第97話 解放せよ骨髄の慟哭 (5)

 ミケは怪異との戦いにおいて、それなりの経験を積んできた。


 長年、もがりの魔女雁枝かりえの使い魔として周りの怪異の悩み相談や問題解決を引き受けていれば、少なからず揉め事に巻き込まれるものだ。

 だから世を呪う悪霊や妖怪から、募らせた怨み憎しみを八つ当たりに近い形でぶつけられた覚えは何度かある。暴発を起こす怪異の力の源泉とは、そうした思念から湧きがちだった。


「しかし、こいつは……!」


 感嘆に近い呟きを、ミケは漏らした。


 イーゴリの巨体が、赤い塗装の鉄骨を蹴って跳ね飛ぶ。

 獣の形態のミケは爪を繰り出したものの、かわされ標的を見失った。一瞬ののち、背後に気配が差す。


(後ろを取りやがった)


 膂力りょりょくでミケを上回る怪異とは何度か戦ったが、身のこなしで彼を凌駕する怪異は――極めて珍しい。


 回避しようと身を捻ったが、背中から脇腹にかけてを牙が掠めた。空中でバランスを崩したミケは、咄嗟に人間へと姿を変えて鉄骨に掴まり、着地する。

 片膝をついた鉄板に数滴の血が滴った。


 既に肩と左脚に浅くない噛み傷を負っている。半不死とはいえ、そうそう即座に傷が完治する訳ではない。これ以上の深手は動作に支障が出る。


「どんだけ俺の生き血を気に入ったんだよ全く。カルピス飲んだ時のハナコか?」


 この敵からは怨嗟も憎悪も感じ取れない。

 そこにはただただ、刹那の快楽への飽くなき欲求があるばかりだ。


 全般に、怪異には気まぐれな享楽主義者が多い。ミケにしてもそういう傾向はある。

 が、いわば一個体の我儘わがままに過ぎない、そんな思念だけを糧にここまで法外の強さを手に入れられるものだろうか? 悪い意味で驚嘆に値する。


 おまけに闘争によって傷つくほど、他者の命を食らってその肉体を回復させるほどに、彼は更なる強靭さを得るらしい。あまりにも厄介だ。やはり先程の一戦で――いや、九年前に片をつけておくべきだった。


 消耗のため、ともすれば鈍りそうな聴覚と嗅覚にミケは神経を集中させる。五感を駆使しなければ相手の動きすら掴めない。


 視界の外に怪異の気配を捉えた。だが間合いを測ろうとした途端、合わせたはずの照準がブレる。


(ブギーマンの匂い!? ……エルダーに化けたか!)


 後方を振り返らないまま、鉄骨の上に片手をついてミケは身体を反転させる。間一髪、十メートル超という巨大なブギーマンの三本腕が鉄材の表面を深々とえぐった。


 鉄骨上でもう一回転し、エルダーに化けたイーゴリと向き合ったミケは、追撃してくる相手に鋭い蹴りを放つ。

 瞬間、イーゴリは獣の姿に戻り、ミケの脚に側腹部の口で噛みついた。


(つッ――)


 膝下の骨を砕かれる痛みに、思わず顔をしかめる。


 ミケも巨獣に化け、閉ざされようとする上下の牙を何とか振りほどいた上で足場を飛び移った。彼は再度人間に変わり、複雑に入り組んだ骨組みの内側へと潜り込む。


 しかしそこに、イーゴリはすかさず追いついた。長身にプラチナブロンドの人型を取っている。


 片足が踏ん張れず身構えきれない。初撃の拳を腕で防いで受け流すも、次なる一撃が鳩尾みぞおちに叩き込まれた。


「っ!」


 身の内が背骨に至るまで軋み音を立てる。まるきり砲弾と同等の威力だ。


 半ば吹っ飛ばされる形で後退したミケに対し、相手は更に踏み込む。首根を掴み上げるなり、イーゴリは彼の後頭部を手近な太い鉄柱へと、渾身の力で打ちつけた。


「う……」


 ――流石に


 脳を揺さぶられる衝撃と呼吸の止まる苦しさで目が眩む。

 むせ返った拍子に、唾液と血が顎を伝った。


「ようジジイ。どっちが狩られる獲物か分かったか?」


 ミケの身体を自分の頭上まで片手で吊り上げ、イーゴリが間近から、勝ち誇った笑みを浮かべて顔を覗き込んでくる。

 九年前にもジジイ呼ばわりされたな、とミケは思い返した。まあ、七十代と八十代で何が変わったという程の事もない。


(……戦い方も)


 軽く目をすがめ、まだ動かせる方の足の踵を密やかに鉄柱へ沿わせつつミケは返答した。


「すまんな、年寄りってやつは物分かりが悪いんだ」


 突如としてミケは、鉄柱を踏み切り台代わりに片足を高々と蹴上げる。

 スニーカーを突き破って伸びた足の爪が、首を掴むイーゴリの腕、その肘の内側を正確に刺し貫いた。


「がアッ!?」


 獣の声音でイーゴリが唸り、ミケを手放す。


 すぐさまミケは小さな猫へと変化し、イーゴリの足元を駆け抜けるとまた人間に戻って、勢いのままタワーから飛び降りた。


 周りを巻き込まないよう上空へ誘い込んだが、最早ミケには空中戦を制するだけの体力が残っていない。地上でり合うしかなさそうだ。


(皆、タワー下から散ってると良いが。志津丸しづまるは無事か? 諭一ゆいち禍礼まがれは――)


 鉄骨の足場を度々蹴って落下速度を調節しながら、ミケは視界に迫る地上の様子を窺う。


 無論、油断したつもりはなかった。イーゴリも上から彼を追ってきている、その気配は正確に把握していた。

 ただし――イーゴリにはまだ彼に披露していない武器があったのだ。


 ミケがタワーの鉄骨側面に片足をつけ、落下にブレーキをかけたその時、唐突に足首へと何かが巻き付いた。


「――なっ!?」


 逆さまになったミケは持ち上げられた自分の足を見遣り、面食らう。

 彼を捕らえていたのは巨大な舌だった。狼の形態を取ったイーゴリの、左の口の隙間から滑り出ている。


が気に入らねえっつうんだよ!」


 四肢をタワーに逆さに貼りつけて、イーゴリはせせら笑った。


「不利を承知でオレを地上から引き離し……今も一瞬だが、下にいた連中に目を向けた」


 ミケは変化によって拘束からのがれようとする。しかし足を縛める力の方が強く、身体の体積の変異を許さない。


 イーゴリがタワーから跳躍し、同時に頭部の口が限界まで大きく開く。


「オレより弱い奴が、狩りの最中に気ィ散らしてんじゃねえッ!」


 胴体ど真ん中に噛みつかれた。牙の食い込む感触にミケは焦りを覚える。


 地上に降り立ったイーゴリはトロフィーでも掲げるかのように、ミケを咥えたまま天を仰いだ。

 ミケは人の姿で抵抗しようとするが、相手の顎は強靭である。血が流れ内臓が食い破られると、いよいよ手足に力が入らなくなってきた。

 ごほっ、とこみ上げた血塊が喉から吐き出される。


(まずいっ――死なないったって、ここで意識が飛んじまったら――)


 そんな思考も、視界が暗くなるにつれ散漫になってきた。


(御主人は)


 薄れる景色の中、ミケは雁枝の顔を思い浮かべる。無事でいるだろうか、今どこに。そして――


(根岸さん、あんたはどうか)


 不意に耳に届いたのは、その根岸の声だ。


「――わあああああッ!」


 それも絶叫である。ほんの至近距離からだった。

 閉ざしかけていた目を、ミケは驚愕に見開く。


 血流し十文字を構えて、およそ人にはあり得ない飛翔を見せた根岸は、槍先をイーゴリの下顎に突き立てた。


「グルガアアアッ」


 怒りの咆哮と共にイーゴリは槍を振り払う。

 噛み合わされようとしていた顎の力が僅かに緩み、ミケはそこから転がり出た。

 力なく落下する彼の身体を根岸が空中で受け止め、下敷きになる形で地面へと背中からぶつかる。


 骨くらいは折れてもおかしくない勢いで根岸の身は跳ねたが、衝撃の瞬間、赤黒い粘性の固まりがべたりと彼の周囲にまとわりつき、緩衝材となった。


 ――血流し十文字の呪いだ。


 どうやってか、根岸はこの呪物の槍を使いこなしているらしい。あるいは槍が自発的に協力しているのか。


「幽霊……っこの雑魚が……!」


 イーゴリが金毛を逆立ててめつけてくる。

 だが彼の突進は、根岸たちに届く直前で不可視の壁によって阻まれた。

 雁枝の得意とする結界だ。強力な霊威がぶつかり合う衝撃からか周囲には火花が散り、蜘蛛の巣状のひび割れが虚空に走った。


「秋太郎、おいで!」


 呼びかけに目を向けると、ショッピングモールの入口に志津丸を背負って雁枝が立っていた。


 根岸はミケと槍を抱き上げて走る。とても全力疾走とは行かない。しかし彼が足を進めるごとに、その背後に三重四重の壁が構築されてイーゴリとの距離を開けていく。


 建物内に飛び込み、更に奥まで通路を駆けて停止したエスカレーターの陰へと滑り込んだ根岸は、そこでミケを下ろして大きく息をついた。


「ね――根岸さん、助けられたのはありがたいが……」


 呆気に取られつつ、一先ずミケは感謝を口にする。


「……あんた今、空飛んでなかったか?」

「志津丸さんが風を起こしてくれて」

「こいつ、この状態で風の異能を使ったのか」


 志津丸も雁枝の背から下ろされ、床に寝かされていた。顔色は青白く、ぴくりとも動かず目も開けない。生きてはいるが、完全に意識を失っている。

 当然片翼も失われたままだ。食われて喪失した以上、雁枝でも復元は困難だろう。


「僕も止めたんですが」


 と根岸は言うが、結局乗っている彼も彼である。

 しかも飛んだというより風に吹き飛ばされてきた訳だ。ほとんど捨て身の特攻でしかない。


 とはいえ説教の出来る立場でもない、とミケは身じろいだ。手指はどうにか動かせるが、他の器官は感覚すら途切れている。


「もう一つきたいんだがね根岸さん……俺の下半身、まだ繋がってるかい?」


 あまり自分でまじまじと確認したいものではない。


「た、多分。……どうでしょう。乱暴に運んだから」


 いささか自信のない様子で、根岸は答える。

 真面目腐ったその顔に、状況を忘れてついミケは吹き出した。


「これミケっ。安静にしてな、今繋げてやるから」


 雁枝が叱り飛ばしながらも、ずたずたになったミケの身体に覆い被さるような体勢を取る。


 ミケの肉体は、どれほど損壊しても少し経てば自然と治るように出来ているが、あるじたる雁枝から怪異治癒術を施されればもっと早い。文字通り瞬く間に回復する。


「服が汚れちまうよ、御主人」

「そんな事気にしてる場合?」

「洗濯するの大体俺じゃないか。御主人は大雑把で洗濯表示もろくに――」

「傷の前にお前の口を塞いでやろうかね」


 言い合っている間にも雁枝の術が発動し、神経が修復されるに伴って酷い疼痛も戻ってきた。ミケは息を詰めて、やむを得ず減らず口を閉ざす。


 雁枝の唱えるまじないの文言は耳に心地良いが、一方で確実に近づいて来る不吉な物音にも彼は気づいていた。


 ――結界が壊され、消えゆく音。


「……雁枝さん。結界は何重に張りました?」


 根岸も察知したのだろう。緊張の面持ちで槍の柄を握っている。


「この建物の外壁に沿って八枚。大して強い結界じゃないが」


 八重の結界。

 もう三枚分は破られただろうか。

 イーゴリは、建物ごと全壊させるつもりはない様子だ。万一、それに巻き込まれてミケや根岸が死亡したならすぐに消滅してしまう。

 恐らく正攻法で結界を破り、一人ずつ生きたまま見つけ出して食いたがっている。


 結界を再度張り直すのは、たとえ雁枝であっても難しい。少なくともミケの治療を中断する必要があった。


「御主人、もう十分だ」


 ミケは身を起こした。

 血の巡りの戻りきらない頭がくらりとする。


「まだ完治してないだろミケ」

「けど時間がない。……なに、晩酌の酒が零れ出ない程度には身体の穴も塞がってるさ」


 軽く笑ってみせたが、雁枝との晩酌の約束は果たせそうもないと、ミケは覚悟を決めつつあった。

 イーゴリは予想以上に手強てごわい。完治した身でもう一度戦ったとして勝てるかどうか――正直に言えば望みは薄い。

 ミケに取れる手立てがあるとすれば、自身をおとりとして、今この場にいる三人を無事に逃がすくらいのものだ。


 ――不死の怪異が他の怪異に食われて取り込まれるとどうなるのだろうか? あまり良い想像は浮かばない。


「ミケ。お前が何を考えてるかは分かるよ」


 急に雁枝が横髪をつついてきたものだから、ミケは我に返って彼女を見た。目の前の少女とよく似た顔立ちがその瞳に映っている。


「でもそんな風にはならないからね」

「御主人?」


 雁枝は一度、根岸へと視線を移した。根岸は施設の入口を警戒している風である。また一つ、結界の壊れる音がした。


 あるじの黒い両眼が再び、正面からミケを眼差す。

 きっぱりと雁枝は告げた。


「お前は契約の呪縛から解き放たれて、不死ではなくなる。そして戦災の化身としての力を取り戻す。十万の魂の悲鳴から生まれた全てをもって、あのスットコドッコイをぶっ飛ばしてやるんだ」

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