第95話 解放せよ骨髄の慟哭 (3)

 三十年前――のちに“霧中のイーゴリイーゴリ・ヴ・トゥマネ”と称される人狼の幼体がこの世に顕現したその時。

 既に、ソビエト連邦は崩壊していた。


 一九九一年モスクワにて顕現した、自律行動可能な一個体としては世界最大の怪異とされる巨竜ズメイ。

 翼長二.六キロメートルを誇る、途方もなく巨大なこのドラゴンによって人間のみやこは文字通り蹂躙じゅうりんされた。


 更にズメイは眷属を呼び寄せ、東欧全土にドラゴンの群れが次々と現れる。


 彼らは人の主権などものともしなかった。アメリカ分裂以降、世界唯一の超大国と謳われてきたソビエト連邦は消失し、東欧は竜の支配する国となった。


 そしてこの一連の事態は、パンデミック前から細々と生きてきた怪異たちにも多大な影響を及ぼした。


 イーゴリはロシア南東部、バイカル湖に程近い深い森の中で生まれた。

 ズメイの棲まうモスクワは遥か遠く。それでも、この森の人狼たちは酷くドラゴンに怯えていた。この地方の空にもまた、ズメイの眷属たるドラゴン達が悠々と飛び交っていた。


 森の陰で身を寄せ合うようにして暮らす人狼の小さな群れ――その中でイーゴリは、顕現した直後から並外れた異能を発揮した。


 本来の容姿を自分でも忘失してしまう程の変身能力に、尽き果てる事のない食欲。そして獰猛な気性。


 そんなイーゴリへの扱いは、群れの中でも割れた。彼の能力と狂暴さを忌み嫌う個体もいれば、彼こそドラゴンに抗い得る者、人狼の希望、と期待を寄せる個体もいた。

 群れのおさである年配の人狼は後者だった。


 聞くに、かつて彼らの群れはもっと西方にいて、人や異種族の目に触れる事など滅多になく、穏やかな暮らしぶりだったと言う。

 怪異パンデミック後、人狼の個体数は大幅に増えたが、それにより人間との軋轢も生じた。

 ソ連政府が反怪異と思想統制を掲げると対立はますます深刻化する。

 そして、ズメイの顕現は小さな人狼の群れに駄目押しを与えた。彼らは東へ東へとなし崩しに追いやられた。


 長にとって、西の地への帰還と人間との融和は悲願だった。イーゴリが群れの次代を担えばそれが果たせると彼は語った。


 ――馬鹿げている。


 心の底からの苛立ちを、イーゴリは覚えた。


 ――弱いくせに。


 彼の群れを構成する人狼達は、軒並み能力が低かった。ろくに変化へんげも出来ない、ほとんどただの狼と変わらない個体すら少なからずいる。


 往々にして、弱い個体ほど厚かましいものだ。イーゴリは幼少の頃からそう学習していた。果たせない自分の願望を集団の願望であるかのように吹聴し、強い個体へと身勝手に託す。


 ――挙句、人との融和とは。


 つまり長は、イーゴリに対してこう言いたいのだ。群れのために尽くしながらも、その法外の食欲と加虐欲求を抑制して生きろと。

 厚顔もここまで来れば笑い話だ。そんな生き方をして、自分に何の得がある。


 自己の抑制などまっぴら御免だった。 

 巨竜に挑むのも面倒だ。

 ただ、食らいたいと思った獲物を食らいほふる。それだけの日々を送れれば十分だ。

 己よりも弱い個体に負うところなど、何一つない。


 だから――彼は群れの長を殺した。


 他の面々も、特に従順で役立つ者以外は食い尽くした。


 そうして僅かに付き従う眷属を連れて縄張りを離れ、思うままに人を襲い、時には同じ怪異の生き血をむさぼって生きるようになった。

 覚えていないが、どこかの時点でドラゴンの手下も殺したのだろう。気づけばイーゴリは、ドラゴンからも人狼からも、人間からも追われる身となっていた。


 流石にこの状況は不便が過ぎる。極東までのがれた彼は、ある者の手引きで日本へと渡った。


 あの男――いや、女だったか。怪異はオスもメスも大して味が変わらないので気にしていない。とにかく、『ルージュ』と名乗ったあの怪異だ。


 『ルージュ』はイーゴリを東京まで逃がした上で、一人の少年と引き合わせた。


 日本生まれの天狗である。

 対面した当時、齢の頃はまだ十三か十四。名を伽陀丸かだまるといった。

 神経質で無闇にプライドが高く、しかし能力は天狗としては凡庸の域を出ない。そのため劣等感にまみれている。そういう少年だった。


 イーゴリが他者に仲間意識を抱く事は滅多になく、伽陀丸に対してもそうだったが、ただ彼に個人的な好感は持った。

 自身の力不足、所属する群れ――東京の外れに天狗の集落があるらしい――の不完全さに対して、狂気に近い苦悩を抱えている様が、滑稽ながらも好ましかったからだ。


 弱さを自覚したなら、そうでない者、特別な存在への嫉妬と憎悪をこじらせて狂うくらいが丁度良い。配られたカードを甘んじて受け入れる、などと悟った顔をしている弱者は、それだけでイーゴリを苛立たせる。


「彼は東京でひと騒動起こしたいんだと」


 『ルージュ』は伽陀丸をそう紹介した。


「そのために、ビジネス・パートナーを探してる。人と怪異が争い、怪異同士が相争あいあらそう、決定的な分断と混乱カオスを引き起こせる……そんな異能の持ち主を。あんたならぴったりじゃないかと思ってね」

「当面腹が膨れるなら、オレは何でもいいが」


 イーゴリはそう答えた。

 彼は一応、駒となる眷属を引き連れて逃亡している。それらの腹も満たしてやらなければならない。


 話はあっさりとまとまり、イーゴリは伽陀丸の起こすひと騒動とやらを手伝う事になった。


「それじゃイーゴリ、用意して貰った『謝礼』は彼にあげてくれるかい?」


 『ルージュ』に言われて、イーゴリはいぶかしみつつも伽陀丸に『謝礼』を渡した。

 ヴィイの魔眼。

 東欧生まれの呪物にして怪異だ。


 イーゴリを日本へ逃がす条件として、『ルージュ』はこの呪物を要求してきた。

 彼は東欧の裏ルートに多少顔が利くから、手に入れられなくはない。しかし手間がかかる。

 人間の通貨に換えるにも厄介な代物だし、随分と妙な対価を欲しがると思っていたが、『ルージュ』ではなく伽陀丸に必要な物だったらしい。


「お前は一体、何の得があってこんな仕事を?」


 踏み込むつもりはなかったが、『ルージュ』との別れ際、ついイーゴリはたずねた。


 『ルージュ』は……笑った、のだろうか。

 性別も種族も容貌も、今ひとつ印象に残っていない謎めいた怪異は、最後に振り返ってどこかいびつな表情を見せたように思う。


「慈善事業だよ。存分に感謝してくれていい」


 彼とはそれきりになった。


「……お前はどうなんだ」


 質問ついでに、イーゴリは伽陀丸に話を振った。


「何が目的で、こんな企てを始めた?」


 伽陀丸は、薄暗い視線を曇天に向けて答えた。


「未来をせて貰った。『ルージュ』に」

「未来?」

「彼はそういう異能持ちだ」


 未来視や過去視の能力を持つ怪異は、稀少だが確かに存在する。だが、他人に未来を見せる力となると聞いたためしがない。『ルージュ』とはどういう怪異種だったのだろうか。


「……このままだと遠くない未来、怪異は皆苦しむ事になる。天狗の里を背負うかもしれないは、尚更」

「あいつ?」

「……」


 それ以上の回答は得られず、イーゴリも特に興味は湧かなかった。

 社会の行く末を案じるだの、誰かの未来を憂うだの。そんな殊勝な精神がイーゴリにそなわっていたなら、今頃は故郷で群れのため巨竜に立ち向かっている。


 ともあれ、計画に乗ったイーゴリは――


 紆余曲折を経て、魔女の使い魔と戦った。


 長命な怪猫バユンだ。日本の怪異で、猫又と呼ばれているらしい。

 イーゴリと同じく、無数の亡者を体内に取り込み強靭な異能を得て、しかしながらそれを自ら封じて生きる者。


 ……気に入らないと、一目見て感じた。

 一方で、僅かに舐め取ったその生き血は極上の味わいだった。当然だろう。十万かそこらの悲鳴から成る生命体だ。イーゴリの好みに最も適する。


 ――気に入らない。全く気に入らない。

 こんな並外れた一個体が使役されるだけの地位を受け入れ、理性の徒のような顔をして弱者を庇っている。

 欺瞞の極みだ。甘ったれた弱者よりも、それを甘やかす側の方が更に腹立たしい。


 明確に美味であると知りながら、食らいたいという以上に殺したいと思った相手は、かつての群れの長以来だった。


 だが結局、イーゴリは猫を食らうにも殺すにも至らなかった。

 彼は撤退せざるを得なかったのだ。痛み分け――否、事実上の敗走だった。


 事前の約束どおり、天狗たちに勾留されていた伽陀丸を助け出し、彼は再び海を渡って逃げた。

 次なる逃亡先は北米大陸の南部、連合国アメリカである。


 怪異崇拝国であるこの国で、イーゴリは割合自由気ままに暴れる事が出来た。その分、時に食われかけもしたが。


 猫にやられた傷を癒すため、より多くの生き血をすする中で分かった事実がある。

 傷ついた肉体を、他者の生命を食らう事で補う。

 それが最も効率的に、イーゴリの怪異としての力を強化する方法だ。


 九年の歳月をかけて、彼はより強力な怪異となった。殊に変身能力は飛び抜けたものとなり、今や他者に変化の術を施す事も出来る。それも完璧なまでに。


 眷属の数もいくらか増えた。

 連合国には他にも、他所から逃亡して来たろくでなしの人狼がいた。彼らは大抵群れているから、その群れのリーダーを殺せば群れごと乗っ取るのは簡単だった。

 もっとも、従順な手下であってもイーゴリは気まぐれに食い殺す事があった。生かして利用するより食った方が手っ取り早い相手だと思えばそうする。


 そのスタンスは、ともに連合国に逃亡した伽陀丸にも告げてあった。


「――せいぜい役立つビジネス・パートナーであり続けるとするよ」


 伽陀丸は皮肉げにそう答えたが、彼が内心、イーゴリを恐れているのは明らかだった。

 理由は単純で、真っ向からり合えばイーゴリの方が強いからだ。

 連合国で新たに手に入れたヴィイの魔眼を自身の右目に埋め込み、伽陀丸は毒の使い手としても礫塵れきじんの使い手としても強化されたが、それでもなおイーゴリが上手うわてである。


 本質的に、伽陀丸には腹の据わりきらないところがあった。弱者を嫌い高い理想を掲げる割に肝心な部分が弱い。

 故郷との繋がりを断ってしまった以上、人間や怪異の命を狩って取り込まなければ弱体化するというのに、九年かけてもその方法への躊躇ためらいが消えなかったようだ。


 天狗の里を襲撃した時――つまり今日の昼間。

 伽陀丸は柳葉りゅうようという名の天狗を生きながらに食っている。

 変化の術を施すのに、変身相手の魂を取り込ませる必要があった。それは事前に分かっていたはずだが、食いきった後も伽陀丸は何度か、気持ち悪そうに嘔吐えずいていた。


「承知してると思うが」


 この時イーゴリは改めて伽陀丸に告げた。


「生かしておくより、殺した方が利用価値が高いと思ったらオレはすぐにでもお前を食うぞ」

「……分かっている」


 その後のイーゴリは、ずっとブギーマンの古老エルダーに姿を変えていたから、伽陀丸と交わした言葉はあれが最後だ。


 決して個体として嫌いな相手ではないし、九年にわたって行動を共にしたにもかかわらず、結局伽陀丸との間に仲間意識めいたものは生まれなかった。


 ――時折、イーゴリは思う。

 自分がもっと平凡な人狼として顕現していたら、どんな生き方をしていたかと。


 弱くなりたい訳ではない。その逆だ。

 例えば彼の所属していた群れの皆が、おさが、彼と同じくらい強く獰猛であったならば。


 伽陀丸が希求するのは、怪異が現在より厳選され、個体数を減らしつつも強く恐れられる地位を取り戻した世界だという。


 多分、その世界は残酷で混沌としている。

 だがそちらの方が、イーゴリには居心地が良いかもしれない。

 伽陀丸にとってはどうだろうか。案外、彼の夢想する世界に彼自身の居場所はないのではないか。


 ――まあ、どうでも良い話だ。


 全身に負った傷の痛みが疼く中、イーゴリは気怠けだるさを覚えて思考を打ち切った。


 現時点で彼の望みは一つきり。

 猫を一匹、思う存分食らい尽くす事だった。

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