第96話 解放せよ骨髄の慟哭 (4)

 東京タワーの足元に建てられたショッピングモールは、外から見ても悲惨な有り様となっていた。窓は割れ、天井と壁の一部が崩落している。

 五十メートルばかり上空から巨大な狼が叩きつけられた衝撃によるものだ。


 落下した直後から、イーゴリは人間に変化へんげしていた。数日前につまみ食いした名も知らない男の姿を借りている。


 ただし、怪我人に見せかける事は可能なのだが実際に負った傷を隠す事は難しい。

 今の彼は首も耳も顔も大きく肉を抉られ、まるきり惨殺死体が歩いているような状態だ。

 地面にぼたぼたと血痕の道を残しながらも、イーゴリはとある匂いを辿る。


 幸いにも、目的の相手は建物の裏手ですぐに見つかった。


「……イー……ゴリ」


 彼の様相を見て、目的の相手――伽陀丸かだまるはいくらか絶句する。

 その伽陀丸の顔も血みどろだった。ヴィイの魔眼を埋め込んだ右目は閉ざされ、瞼の隙間からも血が滴っている。


 怪異融合によって魔眼と接続させていた霊威は途切れていた。

 彼は最早、ヴィイの魔眼を使いこなせない。そして、かつて弟分だったあの志津丸しづまるという若い天狗にも勝てないだろう。

 元より現在の伽陀丸の実力では敵わない相手だ。天狗の里に不意討ちを仕掛けた時点で、最大限有利な状況下で命を取れなければ、そこまでだと踏んでいた。


「お互いにしくじった、といったところか?」


 動揺を押し隠した冷笑を顔に貼りつけて、伽陀丸は空虚な言葉を吐く。


 ――これから自分の身に起きる事を、予測出来ない訳でもあるまいに。


「いいや? オレは手筈どおりだ」


 そうイーゴリは応じた。


 ……彼の力が極度に強化されるのは、傷ついた肉体を他者の生命で補う時だ。


「分かってるよな。殺した方が利用価値が高いと判断したら、その時は」


 口に出したのはそこまでだった。


 瞬時にイーゴリは人の姿を捨て、四つの脚をばね仕掛けのごとく踏み切る。


「待っ……」


 伽陀丸は制止の叫びを絞り出そうとした。無意識にだろうか、我が身を庇うように両手を前へかざす。


 やはり彼は、まるでこの事態を覚悟出来ていなかった。そういう所が滑稽で醜悪で、実に好ましい男だった、とイーゴリは感慨を抱く。しかしそれはそれとして、最早彼は餌でしかない。


 間合いに飛び込むなり、イーゴリの右の口が牙を剥き出して開く。前方に掲げられた伽陀丸の両腕を同時にもぎ取り、肋骨までも噛み砕いた。

 ほぼ半身を一撃で齧り取った所で、頭の口がヴィイの魔眼へと食らいつく。無論、伽陀丸の顔ごとだ。


「がぁッ、ぎゃあああああッ!」


 人狼よりも獣じみた苦鳴を伽陀丸は上げた。


 眼窩から毟り取られたヴィイの魔眼が、伽陀丸の血肉と共にイーゴリの喉奥へと滑り落ちる。

 傷を負ったイーゴリの肉体は、瞬く間に修復されていった。力が、霊威が戻ってくる――いやそれだけでなく、前以上の狂暴な衝動が奔流となり全身を駆け巡っているのが分かる。


 イーゴリは三つの顎門あぎとを再度開いた。

 ここで伽陀丸の魂を食い尽くせば、もっと強大な存在に変われる。


 そこに――高速で迫り来る気配。


すさべッ、山風ェ――っ!!」


 喉も裂けんばかりのたけりが響き渡り、突風が周辺の瓦礫を巻き込んで吹き荒れた。

 一瞬のうちに構築された空気の障壁が、イーゴリの進行を阻む。


「……っ、こいつは……!」


 忌々しさに左右の口の牙を軋ませながら、彼は視線を背後へ走らせた。

 羽団扇はうちわを構えた志津丸が、片翼だけを羽ばたかせてがむしゃらに突っ込んでくる。


 なんら、後先も身を守る事も考慮しない行動だった。体当たりに近い形でイーゴリを押しのけた志津丸は、血の海の中に倒れた伽陀丸を引っさらって飛び立とうとする。


 だが、イーゴリがそれを許すはずもなかった。


「クソったれがああッ!」


 志津丸の折れた片翼にイーゴリが食らいつく。羽毛が辺りに舞い散り、めきめきと嫌な音が立ったかと思うと、天狗の力の源たる猛禽の翼が根元から引き千切られた。

 伽陀丸を抱えたまま、志津丸は声もなく地面に転がる。


 激痛と失血で痙攣を起こし、それでも伽陀丸を庇って武器を構えようとする志津丸に、イーゴリは上体を低めて近づいた。


 伽陀丸の身体は、早くも足先からかすみ、消滅し始めている。

 怪異は死体を遺さず、肉体に蓄えられた霊威は命が消えればすぐに、この世を流れる精気へと還元されてしまう。食い尽くせる時間は極めて短いのだ。


「もう食えたもんじゃねえ、畜生めッ」


 怒りに任せて、イーゴリの左の口が志津丸の片翼を噛み砕いて飲み込む。

 腹を満たすには不十分だが味は悪くはなかった。の方も丸ごと食らって、それでのがした獲物の代償を支払わせるとしよう――そう決めてイーゴリは、志津丸に向けて更に一歩を進める。


「フシャアアアアアッ」


 突然の事だった。ほとんど真上から威嚇音が降ってきたのは。


 即座にその音の主に思い当たったイーゴリは、ぎらりと頭上を睨んだ。

 予想にたがわず、火球のごとく燃え盛る獣の形態のミケが飛びかかってくる。朱と金の両眼は爛々と光り、彼が激しい怒りと殺意に駆られている事は明らかだった。


 しかし――その挙動は以前よりもにぶく見える。


 ミケが弱ったのではない。

 ヴィイの魔眼と伽陀丸の半身を食らい、傷の癒えたイーゴリは霊威を向上させた。彼の五感は、ほんの数分前より遥かに研ぎ澄まされたのだ。


 歓喜と、あらゆる欲求からくる咆哮がイーゴリの三つの口から我知らず噴き出す。


報復ミェースチの時間だぜ、クソ猫!」


 真っ向からミケと組み合ったイーゴリは、燃えるたてがみをものともせずに肩口へと噛みついた。


「ぐ――」


 思わぬ反撃に短く唸るミケだったが、彼も負けじと牙と爪を立てる。


「イーゴリ、お前はっ……! 俺がこの場で食い散らす!」

「やってみろ!」


 ミケの背を歪んだ東京タワーの脚に押しつけて、イーゴリは哄笑を上げた。暗く濁った三対の青い眼が、高温の炎のように昂揚に揺らめく。


「どっちが今夜の獲物か! ケリつけてやるからよ!」



   ◇



 ――やはり自分は出来の悪い弟子だ。


 志津丸はぼんやりとそんな事を考えた。


 伽陀丸に、とどめを刺すつもりでこの場に来た。

 そのはずだというのに、彼の叫び声を聞いた途端勝手に身体が動いていた。

 挙げ句が、このざまだ。


 見上げれば、東京タワーを足場として縦横に駆け、ミケとイーゴリが戦っている。

 助けに行かなければ。立ち上がり、翼を動かさなければ――半分欠けてしまったが、知った事か。


「何……やってるんだよ、志津丸お前……」


 すぐ傍らに倒れる伽陀丸が、弱々しい息の下で妙に愚痴めいた声を漏らす。

 右半身を食い荒らされた彼の肉体は薄れ、砂の彫像のように崩れかけていた。

 間もなくその命は永久に消える。


「そんな調子で……里の頭領が務まるのかよ」

「……務まんねぇよ。悪かったな」

「すぐ不貞腐ふてくされる。昔っからそうだ」


 伽陀丸は笑った。『ロックペーパーシザーズ』の二階の子供部屋で何度も聞いた、そのままの声音で。

 そういうお前は昔からずるい奴だったと、言葉にも出来ず志津丸は彼を見つめる。


 伽陀丸の残った左目は、視線を返しはしない。もう視力が失われているのだろう。


「……『ルージュ』が」


 唐突に、血泡を零しながら伽陀丸は口走った。


「彼がせた未来で、お前が。……瑞鳶ずいえんが」

「なに……何、言ってる?」


 譫言うわごとに近い断片的な言葉に、志津丸は眉根を寄せる。『ルージュ』――誰かの呼び名だろうか。知らない名前だ。

 問いかけに伽陀丸は答えない。周囲の音を捉えられていないのかもしれない。


「全て、変えられたなら……お前とも……大師匠おおせんせいとも……」


 焦点の合わない視線が彷徨さまよい、先端の失われた腕が前方へと伸ばされた。


「並び立てると……」


 志津丸は伽陀丸の肩口へと手を添える。薄まりかけた顔が間近にあった。


「立ってたじゃねえかよ。ただ、そのままそばにいてくれりゃ良かったのに」


 虚ろだった伽陀丸の左目が、志津丸の瞳を見上げる。

 ほんの僅か、彼はまた笑ったようだった。志津丸をからかう時の、あの意地の悪い笑みだ。


 そしてその直後、伽陀丸の肉体は崩れ去り、地面の砂に紛れて消滅した。

 血の流れた痕跡までも、波が引くように消えていく。志津丸の足元に残るのは、自分の翼の千切れた付け根から流れ落ちた血溜まりのみだ。


 乾いた地面の上に、志津丸は無言で傷ついた拳を叩きつけた。怪我のせいだけでなく、肩が震える。


「……志津丸さん」


 呼びかけられて振り仰ぐと、いつの間にかそこに、槍を携えた根岸が呆然と立っていた。

 伽陀丸を見つけて夢中で飛び立った時に置き去りにしてしまったが、どうにか追いついてきたらしい。


 彼も既に、散々傷ついている。額からの出血は止まっていないし、イーゴリにやられたのか顔に痣と裂傷が出来ていた。

 根岸は天狗の里の住民ではない。戦いの場に慣れている訳でもない。その彼が、命懸けでここまで奮闘してくれたのだ。


 ――ここで自分が膝をついている事など許されない。


 志津丸は口を引き結び、濡れた頬を乱雑に手首で拭った。そこから立ち上がろうとしたが、視界が明滅する。両足に上手く力が入らない。


「う――動かないで! すぐ雁枝かりえさんを呼びます」


 駆け寄った根岸に身体を支えられる。

 そうしている間にも、上空からの狂暴な咆哮が遠雷のごとく周辺に響き渡った。


「……ミケが危ねえ」

「それは、僕が」


 意外にも、根岸は即答してみせる。


「きっと……いや、絶対に何とかします」


 彼は決意の表情で、タワー上部を見据えた。

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