第101話 霧去りて、夜は明く (1)

 エンジンとプロペラの立てる特徴的な機械音が近づいて来る事に、根岸は気づいた。


 ――ヘリコプター?


 今日の日中、ヘリに酷い思い出が出来てしまった彼は夜空に目を凝らす。視界が酷く悪い。

 胸ポケットから割れた眼鏡を取り出してみたが、残念ながら眼鏡は激しい戦いの中で更に悲惨なまでにひしゃげていた。最早鼻先に引っ掛ける事も出来ない。


「白地に浅葱色あさぎいろ。ありゃ陰陽庁おんようちょうのヘリだ」


 夜目の利くミケが金縁の瞳を瞬かせて言った。


「高度を落としてる……こっちに用があるみたいだが、ここに着陸するのは難しいよな。出迎えてやるか」

「出迎え?」


 根岸が問い返す間にも、ミケは彼を肩口から抱え上げて巨獣の姿を取り、その場を飛び立った。


「うわっ――」


 風を切って空を駆ける。制止の声を上げる暇もなくミケはヘリコプターの間近まで迫り、そこでまた人の形に化けると、根岸を背負ったままヘリの窓に難なく取りついてコンコンとノックをした。


「おうい、入れてくれ」

「えぇ……」


 根岸も呆れたが、窓ガラスの向こう側にいる操縦士はというと、気の毒なくらい仰天している。陰陽庁職員だから非常識な怪異に慣れてはいるだろうが、それにしても限度があった。


 ミケの背で根岸がまごついていると、程なくドアが開き、中から顔を出した女性が手招きをする。


「おや。あんたは確か」


 騒々しい駆動音の中でミケの呟く声が微かに聞こえた。


 二人はヘリの内部へと潜り込む。

 中には数名の人間が搭乗していたが、うち一人は根岸も見覚えのある陰陽士おんみょうしだった。

 ぴっちりと引っつめた黒髪に能面よりも表情の読みづらい顔立ち。

 現在は中央局勤めであるはずの、伊藤若菜いとうわかなだ。


 伊藤はミケと根岸にヘッドセットを手渡し、会話が出来るようになってようやく、ごく尋常に頭を下げる。


音戸邸おとどていの方々。ご無沙汰しております」

「相変わらずだな」

「時間がありませんので手短に」


 スペースの節約のため猫に変化へんげして、根岸の膝の上で無理矢理ヘッドセットを被るミケに、伊藤は無表情で話しかけた。


「先程、陸上自衛軍対国外怪異特殊作戦部隊の出動が決定しました。今後二十四時間、港区および千代田区に顕現する全ての危険怪異を拘束、もしくは排除する許可が出ています」

「特殊部隊? すごいな、前回出動したのって僕が生まれる前じゃないですか。……ああいや、人間だった僕が。つまり四半世紀前」


 つい興奮を覚える根岸だったが、考えてみると、今は幽霊である彼も排除対象となり得るのだ。


 怪異に対する嗅覚の利かない人間からすれば、街中まちなかで怪異を探り当てるだけでも困難を極める。ましてや相手が人にとって危険か安全かなど、短時間で正確に見分けるのはほぼ不可能な話だった。


「また同時に、複数の証言と富山黒部支局の陰陽士からの連絡によって、危険怪異と戦闘状態にあるのが貴方がたと推測し――」

堀田ほったさんか。そこまでしてくれたのかあの人」


 ミケが感心した風に声を上げる。根岸の知らない所で、何か幸運な出会いがあったらしい。


「そこで我々は、友好怪異との連携を交渉するべく、猶予を貰ってこちらへ。……しかし上空から確認した所では、最も危険な怪異の一体はたった今消滅したようですね?」


 伊藤の言葉に、根岸とミケは顔を見合わせた。


「まあな。一応のケリはついた。何だい、見てたんなら大砲の一発もぶっぱなしてくれりゃ良かっただろ」

「当機にそんな装備はありませんし、市民と市街地に被害が出ます。ともあれ――そういう事でしたら、ぜひともこれから陰陽庁中央局で証言して下さい。友好怪異の協力があった事を早期に発表しましょう」

「……どうかしたんですか?」


 曖昧な問いかけが根岸の口を衝いて出た。

 伊藤の言動には違和感を覚える。どこかいているようでもあった。以前に会った時の印象とは異なる。


 一度、少しばかり意外そうに根岸を見つめ返した伊藤は、改めてまた口を開く。


「今回の事件を受けて、反怪異派が既に動き出しています。政治家に官僚、民間団体、そして海外の組織――」

「せっかちなこったよ」


 ミケがぼやいた。


「あるいは、事件を起こした怪異の狙いはそこにこそあった可能性も。人間社会と怪異の分断の深刻化です」


 硬い表情をますます硬化させて、伊藤は推論を述べる。


「ふうん。正直、イーゴリの奴はそこまで後先考えるタイプに見えなかったが」


 と、ミケは自分が首をもぎ取った相手に対して、いくらか酷な評価を下す。続けて彼は「伽陀丸かだまるは……」と呟きかけるも、今ひとつ考えのまとまらない様子で言葉を濁した。


「つまり伊藤さんとしては」


 膝上のミケの、ずれてきたヘッドセットの位置を直してから根岸は発言する。


「反怪異派の動きを牽制したいと? 陰陽庁は、というか日本の公的機関は基本、積極的な怪異排斥も過干渉も避ける立場ですよね……」


 国際的な分類で言えば、日本は親怪異派でも反怪異派でもなく『怪異容認国』という事になる。

 ミケがそうであるように、身分証を偽造してこっそり大学に通うくらいは見過ごされているので、『黙認』と呼ぶ方が正確だろうか。


 一方で、故意に怪異を顕現させる降霊会などは無許可で行うと取り締まりを受けたりする。


『無闇に増えて欲しくはないが、大物怪異と揉めたくもない』


 といったあたりが政府の本音だろう。ただしその本音を明確にはしていない。尤も、なし崩しでそういう状態になっている国家は数多かった。


「大丈夫なんですか? かなり明白に、怪異ぼくらに親和的な態度を取ったと見做されてしまうんじゃ」

「そこは臨機応変に。陰陽士の務めは、あくまで人間社会の治安維持です」


 重ねて質問する根岸に、さらりと伊藤は答えた。


「貴方も仰ったように、今は四半世紀に一度レベルの重大な事態。これに乗じて更なるテロや暴動が誘発されるような事は、あってはなりません」


 そこまで回答して伊藤は視線を逸らし、小さく吐息を漏らす。

 根岸は初めて、情動めいたものを彼女の横顔に見出した。


「今日だけで……多くの命が奪われました。私の同僚も。は、残された者の感情を強く揺さぶる」


 根岸は伊藤に気取られないよう、軽く息を呑む。


 彼女にはかつて夫がいた。根岸の目の前で反怪異のテロリストに殺された陰陽士――鶴屋琴鳴つるやことなり

 鶴屋の死亡時、既に二人は離婚していたと聞くが、だからといって彼女の中に一切何の気持ちも残っていないとは、他人である根岸にはとても断言出来なかった。


「揺さぶりをかけられた感情のままに物事を動かすのは、非常に危険です。……一度、たかぶった怪異への敵愾心てきがいしんを皆が落ち着かせる。その後で必要な議論を執り行なう。そういう順番が理想です」


「なるほどな」


 ミケが納得顔で頷く。


「伊藤さん、あんたの意見は分かった。しかし、俺としちゃ大々的に報道されるのは勘弁願いたいんだがね」

「勿論、貴方がたの顔や名前までは公表しませんよ。下手に偶像化され熱狂する人間が現れても、やはり危険ですから」


 反怪異派だけでなく、怪異崇拝派にも警戒は必要という訳だ。治安維持も楽ではない。


「偶像化ねえ」

「貴方は容姿が整っておいでですからね。猫としても人としても」

「……そりゃどうも」


 少しばかり気まずそうに、ミケは耳裏を後ろ足で掻いた。


「中央局へ出向くのは構いませんが、その前にいくつかやる事が」


 左手で挙手をして、根岸は言う。

 伊藤はそんな根岸の様子をさっと観察してから、先回りして答えた。


「怪我の治療でしたら、微力ながら陰陽庁でもお手伝い出来ますよ。怪異の使う治癒の異能には及びませんが」


 彼女がそう勧めるのも当然ではある。現在の根岸は、どこがどうと言えないくらい全身に痛みを抱えていた。

 右肩は上手く動かないしシャツからボトムまで血と土埃まみれ、正直なところ高価な公共物であるヘリの座席に着くのが躊躇ためらわれる。


 ちなみに彼の傍らには柄を縮小した状態で血流し十文字が置かれているが、こちらも大分汚れてしまっていた。


 ただ、彼がやるべき事はまた別にあった。


「いえ。それより先に、まだ戦っている味方の怪異たちを助けに行かないと」

「そうだな」


 ミケもまた、二本の尾をぴんと立てる。


「特に猫又たちは山暮らしで人慣れしてないから、陸軍と鉢合わせるとまずい。俺が迎えに行くよ。あとは御主人と合流して――」


 と、そこでミケは一旦言葉を切り、考え込むように顔を洗う仕草を見せてから、前足を揃えて伊藤に申し出た。


「――伊藤さん。怪異治療がそっちでも出来るっていうなら、ひとりて貰えるかい」

「どなたを?」

志津丸しづまるだ。高尾の天狗。片翼を失った」


 加えて、異能の過剰使用で意識不明ときている。

 雁枝かりえが傍についているし命に別状はなさそうだが、翼の再生はもう難しい。完治にはどれだけかかるか、といった容態だ。


「何とかしてやりたいんだ。人間が集まった時の文殊の知恵ってやつを借りたい」

「承知しました。我々としても、単なるパフォーマンスの『親睦』ではないという事を怪異側に示さなければならない。手を尽くしましょう」


 真っ直ぐに背筋を伸ばし、小さな猫と視線を合わせて伊藤は告げた。


「恩に着る。じゃ、行くか根岸さん」

「ええ」


 ミケが根岸の膝から降りて、人の姿に化ける。根岸も借りていたヘッドセットを外そうとしたが、その時、伊藤が思い立った様子で再度口を開いた。


「私は……個人的には、怪異にさほどの思い入れはありません。人と怪異、互いの秩序さえ守れていれば、過剰な交流は不要と考えますが」


 そこまで言って彼女は唐突に、先程よりも深々と頭を下げる。


「とはいえ、この言葉を口にしないのは不誠実ですね。音戸邸の皆様、東京を守って下さりありがとうございます」


 ミケが牙を覗かせて笑った。彼は既にヘッドセットを置いていたが、しかし猫又の聴覚があれば十分聞き取れただろう。


 気にするな、と唇の動きだけで伝えると、ミケは根岸を連れて、開かれたドアからまた夜空へと飛び立った。

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