第94話 解放せよ骨髄の慟哭 (2)

 獣の姿に変わり、根岸を背中に乗せたミケは、難なくタワーの半ばの地点から地上まで降り立った。


 ミケの顔の左半分と後頭部は炎をまとっているのだが、上手く熱を調整してくれたのか根岸はあぶり焼きにもされていない。


「さっき、ミケさんもう少し大きくなってませんでした? 背丈も炎も」


 地面に足をつけた所で、ふと根岸はミケに問う。


「ああ。御主人に封印されてる部分以外の霊威をほとんど解放したからな。――飛行機の屋根で奴の気配を感じ取った。霧中のイーゴリイーゴリ・ヴ・トゥマネ……あいつとり合うなら、ハナっから全力で行くしかない。それでも逃がしちまったが」


 獣のままのミケは口惜しそうに髭をしかめ、警戒の表情で周囲の匂いを嗅ぐ。


「気をつけろよ根岸さん。相手は変幻自在だ、どっからでも来るぞ」


 ミケが警告したその途端、坂の下から怪異の近づく気配があった。複数だ。しかも獣の匂いを伴っている。


 急ぎ十文字を構える根岸だったが、ミケの方は「ニャッ」と歓迎する風に鳴いた。


「ミケぇー! 置いてかないでにゃーん!」


 甲高い少女の声と共にタワー下の広場へどっと突入してきたのは、なんと十数匹の猫の群れだ。


 先頭に立つのは黒豹くろひょうと見紛う巨大な猫で、根元から二つに分かれた鍵尻尾を立てている。

 続く他の猫たちも一様に二本の尾を揺らしていたが、彼らは普通の猫とそう変わらない体格だった。黒白のブチからキジトラまで、毛色はとりどりである。

 猫たちは広場でひと固まりになって、ミャアミャアと鳴いた。


「おう、禍礼まがれ。猫又山の皆も来てくれたか」

「トーゼンにゃーん。ていうか先に一人で飛行機降りちゃうミケが酷いにゃーん」


 いち早くミケの間近まで駆け寄った黒い猫又は、鼻先を彼の耳裏に擦りつけてから、


「……ミケ、何だか一狩りしてきたみたいなワイルドな感じになってるにゃん?」


 と、今更ミケの毛皮のあちこちに残る血痕を指摘する。


「ええと……こちらは?」


 槍先を下ろして訊ねる根岸に対して、黒猫はじろりと剣呑な黄色い目を向けた。


「にゃあん? この幽霊、ミケとどういう関係にゃーん?」


 今日はよく似たような質問を受ける、と根岸は首を竦めつつ思う。


「そう絡んでくれるな、俺の茶飲み友達みたいなもんだよ。根岸さん、こっちは毛勝禍礼けかちまがれと富山の猫又たち」

「――どうも」


 これまた自分とそっくりの回答をしてみせるミケへの可笑おかしさを堪えて、根岸は猫の群れに頭を下げた。


 そして再び視線を上げた彼は、前方の街路樹の幹を軋ませて飛び移ってくる、角を生やした特徴的な影に気づく。


「『灰の角』!」


 影の方へ呼びかけると、「グルゥッ」と『灰の角』は唸り声で応じ、広場へとひとっ飛びに着地した。


 驚いた事に彼は小脇に辺路番ヘチバンを抱え、更にもう片方の腕から肩まで餓鬼たちを貼りつけている。背中には、角に引っ掛ける形でティアリーアイズを負ぶっていた。

 流石に重量オーバーだったのか、着地するなり『灰の角』はその場で膝を折ってぜいぜいと激しく冷気を吐く。


「人狼の群れがこっちに来る!」


 そう叫んだのは、『灰の角』に続いて街路樹から飛び降りてきたリンダラーだった。彼女も餓鬼を率いている。


「シヅマル達が一旦は追い散らしたはずだけど。イーゴリの遠吠えにまた奮起して集まったってところかしら」

「ブギーマンは?」


 根岸が質問した。


「彼らは完全に戦意喪失。偽のエルダーの気配を見失って混乱してる」


 乱れた黒髪を掻き上げて、リンダラーは自分の背後の餓鬼たちを見遣る。


「こっちも、餓鬼たちは泣きどおしで戦力外だわ。ウェンディゴ憑きの坊やが何とか宥めてはくれたけど」


 それを耳にしたのか、半ば意識を失っている様子だった辺路番が「うう」と呻いた。


「ユイチ、マジ感謝っス……ブラザーズ……落ち着いて……」

「辺路番! きみ腕取れちゃってんだから動かない方が」


 片腕で身を起こす辺路番を介助しつつも、『灰の角』の内側から諭一ゆいちが気遣う。


「いや……無事に家に帰すつって、対価まで貰った相手にこうも助けられっぱなしじゃ、雲取の辺路番の名折れっス。ブラザーズ! みんなで無事に熊野へ帰るまでがオールナイトパーティーっスよ!」


 どうにか背筋を伸ばしてみせた辺路番は、残った片手の指を鳴らし、思いのほか張りのある声を響かせた。


「いーっ」

「あぶー」


 消沈していた餓鬼たちがたちまち顔を上げ、彼の元に集合する。


「相手は人狼にゃーん? 望む所だにゃん、まにゃにゃ負けないにゃーん」


 禍礼が気勢を上げるなり、その場でくるりと宙返りをして、フリルの華やかなワンピースを着た人間の少女に姿を変えた。髪の合間に尖った黒い耳が生えている。

 広場の猫又たちがまたもミャアと唱和した。


「うわ!? すごっ、毛勝まにゃにゃだ!」


 諭一が興奮して口走る。間を置かず、彼の左腕に『STOP』と大きく文字列が表示された。『灰の角』が諫めたらしい。


 その時、ミケがはっとした表情でタワーの方を振り向いた。


「御主人! ――志津丸しづまる!」

「戻ったね、ミケ」


 静かだが老成した威厳を伴う少女の声。

 根岸がつられて視線を巡らせれば、そこには雁枝かりえが立っていた。


 彼女は腕に阿古あこを抱え、傍らの志津丸にも肩を貸している。


 雁枝にもたれながら辛うじて歩みを進める志津丸は、片足を引きずっていた。そればかりか、片翼が血にまみれ捻じ曲がった状態で力なく垂れ下がっている。

 諭一が人間の姿に戻り、すぐに息を呑んだ。


「しづちゃん! どしたんだよ!」

「ミケ、諭一……」


 満身創痍の有り様ではあったが、志津丸は駆け寄ってきた面々を見て、安堵から来る苦笑を浮かべる。


「てめぇら、バッカやろ……そんな元気なら早くしらせろよな……」

「電話出なかったじゃん!」


 珍しく諭一が憤りを見せた。


「しづちゃんこそ――ネギシさんもさぁ! なに勝手に大怪我してんの!? 無茶過ぎじゃない!? 調子こいた時のぼくじゃあるまいし!」

「それはその」


 思わぬ流れ弾である。言い訳も出来ず、根岸は口篭る。

 先程見ず知らずの陰陽士を助けようとしてイーゴリに槍を向けた時、彼は完全に後先を考えていなかった。


「志津丸の傷はすぐにでも治してやりたかったが」


 そう発言したのは雁枝だ。


「どうしても阿古の治療を優先させろと言うから……」

「えっ、阿古くんも怪我を? そもそもどうしてここに」

「仲間の仇を討とうとして、避難所をこっそり抜け出したのさ。傷は完全に塞いだ。安静のために眠らせてるがじきに意識も戻るはずだよ」


 慌てる根岸に雁枝は無事を請け合って見せたが、志津丸は顔を曇らせる。


伽陀丸かだまるの仕業だ」


 敵を、というよりは自身を責めるような口調で、志津丸は呟いた。


「奴は……逃げたが、弱ってる。オレの千里眼から隠れられるほど遠くには行ってない」


 語る間にも、志津丸の瞳は変化しつつある。オパールのような複雑な色彩を湛えたあの白光へと。


見出みいだす……!」

「志津丸お前、その身体で千里眼なんか!」


 雁枝が止めたが、既に志津丸は千里眼を発動させていた。


 彼が異能を使うには、翼によって風を集める必要がある。

 折れた片翼が強引に広げられ、地面に少なくない量の血が滴った。同時に志津丸はがくんと膝をつく。


「ああ、言わんこっちゃないっ」

「言った端から無茶する!」


 雁枝と諭一が荒い息を吐く志津丸を支えた。


「みっ……見つけた……近い……」


 徐々に瞳の光を落ち着かせ、志津丸は譫言うわごとめいた声を漏らして立ち上がる。

 雁枝も諭一も振り払って歩き出そうとする志津丸に、根岸は我知らず手を差し伸べていた。


「行きましょうか、一緒に」

「根岸」


 志津丸が微かに戸惑った様子で、目の前の手の平と根岸の顔を見つめる。


 彼が伽陀丸を――兄と呼んできた相手を見つけて追い詰めて、そこで何をするつもりなのかは分からない。聞いたところで、根岸には彼の選択を咎める事も励ます事も難しい。

 ただそれでも。


って時、ありますよね。その気持ちはすごく良く分かるんで」


 呆れ顔を浮かべた雁枝が額に手を当てる。


「あのね秋太郎。言いたかないけど、お前それで一度死んでるんだよ」

「多分……あれを後悔したくないんですよ僕は」

「男ってやつは。すぐにだ」


 そんな風に諦めの溜息をつくと、雁枝はミケの方へ向き直った。


「ミケ、この子らを見てておあげ」

「御主人――」


 応じてミケは巨獣から、雁枝によく似た人間の少年へと変わる。

 横顔の向かい合う様は鏡映しのようだった。ただ、ミケの目には動揺の色が見て取れる。


 ミケもまた、伽陀丸や志津丸と同じく気づいたのだろうか、と根岸は案じる。雁枝の生命に這い寄りつつある異変に。


 だが結局、ミケは従順に頷くのみだった。


「分かったよ。会えた早々になんだけど、また後で、御主人」

「ああ。こないだ起きた時は、お前の作った夕飯を食べ損ねて悪かったね。さっさと家に帰って晩酌でもしよう」


 雁枝の指先が、ミケの癖のついた横髪と頬を愛おしそうに撫でる。


 そして二人の間に流れた感情を断ち切るように、思いのほか近くから狼の遠吠えが聞こえてきた。

 一頭や二頭のものではない。


「……来るっスよ、ブラザーズ!」


 辺路番が呼びかけ、立ち直ったらしい餓鬼たちが一斉に「いぃーっ」と応える。


 諭一は急ぎ、木陰に寝かせていたティアリーアイズの元へ戻った。


「『灰の角』! 疲れてるとこ悪いんだけど、もうしばらく寝た子のおりを頼める?」


 刺青タトゥーによる回答を待つまでもなく、諭一は『灰の角』の姿を再びまとい、ティアリーアイズを担ぎ上げる。


「全く……ここまで来たら付き合うしかないか。切り抜けて、チャチャイの無事を確かめなきゃだもの」


 リンダラーもまた、後ろ髪を払い自身の首元に触れて戦闘態勢を取った。


 猫又たちを率いる禍礼は、一つ跳ね飛んで雁枝の前へと進み出る。


「雁枝のおばあちゃん! お久しぶりですにゃーん。ごあいさつ遅れましたにゃん」

「禍礼じゃないか。お前がミケを手助けしてくれたんだね。ありがとう、諸々終わったらウチにでも遊びにおいで」

「ええーそんなっ……音戸邸おとどていに? ミケの手料理? 『ご飯にする? お風呂にする? それとも』とかやってくれるにゃん?」

「やらんわ」


 上気した自分の頬を手挟たばさんで飛躍した妄想にふける禍礼に、ミケがごく低い声でぼそりと突っ込んだ。

 猫又たちはリーダーの奇行に、困った様子で首を傾げて『エジプト座り』の姿勢を取っている。

 禍礼は指揮棒でも振るような仕草を見せて、そんな彼らの先頭に立った。


「やる気出たにゃーん! ミケ、ここはお任せにゃーん! 何が来ようとぶっ飛ばすにゃーん! 行っくよ、猫又山のみんな!」


 禍礼の指が示した坂の下から、両眼を光らせて人狼の群れが押し寄せてくるのが、いよいよ視認出来る。


「ネギシさん、しづちゃん、ミケちん!」


 『灰の角』が根岸達を振り返り、諭一の声で叫んだ。


「絶対無事に戻ってきてよ!」

「勿論です!」


 志津丸に肩を貸した根岸は、『灰の角』と残る怪異たちに向けて強く頷いてみせてから、志津丸の見つめる方角へと一歩を踏み出した。

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