、既に幸の姿は消えていた。槍の中に戻ったのだろう。


 幸の出現に少しばかり身構えた滝沢と、引き渡し担当の陰陽士がほっと息を吐く。


「……ご覧のとおり血流し十文字は、一応友好的怪異と認められましたので」


 と、陰陽士は書類とペンを取り出した。


「こちらにサインを」

「はいどうも」


 滝沢が特殊文化財センター名義で署名し、晴れて十文字は受け渡された。


「十文字に憑いた、あの武将の方とも対話は出来たんですが、まだ『成仏』する気はないようで……ああ失礼、『消滅』ですね」


 陰陽士はそう付け加える。『成仏』を訂正したのは、それが仏教用語で、公務員が使うには相応しくないと言われがちだからだろう。


「もうしばらく根岸さんに恩を返したいと主張しています」

「そ、そうですか」


 人狼との戦いの中で根岸は何度も十文字に命を助けられている。この上更に恩返しをされると、いい加減こちらの借金になりそうだと彼は胸中で困惑した。


 しかしそれ以前に、『消滅』にしろ『成仏』にしろ、要は怪異にとっての穏やかな死である。

 陰陽士の業務上致し方ないのだが、医療センターで安楽死を勧められるというのも思えば凄まじい話だ。


 ともあれ根岸たちは血流し十文字を入れたアタッシュケースを引っ提げ、医療センター入口まで戻ってきた。


「それが、血流し十文字……」


 駐車場で合流した平井は、アタッシュケースを興味深そうに眺める。

 彼の方は、考古学遺物の収納によく使われるコンテナを抱えていた。船大工道具も無事回収出来たらしい。


 荷物を詰め込んだ車を、更に五分ばかり走らせて一行は『みなとの博物館』前に到着した。ここから平井は、通常の仕事に戻る。


「ではこちらで……根岸さん、お会い出来て本当に光栄でした」


 車を降りた平井は、どこにいるのかも分からない根岸に向けて手を差し出した。


「いえそんな、こちらこそ。今度みなとの博物館も見学させて下さい」


 声が届かないのは承知の上で挨拶を述べ、明後日の方角に伸ばされた手を根岸はそろりと握る。

 相手がこちらを認識していないせいか、なんとも曖昧な感触だった。


「冷たっ」


 思わず、といった様子で平井は口走る。怪異には体温がない。状況によって感じ方は異なるが、不意の接触の際には冷気を覚える人間が多い。


「ああっ、失礼」


 慌てて謝ってから、平井は滝沢の方へと向き直った。


「滝沢さんもまた今度。ええと、次の同窓会? いや、出来ればいつでも……会えるといいな」


 その言葉に滝沢は、軽く意外そうに目を瞠ったが、「ええ、それじゃあね」と片手を上げる。


 そうして彼らは別れ、根岸と滝沢は八王子はちおうじ市へと向かった。

 二人してそれぞれの物思いにふけり、交わす言葉の少ない道中となった。



   ◇



 日没も過ぎた八王子市。

 高尾街道から少し外れた静かな住宅街、近世鍛冶場の遺跡にて――


「おお。よもや……」


 根岸がアタッシュケースから十文字を取り出した直後、以前とは違いすんなりと、山本康重やまもとやすしげの幽霊は出現した。


「血流し十文字……それに根岸秋太郎。無事であったか」


 小飛出ことびでの能面に柿渋色の素襖すおうを身に着けた、複数の男の声を発する怪異。その風貌は相変わらずだ。


 根岸の無事に安堵したのは、高尾山から始まった東京への怪異襲撃を彼も察知していたからだろう。


「ええ。僕が無事だったのは、血流し十文字のお陰なんですよ」


 根岸は「なんと?」と面食らう康重の前で十文字の柄を組み立て、この槍の活躍について簡単に説明した。


「そのような事が」


 康重は感じ入ったようで、一人さわさわとざわめく。


「この槍は名槍です、間違いなく。本当に助けられました」

『……いかにも』


 不意に、低い声が根岸に賛同を示した。

 康重だけでなく根岸も驚き戸惑う。声は彼の持つ槍の穂から沸いたのだ。

 鈍色にびいろの刃が赤黒いうねりを滲ませ、不明瞭ながらも人間の右腕を形作り、ずるりと槍先から這い出した。


『秋太郎殿らは、人の街も怪異の里も救ってみせた。百万千万の命を。それは山本内記、そなたの鍛えたる槍があってのこと』

「貴方様は――!」


 血流し十文字――かつてのこの槍の持ち主だった武将と康重は、顔見知りらしい。康重は動揺しつつも、自然な仕草でその場に両膝をつく。


『どうか生前の名では呼んでくれるな。その名は最早、この浅ましき身の恥になるのみ』


 落ち着いた声音で十文字は語る。


『されど……刀匠山本康重の名は、栄誉としてのころう、この先の幾年月も』


 俯く康重の肩が打ち震えた。

 彼は根岸と十文字を正面に見据え、深々と黙礼してみせる。


「我ら、まことの果報者にござる。死してなお、かようなほまれを受けるとは」


 複数の『康重』の唱和する声が、感極まって乱れた。能面の下から涙が零れ落ちる。


「この上は、思い遺すこともござらぬ……」


 顔を上げ、静かにそう呟く康重の姿は、宵闇の中で徐々に薄れゆく。

 根岸が呼び止めようとした時にはもう、ただ能面一つだけが虚空に浮いていた。

 その面も、唐突に重力の存在を思い出したかのように地面へと落下し、砂地に当たるより先にふわりと夜風に溶け消える。


 山本康重の霊は――消滅した。跡形もなく。


「成仏した……ということなんでしょうか」


 血流し十文字の柄を両手で握ったまま、根岸は半ば呆然と、誰にともなく問いかける。


『さて。あるいは、本来の場所へと戻ったのやもしれぬ』


 と、血流し十文字が応じた。


「本来の場所?」

『あの姿、ここで自然と顕現したものではあるまい』

「……ああ」


 彼らは、本来であれば自分達の鍛えた七振りの刀剣に憑いた複数人の『康重』だったのだ。その名は襲名である。

 それが刀剣から無理矢理に祓われたため、ゆかりの土地であるこの場所に逃げ延びた幽霊達が集まり、一体の怪異として顕現する形となった。つまりあの姿は不本意なものだ。


 元々取り憑いていた刀剣の元へ帰ったのか、それとも自身の仕事の成果に満足し、この世への未練を捨て命を終えたのか。


「何にせよ、すっきりしたなら良いんですが」

『うむ』


 血流し十文字の柄を外し、再びアタッシュケース内に仕舞う。

 その作業の途中、ふと十文字が低い声で発言した。


『怪異にとって、時に身の滅びは救いじゃな』


 何とも答え難かったが、短く同意の相槌を打って根岸はケースの蓋を閉ざし、結界を発動させた。


 車に戻ると、運転席の横に滝沢が立っている。

 血流し十文字は現時点でも確実に安全な怪異とは言えないので、滝沢には離れて待機して貰っていた。


「根岸くん。遠目に、康重さんが消えたように見えたんだけど」

「はい。血流し十文字が怨念から解放され、人を助ける働きをしたと話したんです。そうしたら満足したみたいで」

「そっか……。それは上に報告しないとね」


 冷静に、しかし多少寂しげに滝沢は頷く。


 車に乗り込んだ根岸は、助手席でシートベルトを締めた。


「先輩」

「うん?」

「……いえ、その……帰り、暗い中で運転すみません」

「大丈夫、慣れてるから。それより根岸くん、何かスマホに着信あったっぽいよ」


 滝沢はもういつもどおりの明るさを取り戻している。彼女に指摘されて、根岸は車内にスマホを鞄ごと置き去りにしていたのを思い出した。

 十文字のケースだけでそこそこ嵩張るし、康重の前でスマホが鳴っても気まずいためである。


 画面を点けると、諭一ゆいちからのLINEが来ていた。


『いえーいネギシさん〜。辺路番ヘチバンたちが今日和歌山に戻っちゃうから買い物&ゴハン行ってきました!』

『新しいヘッドフォン見て! ティアリーアイズにもおそろのやつ送る約束(ピースするスタンプ)』


 メッセージに続いて写真が送られてきており、そこには新品のネイビーのヘッドフォンを首から提げた辺路番が、口だけの笑顔で写っている。

 背景は古びた学校の教室で、写真の後方にはピザが何枚かとハナコが写り込んでいた。


 どうやら旧戌亥いぬい小学校で、辺路番と餓鬼たちの送別会が開かれたらしい。

 怪異だらけのパーティーにちゃっかりと潜り込む諭一は大したメンタルだ。つい、根岸は苦笑を漏らす。


 東京を襲撃したブギーマンの群れクランは間もなく、人狼と同様連合国アメリカに護送される予定だ。

 ブギーマンに悪意はない。しかし古老エルダーを失った彼らはまとまりを欠き、混乱して浮遊するばかりの集団となってしまった。流石に日本国内で野放しにしておく訳にはいかない。


 諭一はブギーマンのうち、ティアリーアイズと呼ぶ一個体の行く末を随分と心配していた。


 辺路番の説明によれば、ブギーマンのエルダーは選挙だの勝負だので選ばれるようなものではない。

 最も長命な個体の動きを、群れ全体が少しずつ模倣するようになっていく。そういう本能的な行動様式なのだそうだ。

 だから他の種族が統率したり、人間が勝手にエルダーを選出するのは難しい。それこそイーゴリくらい完璧にエルダーに化ける必要がある。


「なるようになってくさ。お前さんもよく知ってるとおり、アメリカの怪異だってたくましい」


 ミケはそんな言葉で諭一を慰めていた。


 隻腕となった辺路番に、エルダーを喪失したブギーマンたち。根岸はそれぞれの今後を思いつつ返信を済ませ、アプリを終了させようとする。


 と、そこでもう一件のLINEに気づいた。


 妹の小春こはるからだ。

 内容は、週末の帰省では何時着の特急に乗る予定かとの質問である。母が夕食は何が良いかと聞きたがっている、ともあった。


「あ……そうだ滝沢先輩。僕、週末ちょっと実家に帰ってるんですけど」

「そうなんだ? いいね、大変な事になったんだから心配かけたでしょ」

「仕事用携帯持って帰るから、何かあったらそっちに」

「ちょっとはハネ伸ばしなさいよ。それも親孝行よ」


 滝沢は苦笑いを浮かべた。

 根岸は曖昧な返答をして、小春のLINEを読み進める。

 画面を滑る指が、ある箇所で止まった。


『あのね秋兄しゅうにい。これはまだ母さんにも父さんにも相談してないんだけど』


 メッセージは続いている。


『わたし、秋兄以外の怪異も見えるようになっちゃったかも。これって霊感が強くなってるの?』



 【メメント・モリ 了】

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