第102話 霧去りて、夜は明く (2)
その後の運びは手早かった。
根岸とミケは、まず
避難所はハナコの結界によって、降伏した人狼やブギーマンの収容所となっていた。
志津丸や
――陰陽庁特殊医療センター。
人間にとっては主に、霊感体質度合いを測る血液検査場として馴染み深い施設である。根岸も子供の頃、霊感が発現した時には世話になった。
各都道府県に一つ以上は設けられていて、今回の行き先である東京都千代田区のセンターは国内最大級の規模を誇る。
この施設では、ヒトの霊感研究と並行して怪異の肉体や霊威の研究も進められている。
実のところ、怪異に対しては『医療』をメインとしている訳ではなく、多少不安はあったがこの際致し方ない。
ヘリコプターを見送った後、避難所には伊藤とミケ、ハナコが残り、降伏した怪異たちを自衛軍に引き渡す事となった。彼らは結界を保ったまま、
――ちなみに、この時の対国外怪異特殊作戦部隊隊長・
「二十数年ぶりの実戦出動がやりがいのないもので終わりましたが、いかがです?」
と、いささか挑発的な質問を受けたのだが、
「事態の早期収束に越したことはありません」
彼は至って淡々と回答したという。
根岸たちはというと、
辺路番は明白に重傷と呼べる容態である。ヘリで搬送して貰った方が良いと根岸は勧めたが、彼は平気だと言い張る。
戦いで消耗した餓鬼たちを置いて行けなかったのだろう。
結局、
◇
「眼鏡……買わないとだな……」
病室のベッドに腰掛け、血流し十文字の柄をクロスで拭き上げながら根岸は呟く。裸眼のままでは何の作業をするにも、とにかく不便だ。
根岸は特殊医療センターの病棟で寛いでいた。
検査と診療を受けて、今夜は宿泊するように言われたので、ベッドと入院着を借り先程シャワーを浴びた所である。
血流し十文字の本体とも言える槍の穂の方は、まだ検査施設の結界内に預けていた。
というのも、本来十文字は危険種認定を受けるはずの怪異なのだ。結界付きのアタッシュケースに入れて管理する決まりになっている。
根岸が今はもう無害だと主張したところで、証明は難しい。
第一、幽霊である根岸には元々十文字の呪いは効かなかった。人間に対する安全性は、目下確認中だ。
「ネギシさん買い物行くの? 明日?」
ベッドの傍らの長椅子に乗り上げて、スマホの画面を見ていた諭一が顔を上げる。
幸いにして彼は、軽い擦り傷程度の負傷で済んだ。『灰の角』が、彼やティアリーアイズを守り抜いてくれたお陰と言える。
あの戦場で唯一の生身の人間として医療センターを訪れた諭一は、「えっ人間!?」「どうしてウェンディゴ憑きが把握されないまま日本に住んでるの!?」と職員らを大いにざわめかせ、これまた一泊検査入院となってしまった。
当然ながら人間の病棟と怪異の病棟は異なる。もう日付も変わっているし、早く自分の病室に戻らないと注意を受けそうだ。
ただ、諭一としては志津丸や辺路番、それにティアリーアイズの容態が気になるらしい。ミケも立川駐屯地に同行したきり、まだ戻ってきていない。
「出来れば明日……でも」
諭一の質問に、重くなってきた瞼を上下させて根岸は答えた。
「職場……
「は? 午前休? いやいや、一日休もうよ」
あたふたと両手を振って、諭一は言う。
「これだけの怪異事件が起きた後だと、影響されて都内の特殊文化財にも何か起きてるかも。総点検になったら皆大忙しですから、僕だけ休むっていうのは――」
「もー、あのねーネギシさん。人って働き過ぎると死んじゃうんだよ」
「実際仕事中に死にましたよ。過労のせいじゃないけど」
「うわ経験済みだったこのひと」
さらりと事実を述べる根岸に、諭一は頭痛でも催したかのように眉間を押さえた。
「諭一くん買い物行きたいんですか?」
「んー、行きたいっていうか」
と、スマホの角で後ろ髪を小突いて諭一は口を尖らせる。入浴後だからか、彼は長いブルーの髪を下ろしていた。
「フツーに陰陽庁から親に連絡行ったから……父さんも母さんもびっくりして、仕事切り上げて明日には戻るって言ってて……家帰りづらい。説教怖い」
「それは早く帰りましょうよ!」
思わず根岸は声を張り上げ、すぐ口を噤んだ。ここは大部屋なので、他のベッドではチャチャイや餓鬼たちがすやすやと眠っている。
「きみは巻き込まれただけなんだし、全部正直に話せばそんなに叱られたりはしないんじゃないですか」
「も……もう電話で母さんに嘘ついちゃったんだよなあ……」
「――そこは観念して平謝りするべきですね」
「うぅ」
肩を落とした諭一は自分の左腕の刺青を見遣り、急にムスッとした。
「『全て彼の言うとおりだ』だって。なんで『灰の角』がネギシさんと意気投合してんの、曾孫を差し置いて」
「皆心配してるだけですよ。いい事じゃないですか気遣ってくれる家族がいるってのは」
何となく、根岸は実家の両親と弟妹――厳密には他人だが――を思い浮かべた。
東京がこんな事になって、彼らも気がかりかもしれない。後で連絡しておこう、などと眠い頭で考える。根岸のスマートフォンは充電中だ。
「って事で僕はそろそろ寝るから……」
「はーい。まあ、しづちゃん達もこの分だと、容態急変ってことはなさそうだね。早く元気になるといいんだけど」
自分に対してはちゃらんぽらんな割に、他人への情は深い諭一である。
「おやすみー」
挨拶と共に部屋の明かりを落として、諭一の足音は遠ざかっていった。
根岸は分解した槍の柄を鞄に仕舞って、どさりと枕に沈み込む。
◇
目を明けるとそこに、桜の花びらが舞っていた。
一体どこから、と周囲を見渡す。振り仰いだ先、見慣れた木立の片隅に、見事な枝ぶりのヤマザクラが薄紅の花を満開にしている。
――見慣れた木立?
視界がはっきりしてきたところで、根岸はもう一度目を瞬かせた。
目の前に黒い瓦屋根の重厚な邸宅。手入れのされた広い庭。背後に生い茂る木々。
ここは
「……ええ!?」
自分の身体を見下ろすと、眠る前に着ていた病院着のままで突っ立っている。靴すら履いていない。
声を上げたきり呆然とする根岸の耳に、両開きの玄関扉の立てる軋み音が届いた。
「根岸さん! おお、戻ったかい」
ミケが人間の姿で、ほっとしたような表情を浮かべて立っている。
「ミケさ……な、何がどうなって……」
「あんた、霊威を使い果たしたのか一時的に肉体が消えてたんだよ。今日は木曜日。あんたが眠ってから四日経った」
説明しながらもミケは根岸の手首を取って、「ほら入った入った」と嬉しそうに家の中へと引っ張り込む。
「もく……っ木曜日!?」
このところ起きなかった現象なのですっかり忘れていた。
根岸は元々『木曜日、音戸邸に出没する幽霊』だったのだ。死亡した日が八月最後の木曜日だったためである。
月日の経過を正確に把握出来るようになってからもしばらくは、眠りに就くと次の木曜日まで消滅してしまう体質に悩まされた。
「無断欠勤んん!!」
悲鳴に近い調子で根岸は叫び、頭を抱える。学校だろうとアルバイトだろうと、無断でサボった事など一度もなかったというのに。
「勤め先への連絡ならミケが済ませたよ。多分木曜にはまた身体が戻るだろうけど、戻ったら先に医療センターに行かせるって」
奥の間から姿を見せたのは雁枝である。彼女は両手を腰に当てて、つんと鼻先を上向けた。
「秋太郎、初っ端の一言がそれかい? ミケはお前を心配して、今朝は夜明け前から玄関を見張って待ってたんだよ」
「え……あ」
「いっ、いいよ御主人。そんな話は」
足拭き用のタオルを持ってきたミケは、それを根岸に渡すと顔を隠すようにして猫に化ける。そのまま廊下の隅にうずくまって、彼は毛繕いを始めた。
昨夜――根岸の記憶では昨夜だが実際は四日前――早く家族に会うよう諭一に忠告したばかりだというのに、当の根岸は四日間も失踪してしまった。人に説教している場合ではない。
消えたくて消えた訳ではないとはいえ、あの夜、体力も能力による消耗も限界を超えた事は途中からはっきりと自覚していた。
「あの、ミケさん。ご心配をおかけして」
自分の脇腹を舐めているミケの前にしゃがみ込んで、根岸は頭を下げる。
「だから気にしなさんなって。ただの体質だろ。幽霊にはよくある事だから、俺も心配したって程じゃ――夜明けに目が冴えるのは、これも猫の癖で――」
半端に舌を出した状態でもごもごとミケは喋り、その末にまた人間へと姿を変えた。毛繕い中だったので、座って柔軟体操をしているような妙な体勢だ。
「つまりその」
横髪をいくらかいじった後、ミケは金縁の目を細め、照れ臭そうに口角を上げて根岸と視線を交わした。
「おかえり。お互い、無事で何よりだ」
「ただいま……帰りました」
こうして、春の週末の小旅行は、長い帰路の果てにようやく終わりを告げた。
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