第105話 霧去りて、夜は明く (5)
雁枝やミケが呼びかけるくぐもった声が、遠く微かに繰り返された。答えて立ち上がろうとしたが上手く行かない。身体が重く、声を発するどころか呼吸するのも億劫だ。
傷の痛みくらいしかはっきりと知覚出来ない曖昧な意識を、沈ませたり浮き上がらせたりしている間にどこかの施設に運び込まれた。
「陰陽士さん方、もし頼めるんなら――」
「
不意打ちで引っ
「し――師匠」
「志津丸、起きたか。いや、無理に動かなくていい」
「あんた何考えてんだ、このばかやろ……」
「こらっ、第一声で師匠を馬鹿呼ばわりする弟子がいるか。人間たちの前だぞ」
天狗の教育が疑われる、と瑞鳶は呆れ顔になったが、呆れたいのはこちらの方だ。背中の痛みを
「翼は……天狗の力の源だろ。もう風を操れなくなる……」
「どのみち、片翼じゃ飛ぶにも異能を使うにも不十分だ。
ごく軽い調子で瑞鳶は述べて、寝台に横たわる志津丸の頭にぽんと手を置いた。しかし、それで納得出来るはずもない。
「そっ……そんな真似、されて……」
力無く瑞鳶の着物から手を離すと、志津丸はシーツへと顔をうずめる。
「ミケにもみんなにも、結局助けられて……オレ、とても返しきれねえよっ……」
「返す? 助けられた分をか」
瑞鳶は笑った。
「心配するな。儂なんぞ頭領を名乗って四百年、皆から助けられ通しだよ。ビタ一文返せねえまま寿命が尽きそうだ、借り逃げだな」
お前からも、と瑞鳶は続けて、志津丸の髪を梳く。
「いいか志津丸。お前はこの先も、出会う奴出会う奴に助けられ、世話を焼かれるぞ。ミケ坊もきっとそう言うし、また困った時には猫の手を貸してくれるだろうさ」
「……何だよそれ。どうすりゃいいんだよ」
「観念してありがたがれ」
志津丸は深く息を吐いた。
「観念って……戦いの前にも、避難所でそんな事言われたぞ」
羽団扇を受け継ごうという時の話だ。
――お前が集めた人望だ、観念しろ。
確かに瑞鳶はそう告げた。借り逃げの覚悟を決めるのも観念のうちなのだろうか? 何だかよく分からない。
「彼の体調から見て、まだあまり長時間の会話は推奨出来ません」
不意に、瑞鳶の背後から声がかかった。志津丸には覚えのない、ごく冷静な女のものだ。
この部屋の中には複数人がいて、何か作業に勤しんでいる様子だったが、瑞鳶以外に怪異の匂いはしない。発言者は人間だろう。
「ああそうだな、すまん伊藤司令。志津丸、また後で来る。――持ちこたえてくれよ」
志津丸の頭に触れていた手の平を瑞鳶は下ろし、最後に寝台に投げ出されていた彼の手を取った。
「……」
志津丸は何か言おうとしたが、そこで再び急激な眠気に襲われた。瞼も開けていられない。
ただ、彼は恩師の手を強く握り返した。
◇
それからまたしばらく、朦朧とした時間を過ごしたのち――
結局、志津丸は瑞鳶の片翼を受け継ぐことになった。
手早いもので、連合国アメリカから怪異外科医がひとり、複数の人間の医療チームに混ざって来日したという。
現在、日本政府と他のいくつかの国、それに怪異崇拝国である連合国アメリカ政府は、今回の東京襲撃を巡って揉めている真っ最中らしいが、それと関連する動きなのかもしれない。
日本は出自にばらつきのあるブギーマンと人狼をまとめて国外退去させ、連合国政府に委ねたい。
入れ替わりに連合国側は、怪異事件に慣れた医療チームや修復チームを日本に送り込んで支援し、イーゴリという危険な怪異に九年間の潜伏を許した件について手打ちとしたい。
そういった双方の思惑があった――らしい。
何しろ志津丸は寝たきりなので、うつらうつらしながら人間の流すニュースを聞くくらいしかする事がない。
根岸や諭一、負傷した天狗たちはどうしているのか。今はそれが気掛かりだった。
「なるほど、こいつが患者か」
突然頭上から声が降ってきて、志津丸は閉ざしていた目を開けた。知らない誰かが彼を逆さまに覗き込んでいる。
燃えるような赤毛をひとまとめにした、三十そこそこの長身痩躯の女性だ。左目に黒い革製の眼帯を付け、気難しげに口を引き結んで腕を組む様は、古典的な女海賊か何かを思い起こさせた。
ただ、服装は首元までぴっちりと閉めたミントグリーンのケーシー白衣である。
「……誰」
不審な闖入者に対して、志津丸は率直な問いを投げかけた。
「ブロナー・マクギネスだ」
相手もまた端的に、というより、木で鼻を括ったような態度で答える。
すると、彼女の後ろからハナコが顔を見せた。
「安心しろ志津丸、医者だよ医者。種族は『バンシー』だと」
ハナコの紹介に、志津丸は今一度赤毛の怪異を観察する。
バンシーという種族の存在は聞いた事があった。
いにしえより高貴な血筋の家に憑き、あるいは水辺に
大分イメージと違う、というのが彼女への正直な感想だ。金髪の天狗である志津丸も他人の事は言えないと指摘されればそれまでだが。
「キャラ濃い……」
「おい。何だか生意気そうなガキんちょだな」
つい口に出してしまった志津丸の一言に、ブロナーは片眉を跳ね上げる。
「まあまあー」
そう言ってベッドに近づいてきたのはチャチャイだった。
「シヅマル、大丈夫?」
「チャチャイ……お前、まだここにいていいのか……リンダラーは?」
「昨日、リンダラーとハコネって所で観光して、また戻ってきたよ。志津丸の手術で手伝える事があるみたいだから」
チャチャイが語るに、怪異融合手術において重要な点は、融合させる箇所に雑多な精気を入り込ませない事だという。結合部に隙が出来ると、不完全に仕上がって上手く体内の霊威が循環しない。
「そこでこのフロアに、おれが障壁を、ハナコが結界を張って『滅菌室』の完成ってスンポー!」
「そ――そうか――」
相槌を打ったきり、志津丸は言葉を続けられなくなった。
つくづく、自分は皆に世話をかけている。そんな思いが胸に
「シヅマルにもハコネの土産あるよ、ほら」
チャチャイが片手に提げていた袋からTシャツを取り出して広げた。
黒地のシャツで、前面中央にイチジクと思われる赤い葉を半分に切ったロゴマークが描かれている。その下には『特務機関NERV』と記されていた。
「……箱根土産かそれ?」
「ハコネだよー。エヴァの聖地だろ」
「知らねえよ。お前ほんとどこで仕入れるんだよそういう情報」
そこまで聞いていたハナコがふうっと息をつき、手を振って会話を打ち切った。
「何をやり合ってる。そろそろ時間だ、瑞鳶はもう手術室だぜ」
「
素直にTシャツを仕舞い込むチャチャイである。
「融合時には深刻な痛みが走るから」
ブロナーが手早く説明を始めた。
「しばらく眠らせるぞ。成功すれば起きた時にはもう普通に動けるだろうが、身体のバランスが変わってるのを忘れないようにな」
同時に彼女は、雁枝が術を使う時と似た仕草で手首を捻り、志津丸の額へと軽く触れる。
途端、視界がぼやけた。意識が遠のき、先程から口に出し損ねていた諸々の言葉が頭の中で薄れてゆく。
――ああ、伝えておかないと。
そんな風に思い至るなり、志津丸は暗くなる景色の中にチャチャイを探した。
「チャチャイ」
なに、と問い返す声が聞こえる。
「あんがとな」
「
チャチャイは声を張ってそう答え、それから笑ったようだった。志津丸は理由も分からないまま安堵を覚えて目を閉ざし、眠りに
◇
幸いにして、というべきか。志津丸は再び目を開く事が出来た。
手術室とも処置室とも違う、病室のベッドの上に彼は寝かされていた。
マットレス上には、シーツではなく半端に丸められた
医療センターが用意してくれたのだろう。おかげで久しぶりにまともな睡眠を取った気分だった。
「志津丸」
傍らから声がかかる。
首を向けると、ベッド脇の長椅子にミケが腰掛けていた。
戦いのあった夜から一体どれくらいが経過したのか。時間の感覚は希薄になっていたが、しかし随分と彼の顔が懐かしく思える。
「ミケ……」
「お、分かるか。うん、目も喉も問題なく動かせそうだな」
安心した様子で、ミケは椅子から立ち上がる。志津丸もそれに合わせて上体を起こした。思っていたよりずっとすんなりと身体が動いた。
両翼を広げる、いつもの感覚。
肩越しに右側の翼を見つめる。やや赤みがかった褐色が特徴的な、瑞鳶の翼だ。もう片方、志津丸の生来の翼は薄く灰色がかっているから、こうやって比べてみると案外違う色合いをしている。
「瑞鳶さんは先に目を覚ましててな。で、お前さんもそろそろ起きそうな様子だったから、他の皆は瑞鳶さんと、ドクター・マクギネスを呼びに行った。すぐ戻る」
「……そっか」
他の皆というのは、天狗たちだろう。ミケの座っていた椅子の上に空の猫用キャリーケースが置かれているから、雁枝も来ているのかもしれない。
とりとめもなく志津丸が考えに
「あの時――
志津丸はミケと視線を合わせた。彼の顔は詰問する風でも、憐れむ風でもない。
あの戦いの日、里で邂逅した時から、伽陀丸を殺す機会は何度かあった。恐らく実力の上では、志津丸にはそれが出来た。
だが結局、彼にはその決意が固めきれず――伽陀丸は半身をイーゴリに食われて死んだ。
結果としてイーゴリは霊威を増幅させ、ミケは瀕死にまで追い込まれた……。
陰陽士たちの会話を断片的に聞いたところでは、ミケは雁枝との使い魔の契約を解除したという。
嫌っていた自身の力を全て解放させ、不死性も失い、それでようやくイーゴリを討ち取った。
ミケにそこまでさせたのは志津丸の責だ。
では、伽陀丸を早々に殺すべきだったのか。
どうしてもその問いには頷けない。
「話した。最後に……」
ぽつりと、志津丸は答える。
「オレがそう思いたいだけなのかもしれねえけど。最後に……本当の話が……ずっとしたかった話が出来たと思う」
「おう。そうか」
ベッドに乗り上げたミケは、猫に姿を変えて志津丸の膝の上で前足を伸ばした。
「お前さんはここ数日、辛いもんばっか抱えてただろうからな。それが聞けただけでも」
紡ぐべき言葉を探す、短い沈黙が流れる。
「悲しいが――良かったよ」
膝に乗ったミケの片耳に、ぱたりと水滴が落ちる。ミケは耳を震わせて水気を払うと、顔を上げた。
自分が涙を落としたのだと、志津丸はそこでようやく気づいた。
「ちょいちょい涙もろくなるな、お前。……いいさ。ま、皆が戻るまでだ」
くるる、と喉を鳴らしてミケは丸くなる。
三色の毛並みに半ば顔をうずめて、声もなく志津丸は泣いた。
この猫は――歳の離れた志津丸の友は――彼が泣きたい時に、何故だかそばにいてくれるのだ。
そのせいで泣き虫であると思われるのは多少癪だなと、志津丸は嗚咽とともに胸中で零した。
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