第100話 解放せよ骨髄の慟哭 (8)

 禍礼まがれ率いる猫又の群れと、人狼の群れとの戦いは決着がつきつつあった。

 負傷したとはいえ辺路番ヘチバンの率いる餓鬼の軍勢も参戦し、彼らは数で優位に立っている。強力な異能を持つ『灰の角』とリンダラーも加わっている。

 人狼たちは芝公園しばこうえんの片隅まで追い込まれ、取り囲まれて、白旗を上げる目前となっていた。


 そんな中、公園前の道路でミケは異形と成り果てたイーゴリを迎え撃つ。


 道路に車の往来はない。ただし周辺からは未だ、複数の緊急車両のサイレンがひっきりなしに聞こえていた。


 雁枝かりえとの主従契約を解除し、全ての力の封印を解いたはずのミケだが、根岸が見た所では、大きさ以外にそこまで変容した点はない。

 寧ろ背中に根岸を乗せるためか、放熱自体は穏やかになっている。


「根岸さん、伏せててくれ」


 ミケが素早く告げるのと同時に、坂を下ってきたイーゴリが突如、九本ばかりに増えた脚や舌をバネのように跳ねさせた。

 ばっくりと開かれた巨大な口が空中から迫る。


 すかさずミケは二本の尾を振り立て、そこから火炎を放射した。赤い稲妻を伴う超高温の青い閃光が、イーゴリの脚の一本を刃物のごとく焼き切る。


「グッ」


 短く唸ったイーゴリはバランスを崩すも、尾のように長く伸びた翼で地面を打ち据えて着地した。そのまま姿勢を整えるでもなく、まっしぐらにミケへと襲いかかる。


 ミケが後ろ脚でアスファルトを蹴立てた。


(速っ――)


 一瞬の加速に根岸は息を詰める。周囲の景色が流線でしか捉えられない。


 ミケはすれ違いざまにイーゴリの翼を前足の爪でもぎ取り、そこから一秒足らずで方向転換して、相手の口内から生えるブギーマンの腕を食い千切った。


「ガぁあああッ」


 焼け焦げる臭いと苦悶の声。


 文字通りの疾風迅雷だった。ミケ自身が電撃にでもなったかのようだ。

 そしてそれはまさに、、と呼ぶべき戦い方だった。

 縦横に焼き切られていくイーゴリの一部は地面へと散らばるばかりで、ミケはそれらを己の身の内に呑み込もうとはしない。


「気に入らねえッ」


 明らかな劣勢に立ちながらも、イーゴリは狂暴に嘲笑う。


「食えばいいじゃねえか! オレを! どっちが獲物か決めてやろうってんだからよぉ!」

「それはお前さんが勝手に言ってた事だろうが。付き合ってられるか」


 淡々と応じてからミケは獣毛を逆立て、フゥーッと威嚇音を吐いた。彼の周囲で淡く火の粉が舞い飛ぶ。

 恐らく今の彼は、攻撃の瞬間にだけ爪や牙に高熱が宿るよう自身の力をコントロールしている。極限の集中を要し、絶えず消耗し続けていると容易に想像はついた。


「他の奴の血肉を取り込むのがそんなに怖いかよ!? 強くなるってだけの事が! 今よりもっと好き放題やれるってだけの事が! オレはずっとそうして生きてきた!」

「怖いに決まってる」


 挑発的な物言いに対して、ミケは即答した。


「お前を見てりゃあな。そんな風に窮屈な生き方、誰がしたいもんかね」

?」


 さして面白くもない冗談を聞いたかのように、人狼は無数の裂けた口の端を歪ませる。


「このオレが?」

「そうだとも。まさか自分の今の有り様が分からん訳じゃ――あるまい!」


 巻きつこうとしてきた舌先をまた焼き払い、逆にイーゴリへと肉薄してミケは続けた。


「殺して、食って、化けて! そのせいでもっと飢えて。じきにそういう生き方しか出来なくなって……末路がこれだ!」


 噛みつき合いもつれ合った末に、ミケはイーゴリを高速道路の高架橋に叩きつける。

 彼は身構えたまま、空中に浮遊して静止した。


「引き返せる道も別の道も、引き止めてくれる奴も、どこかの時点までは見えてたんだろうに」


 朱と金に輝く両眼がイーゴリを冷たく見下ろす。


 ミケの背で戦いを見守る根岸の脳裏に、ふとぎるものがあった。

 先刻、イーゴリの犠牲者たちの魂を『観測』した中で、ひときわ老いた印象の人狼の最期を見届けたのだ。


 ――すまなかった。間違っていた。


 色褪せた風の灰色の毛並みの老狼は地面に倒れ、腹部を血に濡らしてそう繰り返した。

 狼の目の前に立つのは、少年だ。人間の姿をしているが口の回りを血に染め、荒天の海を思わせる濁った瞳で狼を見下ろしていた。


 ――お前を特別な子だと。群れのためばかりにその力を利用しようと。全て間違っていたんだ。


 老狼の言葉は、本来であれば根岸が知らないはずの言語である。しかし不思議と意味は理解出来た。


 ――すまなかっ……


 今一度、狼が謝罪の言葉を吐き出そうとした時。

 少年が突然、人間にはあり得ない動きで狼の喉に食らいついた。


 映像はそこでぷつりと途切れた。


(あれは――)


 と根岸は僅かな間、思いを馳せる。現在のイーゴリとは別人の姿だが、瞳の印象だけは瓜二つの少年に。


「悪いが俺には助けてやれん」


 人智を軽々と超える闘争の最中さなかでありながら、ミケの告げる声は静かである。


「お望みどおり同類になってやるのも御免だ。すまんな」

「的外れな話をゴチャゴチャと――!」


 瓦礫と土埃を振り落とし、イーゴリが身を起こした。

 千切られたはずの彼の翼は根元から不気味に脈動し、樹木のごとく枝分かれして新たな翼を伸ばしていく。

 飛翔出来るような形状にはとても見えなかったが、複数のそれらをうごめかして彼は飛んだ。


「オレを見下みくだしてんじゃねえクソジジイっ!」


 再び口の一つから這い伸びたブギーマンの腕が、更には見たこともない緑がかった鱗の生えた腕が、ミケに組みつく。

 腕のいくつかは背中で伏せる根岸にまでも狙いを定めたが、それより先に火炎のたてがみが広がり、彼の前面と頭上を覆った。

 火炎は根岸に熱を浴びせる事なく、間近で暴れ回る腕や翼を打ち払う。


 だが――イーゴリの攻撃を掻い潜り、反撃に転じようとするミケは無傷とはいかなかった。


 ミケのこめかみ付近を鈎爪が掠め、毛皮から血が吹き出る。

 根岸は炎に守られながら、背筋の冷えるのを感じた。既にミケは吸血女の使い魔ではなくなっている。つまり半不死の特性は失われているのだ。

 一方で、どれほど噛み千切られようとすぐに更なる異形となって復活するイーゴリの肉体は、無尽蔵の命を持つようにさえ思えた。


「このままじゃキリが……」


 つい焦燥を口に出した根岸に対して、ミケは軽く髭の片方をつり上げてみせる。


「いや、キリは必ずある。言っただろ、奴の鎧はあんたが剥がした」


 空中でイーゴリの舌に捕まりかけたミケが大きく身をよじってのがれ、逆さに近い体勢を取った。


「暴走した変身能力に頼ったところでそいつはまがい物の身体だ。変化の術を使うなら常識のひとつ……


 ミケが何を狙っていたのか、ここにきて根岸も理解した。

 イーゴリの狼としての前脚――根岸が血流し十文字で穿った、あの傷だ。

 そこにミケは嚙みついた。苛立ちと苦痛にイーゴリが吠える。


 ただ牙を立てただけにはとどまらなかった。ミケは自身の口内から、渾身の火炎を撒き散らす。


「うがああアアアアアッ!?」


 灼熱の炎が傷口からイーゴリの半身を駆けのぼった。

 イーゴリ自身のものではない脚が、腕が、翼が、一斉に動きを鈍らせる。一瞬の、しかしミケにとっては十分過ぎる程の隙だった。


 ものも言わず再度体勢を反転させたミケは、イーゴリの喉元へと遂に食らいつく。

 目的は動脈を破る事でもなければ窒息でもない。強靭な牙が容赦なく狼の首の骨を粉砕していく。


「その首を獲るッ!」


 宣言にたがわず、彼は噛み切った。


 ミケに身体ごと咥え上げられ、大きく振られたイーゴリの頭部が千切れ飛ぶ。


 くびから先を失い、そこでようやく思い出したように激しくうごめく四肢とその他の器官を、ミケは宙に浮いたまま押さえつけた。


「消滅どころか……まだ動くのかよ!」


 ミケはイーゴリの身体を下敷きにする形で高度を急速に落とし、またもや橋の上へと轟音を響かせて着地する。しかしなおも、異形の巨体は暴れるのをやめない。


「首はッ! 根岸さん、奴の首はどうなってる!?」


 暴れまわる胴体から視線も手も離せないミケは根岸に問い質す。

 根岸は急ぎ辺りを見回した。割れた眼鏡は胸ポケットにしまっているので、あまり視界は利かない。


 ただ、声が聞こえた。


『そこに』


 老齢の、疲れ果てた男の声だ。声の源を辿った根岸は、道路の端にぽつりと佇む、色褪せた灰色の毛並の狼を見つける。


『終わらせてやってくれ』


 狼の姿は、瞬き程の間に薄れ消えた。

 そしてその直後の事だ。高速道路の高い欄干を破壊し、乗り越えて這い進むイーゴリの生首が現れたのは。


「……っ!」


 常識を超えた光景に啞然とする根岸だったが、すぐさま彼は血流し十文字を構える。

 老狼だけではない。イーゴリの犠牲となった魂たちが彼らを取り囲み見守っている。皆が終わらせてくれと願っている。


 ――ミケの言うとおりだ。『キリ』はそこにある。


「腹が――減った! どうしてくれるクソ猫! 腹が減っちまったじゃねえかあああッ!」


 喉の断面と下顎から、牙とも昆虫の脚ともつかない突起を生やして這いずるイーゴリは、そんな風に喚いた。

 言語を吐いてはいるが最早理性を感じさせない。その様相は、かつて根岸を殺した暴走する幽霊を想起させた。


 イーゴリの首が跳ね飛んだ。血反吐と唾液にまみれた口を限界までこじ開ける。


 暴れ馬も同然のミケの背の上で根岸は何とか上体を起こし、膝立ちとなった。極限の緊張と集中からか全ての景色がゆっくりと流れていく中、呼吸を整える。


 狼の顔に埋め込まれた無数の眼球が根岸をめつけた。そのうち、額の中央にある黒ずんだ一つ――ヴィイの魔眼を模したであろうそこに狙いを定め、真っ直ぐに槍先を押し出す。


 そして血流し十文字の穂は、吸い込まれるかのようにイーゴリの額の眼へと突き立った。


 咆哮――


 人とも獣とも異なる、まさしく断末魔の叫びが夜空を震わせる。


 槍先を抜く事なく、ミケの背から根岸は飛んだ。イーゴリの鼻先へと着地して、相手を真向かいから見据える。


「ひとりだけ、貴方に謝りたいと言う犠牲者が」


 ふと思い立って、根岸は告げた。

 イーゴリの三対の青い眼が根岸に視線を返す。

 彼は何かを見出そうと、思い出そうとしたのかもしれない。だが、遅すぎた。どうしようもなかった。


「あとの皆は……要約すると」


 語りかけながら、腰を沈め両足と両肩に力を篭める。姿勢が固まる。

 最後の一撃を、根岸は繰り出した。眼球に突き立った血流し十文字の穂先はそこを押し通り、狼の頭蓋を深々と貫いた。


「うらめしや、だそうです」


 槍を抜き取るその時には、既に肉体の感触は消え失せていた。

 狼の巨大な頭部が、急速に薄れゆく。夜霧に映った遠のく影のごとく。そしてその霧もやがて晴れ、散っていく。


 霧中のイーゴリイーゴリ・ヴ・トゥマネは、根岸の目の前で確かに、二つ名のとおりに消滅した。


「あ、うわっ」


 途端、根岸は素っ頓狂な声を上げる。

 イーゴリの鼻先に乗り上げてとどめを刺したのだから、彼が消え失せれば足場がなくなるのは当然だ。


 バランスを崩した根岸は瓦礫の上に転げ落ち、更に壊れた高速道路の欄干から地上へと落下しかける。


「うおおい! 根岸さん!」


 人の少年の姿を取ったミケが慌てて駆けて来た。

 欄干の向こうへ消える寸前で根岸の身体を抱き止めたミケは、団子になって路上に転がる。


「危なっかしい事してくれるよなあ」

「……すみませんでした」


 道路に仰向けに寝そべって、根岸は無人となった周囲を見渡した。

 死闘の痕跡はそこかしこに残っていたが、しかし全てが幻だったかのように静まりかえっている。ミケが押さえつけていたイーゴリの胴体部も、首と共に遂に消滅したようだ。


 そして、根岸が『観測』し存在を固着させたイーゴリの犠牲者たちもまた。


 一時的に幽霊として顕現したものの、彼らは自身の無念が晴らされるのを目の当たりにした。

 血流し十文字とその娘のように、取り憑くべき媒介もない。

 そういった理由からか彼らはイーゴリの消滅に伴い、皆が姿を薄れさせ、消えていった。


 あの人間の少女は、老いた人狼は。この結末に納得しただろうかと、根岸は思いに沈む。


 ……あるいは、死を納得させようなどという考えは傲慢なのかもしれない。根岸に出来るのは、ただ見届ける事だけだ。彼らが確かに生きていた、生きたかったのだと。

 たった今根岸が命を奪ったイーゴリですら、そこだけは真実だった。


「あーあ、無印で三九九〇円だった上着がずたぼろ」


 ひょいと立ち上がったミケが、破れた袖をひらひらと揺らした。

 彼はイーゴリにほとんど全身食われかけている。その傷は治ったが、衣服までは修復されず原型をとどめない有り様だ。


「これもう全部脱いでもいいんじゃないか? 布が変な風にまとわりついてくすぐったいんだよな」

「駄目です。まだです。家に帰るまで我慢して下さい」


 そこは厳しく、きっぱりと根岸は言った。肌感覚が猫に近いミケは、何かというと服嫌いを発揮する。


「分かったよ」


 ミケは苦笑に肩を揺すった。


「全く、あんたにゃあかなわん」



 【解放せよ骨髄の慟哭 了】

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