第104話 霧去りて、夜は明く (4)

 存外、根岸の診察はあっさりと済んだ。


「四日前に比べると大分傷が塞がってるみたいですねー」


 検査担当の陰陽士は、デスクトップの画面上に示された数値の羅列を眺めながら呟く。


「身体が消えてる間に治った? そんな事あるんですか」

「消えてる間にっていうかね、肉体再構築の際に元の状態を復元しようとするんですよ。で、幽霊の怪我は特に、気の持ちようって所が大きいから……」

「ああ、存在が曖昧だから認識次第っていう」

「あなた特殊文化財センター職員さんでしたっけ? 知識があると話が早くて助かりますねー」


 街なかの怪異と渡り合う外勤の陰陽士と比べて、検査・研究の専任者はどこかマイペースだ。根岸は鶴屋つるやを思い出した。


「幽霊の外傷はね、傷を負わされた相手に最終的に勝ったとか、恨みを晴らしたとかでスッキリすると治りが早いんですねー。この分ならあとは、天狗か河童の精製する塗布薬を塗ってれば完治しそうですね」


 要は、根岸がイーゴリを「倒した」と認識した事が体の回復を促進したらしい。

 怪異の性質については一応勉強してきたつもりだが、改めて聞くと何とも奇妙な身体機能だ。


「お大事にー」


 陰陽士が幽霊にかける言葉としてはいささか奇妙な挨拶を背に、根岸は検査室を後にした。



   ◇



 エレベーターで一階へと降りてきた根岸は軽く視線を巡らせ、ベンチにぼんやりと腰掛ける諭一ゆいちに気づく。


 待ち合いスペースなのだろうか。諭一の座るその一角にはベンチと自動販売機が並び、音量をごく小さく下げたテレビが点いていた。


 テレビはワイドショーを流している。相も変わらず東京怪異激甚襲撃の話題で、二人の学者だかコメンテーターだかが議論を白熱させていた。


『ですから怪異は危険であると、生まれながらに加害性をそなえた危険生物であるという点をより周知徹底するべきです。怪異の顕現を抑制し……』


『いや、このデータを見て下さい。怪異にかかわる死傷者発生事件は一貫して人間による重大犯罪発生件数を下回っています。しかもこの数字には、自動車運転中に怪異を目撃してハンドルを切り損ねるなどの事故も含まれ――』


『馬鹿げてる。個体数が人間と全然違うでしょう! 発生率で見れば、我が国の治安は怪異によって……』


『あなたね、抑制抑制と言うけど、過度の思想統制は巨大怪異または暴走怪異の発生を誘発するんですよ! 巨竜ズメイの例では』

『それは仮説に過ぎません! イスラム圏、例えばイランでは』

『歴史も文化も民族も無視した暴論ですよそれは!』

『人間の安全を第一に考えられないんですか! あんたこそ妖怪なんじゃないの!?』

『問題発言ですよ今のは!』


 テレビ台の隅にリモコンを見つけた根岸は、勝手ながらテレビの電源をオフにした。


 画面とは反対側の窓の外を眺めつつ缶コーヒーを飲んでいた諭一が、それで根岸に気づいて立ち上がる。


「ネギシさん! 結構早かったね、怪我大丈夫そう?」


 早足で歩み寄って来た諭一は、「良かったら、はい」と根岸にもコーヒーを差し出した。

 声色はいつもどおり明るいが、根岸はどことなくその顔に、いつもと違う影を見る。


「ありがとう。怪我は、すぐに治りそうな感じなんで。それより」


 根岸は一先ず手近なベンチに腰を落ち着け、斜め下からそれとなく諭一の顔色を伺う。


「諭一くん、何か話したい事があるんじゃ?」


 彼の言葉に、諭一はしばし視線を彷徨さまよわせた。しかしすぐに観念した様子で首裏を掻き、再び根岸の隣へと座る。


「……ネギシさんって、こういうの割と見逃さないよね。今眼鏡もないのに」

「一応、『観測』の異能を宿してるらしいんで」

「え、なんかあの、モガリのイノウってのは人間の心も読めるの?」

「いいえ? ええと、今のは冗談です」

「めっちゃ冗談分かりづらい。しかもつまんない」


 辛辣な評価を得た上で、コーヒーを一口啜った根岸は、改めて諭一に問う。


「後悔してるんですか? あの夜の東京に……戦いの場に戻って来たこと」


 根岸が戦いに巻き込まれたのは、半ば強制的な流れの中での事だった。

 それに、彼は怪異に関わる仕事に就いている。今回は本来の業務よりも大幅に危険な事態の連続だったが、無関係ではない。


 天狗の里は全域が特殊文化財。そして、東京で起きる怪異事件に対処し都民の安全を守るのは、根岸の職務の一環だ。


 だから彼は、同族とも呼ぶべき怪異を殺したこと、目の前で犠牲者が出たことを「やむを得ない状況だった」と割り切れる。時間はかかるかもしれないが、いずれ自身を納得させられる。


 しかし、諭一は違う。

 彼は人間の学生に過ぎず、何の義務も負ってはいなかった。

 根岸や志津丸たちを助けるために、自らの意志のみで東京へ戻って来たのだ。そこには彼なりに重い決断があったに違いない。


 あの日の夜のうちはまだ冷めない興奮からか、諭一はあっけらかんとした態度を見せていた。

 が、目に焼きついた惨劇は落ち着いた後にこそフラッシュバックを繰り返すだろうし、この四日間で彼を取り巻いた報道も周囲からの視線も、気持ちの良いものばかりではなかっただろう。


「後悔……とかは、したくないんだけど」


 中身の少なくなったコーヒーの缶に目を落として、諭一は応じた。


「あの夜は……トラックの運転手助けたりしてさ。うわーぼくヒーローじゃん、って結構浮かれてた所あったよ。でも終わってみたら」


 今度は天井を見上げる。


「巻き込んだ辺路番ヘチバンには治らないような怪我させたし、『灰の角』も無傷じゃ済まなかった。……生き残ったブギーマンと人狼たちは、ティアリーアイズも含めて強制国外退去になりそうだけど。それも、賛否っていうの? 色々意見が出てるみたいで」


 その上――と彼は、ひとつ息を吐いて続けた。


「父さん母さんにも迷惑かけちゃった。……これでも一応、自力で責任取るつもりで決めたことなんだよ。つってもさ――こんなの全部、どうやって責任なんか取ればいいんだろ」


 今更後悔はしたくない、それでも。もう一度諭一は繰り返す。


「全部終わるまで、熊野の山奥に隠れてたら、どうなってたかなーってくらいは、考える」


 一旦、諭一の話は途切れた。

 彼の横でしばらく考え込んでから根岸は、独り言めかして呟く。


「諭一くんがあそこで駆けつけなかったら……トラックの運転手は勿論、僕も生きていられなかったかも」

「え、そうかな?」

「あの時点で、エルダー……つまりイーゴリの居場所も正体も分かってませんでしたから。

 そして人数も体力もこちらの方が不利。長期戦になったら勝ち目がないどころか、ミケさんが来てくれるまで多分もちませんでしたよ」


 軽く肩を揺すって、根岸は笑ってみせた。


「これはまあ、僕の損得だけの話ですけどね。でも、来てくれて感謝してますし、尊敬します。……怪異っていうのは自分勝手に気ままに生きるものみたいだから、怪異らしくそう言わせて貰います」


 そう伝え切ってから少しばかり気恥ずかしくなり、根岸は明後日の方角に視線を向けて、コーヒーを喉に流し込む。

 黙って根岸を見つめていた諭一はふと、先程までよりやわらいだ声で、「辺路番が」と口にした。


「彼が?」

「ぼくが東京にすぐ戻るかどうするか迷ってた時。『心配な奴がいるなら助けに行きゃいいっしょ』って」

「それは……それこそ怪異らしいスタンスですね」

「だよね。一昨日見舞いで顔合わせた時も、『怪異同士の喧嘩でこんな名誉の負傷、今時珍しいんスよ』とか何とか」


 諭一の喉奥から、笑いが漏れる。

 多少なりとも気分を晴らせただろうか、と根岸はこっそり考えた。

 観察眼はともかく、彼はあまりアドバイザーとしての技術を持ち合わせてはいない。冗談で他人を笑わせるのも苦手だ。


「ネギシさん、ついでにもう一つ愚痴っていい?」

「何です?」


 助言は下手でも聞き役くらいならば、と根岸は姿勢を正す。


「あのさ……報道だと『大物音楽家Aの息子』か『人気ピアニストの息子』みたいに言われてて、ぼくのこと『人気音楽系YouTuberのA』って書いてる記事一つもないんだよ!」

「……はあ」


 両目を瞬かせ、気の抜けた相槌を打つ他ない根岸である。


「これってケッコー酷くない?」

「スクープしたのは週刊誌だから、対象読者は中高年以上でしょう。その層へのネームバリューなら、長年ピアニストと作曲家をされてるご両親の方が大分上なのでは」

「うわぁーネギシさんが冷静に分析するぅー」

「これ非難される所なんですか!?」


 拗ねる相手に理不尽なものを感じて根岸が逆に抗議すると、諭一はようやく、へらりといつもどおりの調子の軽い笑顔になった。


「エッヘッヘ、冗談だって。あーちょっとすっきりした」

「ソレハ良カッタデスネ」


 一転、機械音声のごとき冷淡さで根岸は応じる。


「怒んないでよ。ホラ、空き缶を処分させて頂きますって」


 空になった二人分のコーヒー缶をひょいと取り上げてゴミ箱に投下した諭一は、そこで荷を降ろしたかのように両肩をほぐしてみせる。


「あとは……しづちゃんが、早いところ元気になったらなあ」


 それは根岸としても、一も二もなく同意出来る意見だった。

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