第108話 メメント・モリ (2)

 翌日、根岸が特殊文化財センターに到着すると、館内では滝沢が既に待機していた。


「滝沢先輩、お待たせしました」


 職員用入口を潜った根岸は彼女に一礼する。


 時刻は午後三時。山本康重の幽霊は日没後にしか顕現出来ないので、彼の出現見込み時間に合わせた出勤となった。

 この手の怪異は数多い。トクブン職員も陰陽庁職員も変則的な勤務時間に慣れている。


「ううん。ただね、ごめん根岸くん、もう一人乗せてく事になったの。陰陽庁まで」

「もう一人?」


 廊下の奥を振り仰ぐ滝沢の視線を根岸は追った。程なく事務所のドアが開いて、所長の上田と、もう一人見知らぬ男性が出てくる。


「では上田所長、この護符胴衣アミュレット・ジャケットお借りします。どうも大変お世話になりました」

「いやいや。また何か異常が起きたらご連絡下さい。そちらの館長にもどうかよろしく」


 ごく穏やかに挨拶を交わして、男性はこちらへと歩みを進めてきた。


 小脇に抱えている畳まれたレインコートのようなナイロン生地の包みは、今彼が言ったとおりトクブンが所持する護符胴衣アミュレット・ジャケットである。ごく簡易な霊験機器れいげんききで、怪異避けの護符やお守りを仕込んだジャケットだ。


 昔話の『耳無し芳一』で、全身にお経を書き込んで亡霊に連れ去られるのを回避しようとする場面が出てくるが、あれに近い。

 ごく弱い怪異であればジャケットを着た人間を認識しづらくなり、怪異からの攻撃や呪いもある程度軽減する。

 根岸にも効果があるはずだが、畳んでパックされた状態だと平気なようだ。


 ただし、強い力を持つ怪異にはあまり効果を発揮しないとも聞く。例えばミケあたりが相手となるとほとんど無効だろう。


「根岸くん、こちら平井直樹ひらいなおきさん。『みなとの博物館』の歴史館学芸員。私の大学時代の同期なの。ちょっとの間だけどよろしくね」


 滝沢が彼を手の平で示して紹介した。

 しかし紹介を受けた平井の方はというと、不思議そうに滝沢の顔を伺っている。


「えっと……滝沢さん、誰に話してる?」

「――あっ」


 滝沢が驚いて、根岸と平井へ交互に視線を振った。


「平井くん……ひょっとして根岸くんの姿も見えないの?」

「ネギシくんって、さっき話に出てた幽霊の職員さん? 血流し十文字の槍を振るって東京を救ったっていう」

「大袈裟な話になってる……」


 平井の発言に、つい根岸は小声でぼやく。


「そう、その根岸くん。今、平井くんの正面一メートル半くらいの場所にいるの」


 滝沢が今度は根岸の方を手の平で示した。途端、平井は「えっ」と声を上げる。


「失礼しましたネギシさん! 初めまして。港区立『みなとの博物館』の平井です」


 深く頭を下げてから、彼は続けた。


「私は霊感が全くないもので、普通は見えるはずの幽霊も見えなくて」

「だ、大丈夫です。幽霊やってるとそういう人にはたまに出会うから」


 根岸は両手を上げて応じる。すると平井は、何かに気づいた様子で目を瞬かせた。


「今何か――人影が動いたような」

「ああ、それくらいは感知出来るんだ」


 顎に指を当てて、滝沢が呑気に感心した。


 霊感が極端に弱く、怪異を知覚しない人間――

 彼らはカオティック・オーダーと呼ばれる怪異だらけの現代においても、それなりの割合で存在する。


 最新の霊験機器、スペル・トークンの補助と訓練があれば方術を発動させられる日本人は、現状およそ人口の二割。一方、怪異を知覚出来ない弱霊感型の日本人もおよそ二割と言われていた。


 なお、たとえ才能があったとしても怪異と関わらない人間も多いので、実際の方術使用者はもっとずっと少ない。音感に長けた人間が全員音楽家になる訳ではないのと似たようなものだ。


 ともあれ、根岸は幽霊の中でもかなり『見えやすい』部類である。物質世界への影響力も強い。ドアの開け閉めも食事も出来るし、人や物に触れた時の感触も確かだ。

 彼を認識出来ない人間は、一般人でも少数と言って良かった。


「それで、陰陽庁に行くのに護符胴衣アミュレット・ジャケットを?」

「そう、今はあそこらへん怪異の出入りが頻繁だし、万一の護身用にね。彼はスペル・トークンを使えなくて、怪異に対して無防備だから。あ、根岸くんのトークンは?」

「携帯してます」

「オッケー。じゃあ……行きましょっか」


 いくらかぎこちない空気を仕切り直すかのように、滝沢がひとつ手を叩いた。



   ◇



 滝沢の運転する車の中で、根岸は平井の事情を掻い摘んで説明された。


 彼が勤務する港区立みなとの博物館は、イーゴリとミケが死闘を演じた東京タワーから二キロ弱の地点にある。

 科学館と歴史館の二館に分かれた施設で、歴史館の方では、古代から近代にかけての地元の水産業や水運事業、造船にまつわる歴史と文化が学べる作りとなっていた。


 この施設には、怪異の憑いた特殊文化財は所蔵されていない。――はずだったのだが、今回の怪異襲撃の影響で一部の展示品に異変が起きた。


 江戸時代の船大工が使っていた大工道具が、時折がたがたと揺れ動くようになってしまったのだ。

 動くタイミングは全くのランダムで、客や職員の目の前で説明パネルを振り落とすほどに激しく震える事もあれば、何事もなかったかのように静まっている時もある。


 怪異に慣れていない職員一同は、困り果てた。


 陰陽庁は先日の怪異激甚襲撃以来どの支局も大混乱で、電話を繋げるのすら一苦労という有り様である。市民にただちに危険が及ぶ怪奇現象以外は当面通報を自粛、というムードも世間には流れていた。


 しかしこのまま放置して博物館を開館するのは考えものだ。展示棚の内側でじたばたされては、他の貴重な収蔵品まで壊されかねない。


 そんな中、学芸員の平井はふと思い出した。大学時代の友人である滝沢が、都内で特殊文化財センターに勤めている事を。


「それで私に連絡が来たから、調査報告書を添えて陰陽庁に大工道具を持って行ったのよ」


 と、滝沢は語る。


 ――東京都特殊文化財センターの調査により、『動く船大工道具』に甚大な危険はないと結論づけられた。

 分類は妖怪、『付喪神つくもがみ』の一種と考えられる。


 長年使用された職人道具には、微量ながら使用者の思念が蓄積されがちである。本品には本来、怪異として顕現するほどの思念は憑いていなかったが、怪異激甚襲撃の折、至近距離で起きた高い霊威のぶつかり合いの余波を受けて世界層レイヤーに一時的な乱れが生じ、怪異化してしまった。


 当該怪異は人語を発する事は出来ないものの、人間からの呼びかけに応じ、限定的ながら対話は可能。

 目的意識や怨嗟の念はなく、当事者としても突然の顕現に戸惑っている。


 再び穏やかな眠りに就けるのであれば祓いを拒絶しないとの意志を示しており、簡易な祈祷方術で消滅に至るものと考えられる――


 以上がトクブンの調査報告書の要約となる。


 怪異に対処する上で最も手間取る作業は、安全確保と下調べである。逆に言えばそこを肩代わりして、あとはお祓いを実行するだけ、という段階にして引き渡せば、陰陽士は割り合いすんなり動く。


 陰陽庁が何より警戒する事態は、強力な怪異を無闇に刺激して被害を拡大させる事なのだ。表面上は儚い幽霊でも、ひとたび暴走すれば人間の手に負えなくなるケースは多々ある。

 いかにもお役所仕事と言えばそうだが、現実問題として迂闊に怪異を暴れさせては困る、との言い分もその通りでしかない。


 とにもかくにも、『動く船大工道具』は滞りなくお祓いを終え、普通の文化財に戻ったとの連絡が来た。

 それをこれから、血流し十文字と一緒に受け取りに行こうというのだ。


「ははあ、大変でしたね」


 一通りの話を聞いて、根岸は思わず感想を漏らした。口に出してから、平井には声も届かないのだと気づく。


「平井くん、根岸くんが『大変でしたね』って」


 滝沢が通訳代わりを務めてくれた。

 車の後部座席に乗る平井が軽く頭を掻く。


「えっ、そんな。何だか恐れ多いな……」

「やだな、根岸くんを何だと思ってんの」

「だから東京の人間のために、幽霊になっても戦ってくれたっていう――」

「それはそうだけど。見た感じは普通の人よ。そういや根岸くん、眼鏡変えた?」


 赤信号で停止した滝沢が、軽くこちらに視線を投げる。

 意味もなく照れ臭くなって、根岸は「は、はい」と応じつつ彼女から目を逸らし、眼鏡をずり上げた。

 これは今朝、即日受け取りの出来る店で調達した、スペアにする予定のものだ。普段使いにする方はもう少しこだわって作りたい。


「平井くん、ニュース映像で流れた人狼とかは見えたの?」

「人狼は流石に見えたよ。あの十メートルくらいあるような凄いのだろ。でも、もう一種類の……ブギーマンっていうんだっけ、あっちは何かボヤッとしてたな。ピントが合わせづらい感じ」

「へぇー……怪異の中では幽霊が一番『見えづらい』って言われるけど。同じ海外怪異の人狼とブギーマンでも結構違うのね」


 平井は、怪異の一切が見えないという訳ではないらしい。根岸の存在も、大きく動いたり喋ったりしている間は何となく感知出来るようだった。


 文化財に関わる業界には、トクブン職員でなくともそこそこ霊感のある人間の割合が多い。史跡や骨董品には怪異が憑きやすいため、視認くらいは出来た方が安全だ。

 だから、仕事中にこんな証言を聞くのは何だか新鮮に思える。


 ――何ヶ月か前にも似た話を聞いたが、あの時は……


「根岸くん?」


 滝沢が再び、こちらに呼びかけてきた。


「どうかした? ちょっと姿が明滅してるよ。また車から落ちちゃう」

「あっ、ああ、すみません」


 慌てて根岸は、『座席に着いている』状態を保つよう意識を集中させる。


 後部座席の平井が、「車から落ちる……?」と首を傾げた。存在の曖昧な幽霊が、時々乗り物から振り落とされる現象については知らないらしい。かくいう根岸も、自分がそうなるまで知らなかった。


「考えごと?」

「いえ――ちょっと」


 道路の彼方に目を細めて、根岸は答える。


「うちの母親も、ほとんど人だから思い出してしまって」

「……そうだったの」


 少しばかり息を呑むような口調で相槌を打つ滝沢に、また平井がいぶかしむ。

 これを通訳して良いものか、という風に滝沢は逡巡したのち、「あの」と口を開いた。


「根岸くんのお母さんも、怪異がほとんど見えない人だって」

「それは」


 そう応じたきり、平井は言葉を切る。

 次の信号に引っかかったあたりで、ようやく彼は躊躇いがちに発言した。


「何と……言ったらいいのか。すみません」


 思ったより深刻に受け止められてしまった事に、寧ろ根岸は戸惑った。気安く明かすべき事情ではなかったのかもしれない。


(常識の感覚が人間離れしてきてるのかな……)


 などと省みる。何しろこの前の週末は、ずっと怪異にばかり囲まれていた。

 そして同時に根岸は、平井に対して思う。


(いい人なんだろうな)


 滝沢の学生時代の同期と紹介され、打ち解けた様子で二人が会話するのを目の当たりにした時は多少動揺を覚えた。しかし現在の彼への率直な印象は、至って善良な――、それだけだ。


 ――滝沢にとっての人間的な幸福とは、多分あちら側に、彼のような人々の側にあるのだ。


 不意に埒もなく、そんな考えが頭をよぎった。

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