第三部 魔女の殯
第107話 メメント・モリ (1)
予期せぬ騒動はあったものの――
一先ず、根岸たちは
根岸は検査結果を報告しようと、
間を置かず応答したのは、主任調査員の
『それじゃ、経過は順調なのね? 良かった、所長も皆も心配してんのよ』
「ご心配おかけしてすみません。明日は現場直行ですか? 休み前に予定してた……」
『ああ、そちらはちょっと延期になったの。怪異襲撃の影響で、スケジュールが色々変わっちゃってね。明日は……そうそう、血流し十文字の返却許可通知が来たんだった』
え、と根岸は目を瞬かせた。
血流し十文字は、
考えてみれば、あくまで根岸はトクブンに業務を委託されて血流し十文字を預かっている身なのだから当然だ。『呪物にして文化財』の所有権と責任をどこに置くかは、なかなかややこしい問題である。
『だから明日は十文字を医療センターで受け取って、その足で
「分かりました」
十文字が戻ってきたら、すぐ山本康重の霊に会わなければ。そう考えていたのは根岸も同じだった。
何しろ彼――彼らと呼ぶべきか――こそは、呪われた血流し十文字を弔い、その運命を四百年以上にわたって憂慮し続けた人物なのだ。
今や血流し十文字は怨念から解放されかつての人格を取り戻した。その事実を真っ先に知るべきは彼らだろう。
『じゃあ明日、トクブン前集合ね』
お大事に、との挨拶を残して電話は切れた。
懐かしくすらある滝沢の明るい声を聞けて、何とはなしにほっとしている自分に根岸は気づく。
……実のところ、今の自分は彼女をどう思っているのだろう。
不意にそんな事を考え、根岸は己の胸のうちを探る。そこには言葉にもしようのないもやもやした感情がわだかまるばかりだ。
――彼女には幸せになって欲しい。
その意志に嘘はない。文字通り、死んでも命を守りたかった相手だ。
そして、根岸には最早彼女を、人間のパートナーとして幸せにする事は難しい。それもまた事実だ。
お互いに中学生か高校生くらいであれば、障害多き恋に燃え上がったりもしたかもしれない。
しかし根岸はそれなりに怪異の性質を学んできた社会人であり、滝沢は彼より半回り歳上だ。勢いだけで好いた惚れたをやれる年齢でも立場でもなかった。
(自分の目の前で死んだ人間が、幽霊になって同じ職場にいるって……多分、やりづらい事もあるよな……)
今更ながらそう省みたりもする。一般の人間から見ればやりづらいどころか、とんでもない状況と言える。
しかしだからこそ、トクブンを退職したとして、根岸に次の仕事のあてなどないのだ。
収入どうこう以上に、可能ならば彼はまだ、人間の社会と繋がっていたかった。
通話の切れたスマホの画面をぼんやり眺めながら寝室を出ると、一階へ続く階段の手摺に、猫の姿の雁枝がちょこんと座っている。
「秋太郎、新しくなったこの家は見て回ったかい?」
「へ?」
「何を呆けてるんだ、お前は音戸邸の耐震補強工事の担当だろう。風呂場の工事が済んで、お前が消えてる間に最後の仕上げも終わってる。週明けには裏庭の足場も全部取っ払われて、あたしが書類にサインして完了だ」
「あっ、そうでした」
根岸は頭を掻いた。四日間消えていた影響で、日にちの感覚がまだ戻っていない。
そもそも根岸たちが天狗の里に泊まりに行った理由は、音戸邸の水回りの工事のためだったのだ。
一連の作業は予定どおり終了した。これで、雁枝の結界術がなくともある程度の地震に耐える、改修版音戸邸の完成だ。
工事自体はプロの業者に任せたので、根岸は計画と打ち合わせ以降あまり貢献していないが。
根岸の肩に乗って一階へと降りてきた雁枝は、風呂場に行けとせがむ。
「見てみな秋太郎、新しい風呂。湯が入ったら音楽で知らせてくれるんだよ。魔法みたいだねえ」
何故か自慢げに、雁枝は壁に取り付けられた給湯器のリモコンを肉球で押した。
「はい。……うちの実家もこのタイプです」
無論根岸は、事前の打ち合わせの時から把握している。ガス給湯器としては日本で第二位のシェアを誇るノーリツ製で、ごく一般的な型のものだ。残念ながら彼女の感動ぶりには乗り切れない。
すると雁枝は、ふう、と根岸の肩の上で溜息をついた。
「もう。ミケどころかお前まで冷たい」
「ミケさん、まだ怒ってるんですか?」
と、根岸は声を潜めて問う。雁枝は首を縦に振った。
◇
天狗の里の住民たちや
死期の近い者と対面すると絶叫を上げる怪異、バンシーのブロナーとの遭遇。あれは全くの偶然ではなく――恐らく、ある程度雁枝は予期していたのだろう。機に乗じて、彼女の異能を利用したという事だ。
何の相談もなく死期を発表され、生前葬の日程まで決められ、喪主を任されたミケは、音戸家の家令として腹に据えかねたのか、邸宅に帰ってくるまでずっと無言だった。
現在は居間の奥で、猫用座布団に壁側を向いて丸まり、雁枝が呼びかけても顔を上げようともしない。招き猫ならぬ『帰れ猫』といった風情である。
「あの子にヘソを曲げられちゃ困るんだよ。秋太郎、
「ええー……」
珍しく
ミケとの付き合いはさほど長い訳ではないが、彼が自分の仕事に対して、確固たるプライドを持っているのは察せられる。そんな彼を納得させる形でのフォローとなると、なかなか難易度が高い。
「分かってる。あの子には悪い事をした。多分、あたしの最期は静かに過ごさせたいと考えてたんだろう」
雁枝は前足で軽く髭を撫でた。
「でも、相続だの遺言だのって仕事が山盛り残ってるんだ。出来る事は済ませておかなきゃ、ミケやお前に投げっぱなしでくたばるだなんて、心配でもっぺん化けて出る羽目になる」
「元人間で吸血女で、肉体は猫又の幽霊になるんですか? 随分ややこしいな」
「馬鹿っ、もののたとえだよ!」
耳を倒し、フーッと威嚇音を吐く雁枝である。本気で焦っているし、困ってもいるらしい。
根岸としてはミケの気持ちも分かるから、彼が落ち着くまでそっとしておこうかとも思っていたのだが、雁枝には絶対的な時間がない。そして、彼女の言い分もまた理解出来た。
「……仕方ないなぁ。ちゃんと謝って下さいよ」
肩口の雁枝を両腕に抱きかかえて、根岸は居間へと向かった。
居間の隅の座布団には相変わらず、壁を向いてムスッと丸まるミケが陣取っている。
「あのう、ミケさん。雁枝さんが改めて謝罪したいそうです」
抱えていた雁枝の身をミケの背後にそっと降ろすと、彼はちらりとこちらに髭を向けた。先刻までよりも多少、機嫌はましになっているようだ。
「ミケ、思えば――」
呼びかけながら雁枝は、人間の少女の姿を取る。
「八十年前、あたしの
「別にそれは」
思わず、といった風にミケは振り向いた。視線の高さを主人と合わせるかのように、彼も人間の少年に変化する。
「それはいいんだよ御主人。俺はただ……安静にして、新しくなった風呂にでもゆっくり入ってさ、のんびり過ごしてりゃ……一日でも二日でも、寿命が延びるんじゃないかと期待してたんだ」
「ブロナーの宣告は百発百中だよ、分単位で。どう過ごそうと変わらない」
睫毛を伏せるミケに対して、雁枝は穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「逆に言えば、これから六日間ちょいと忙しく立ち働いたところで、早々にぶっ倒れもしないってこと」
「……」
まだ言いたい事はありそうだったが、ミケはしばし顎に手を当てて考え込んだ後、「ちょっと茶でも淹れてくる」と腰を上げた。
彼は考え事をする時、しばしば一人で台所に立つ。
ミケを見送った根岸は、別に自分が出しゃばるまでもなく解決しそうだと苦笑してから、先程の雁枝の言葉を口の中で繰り返した。
「六日間で。相続に遺言に……」
ふと思い出すのは、以前に雁枝から打診されていた重大な案件だ。
――『
……後継、といっても具体的にどんな仕事を引き継ぐのかは、まだ分からない。
『殯』の異能自体は既に根岸の肉体に
一方で、完璧にコントロールするのは今の所難しい能力でもある。その地位を名ばかり引き継いだとして、自分に務まるのだろうか。
「そう、秋太郎。急なことで悪いが、お前にも決断して貰う」
雁枝が根岸の方へと向き直った。
「この音戸邸、お前は継ぎたいかい?」
「……音戸邸を?」
予想外の質問に、根岸はおうむ返しに答えたきり声も失う。
継ぐ、とは――この東京都指定特殊文化財、音戸邸の所有者になる、という意味なのか。
「元々この家は、あたしも別の『殯の
そこで雁枝は、懐かしむように古びた天井を見つめた。
「『殯の大殿』の仕事は……ただ、観測することだ。この奇妙な複層世界構造を観測して、怪異たちの存在を安定させる。何体かを直接救う事にもなるだろう。血流し十文字の
「居場所……僕の居場所が、ここになると」
「お前がそう望みさえすればね」
虚空に回答を探すような気分で、根岸は居間の中に視線を巡らせる。
控えめに草花をあしらった気品のある
確かに彼は、この邸宅が好きだ。愛着も抱き始めている。しかし、だからといって――
「こっ……固定資産税って、いくらぐらいになるんですかね……」
「そこかよ」
急須と湯呑と
「だって、僕はもう正社員じゃないので収入があんまり」
「分かっとるよ。でも指定文化財だし多分相続には色々控除が……まあ、俺がそのへんも付き合いのある司法書士に相談してくるから」
羊羹を三人前配り終えて、どっこらせ、と今度は人間用の座布団に落ち着くミケである。
「やれやれ、やるしかなさそうだな。全く腹を立ててる暇もなしときた」
「あたしの最後の我が侭に、付き合ってくれるのかいミケ」
ほっとした表情を浮かべる雁枝に、ミケはなおも不服げに口角を捻ったものの、何度か頷いてみせた。
「御主人はいつだって我が侭だから今更だ。しかし、根岸さんはもう少しくらい自分勝手になった方がいいぜ」
腕を組んだミケは、そんな風に根岸に告げる。
それから彼は急に、「あっ」と何か思い出した様子で横髪に手を当てた。
「うっかり言い忘れてた。根岸さんが消えてる間に、あんたの両親から電話があったんだよ」
「えっ――」
そう言われて根岸も顔を上げる。
東京怪異襲撃の夜、故郷の家族に連絡しておこうと思って、結局出来ず終いになっていた。
「掻い摘んで状況は説明したが、心配してるようだった」
「で、でしょうね」
根岸の家族は、皆霊感などに目覚めず怪異とは無縁の暮らしを送っている。
根岸が遭遇した一連の事件を、どんなに掻い摘んで適切に説明したとしても、彼らにとっては異常な話にしか聞こえないだろう。
「根岸さん、一度帰省してみちゃあどうだい。屋敷の相続の件も含めて、積もる話もあるだろ。なんせ帰る家をもう一つ、この東京に持つかどうかの瀬戸際だ」
――帰る家。
人間・根岸秋太郎が育ち、そして無言の帰宅を遂げた、あの家に。
「俺はまだ春休みだし、こっちで手続きのあれこれは進めとくから」
「ミケさんがそう言ってくれるなら……」
今日は木曜日。明日、滝沢との仕事を終えたらまた週末が来る。
幸い故郷までは、特急でざっと九十分ほどだ。
「……帰ろうかな」
根岸は窓の外へと目を遣った。
少し風が出てきたようだ。桜の花びらが、雪のように舞っている。
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