第93話 解放せよ骨髄の慟哭 (1)
鳴り響くサイレンと猫の威嚇の声。
根岸は視線を上向け、霞んでいた両目を瞠った。
「ミケさん……!」
尖塔の頂上に後ろ足を絡ませ、逆さまになってこちらに攻撃体勢を取りつつあるのは、間違いなく巨獣の姿のミケだ。
「来やがったなクソ猫!」
根岸よりも余程歓喜に満ちた凶悪な笑顔で、イーゴリが吠える。
最早根岸には目もくれず、彼は近場の鉄骨へと飛び移った。そこから更に躊躇なく、タワーの外へと躍り出る。
「楽しもうじゃねえかあッ!」
瞬時に
対するミケは、頂上から四肢を伸ばして踏み切り、真っ逆さまに降りてくる。
「やなこった!」
言葉通りの問答無用だった。
爪を引き出したミケの右前足がイーゴリの鼻面に叩き込まれる。
激しい火花を伴うその一撃に相手の三対の目が眩んだと見るや、ミケは喉笛めがけて組みついた。
いつもの獣の形態よりも今のミケは一回り大きく、身にまとう火炎も勢いよく燃え盛っている。
耐えず毛皮から火花と細い稲妻を散らせ、怒りを滾らせているのは明らかだった。
「ぐるがあアアッ」
ミケに噛みつかれたイーゴリが忌々しげに声を漏らす。二体は互いに食いつき合いながら地面へと落下していった。
イーゴリの左側腹部の口が、がばっと開いてミケの脚に長い牙を突き立てようとするが、そこに二本の尾から噴き出した高温の炎が浴びせられる。
左の口が名状し難い音程の悲鳴を上げ、牙の合間から煙を噴いた。
同時に、イーゴリの喉から多量の血飛沫が
そして口の端に肉片をこびりつかせたまま、ミケは人間へと変化した。
ごく整った容貌の美少年――であるはずの彼だが、今は朱と金に輝きほぼ白目の失われた
掴みかかるイーゴリの前脚を
ミケが首を大きく振った。イーゴリはもがいたが、ミケの咬合力が抵抗を上回る。
ぶちんと耳の千切れる音が響くなり、狼の巨体はタワーの鉄骨、その根元近くへと打ちつけられた。
イーゴリの身体はそのまま崩れ落ち、タワー下のビルに激突して土煙を巻き上げる。
直後、彼の姿は煙の中に紛れて消えた。
ミケは衝撃で変形した鉄骨の上に降り立って眼下を見渡し、探る様子でくんくんと匂いを嗅ぐ。
しばしの間ののち、彼は獣へと変化して根岸のいる位置までタワーを駆け登った。
根岸はというと、あちこちに痛みの走る身体を引きずって起こし、放り出されていた血流し十文字を拾い上げた所だった。
十文字の状態を確かめる。柄にはいくらか傷がついているが刃は無事だ。それに安堵を覚えた途端、またその場にしゃがみ込んでしまう。
「根岸さん!」
ミケが人間の姿で通路を走ってきた。
瞳の
「すまんな。すっかり遅くなった」
「イーゴリは……?」
「まずい事に見失っちまった。人に化けて逃げたらしい、匂いが追えん。俺もこのナリだしな」
と、ミケは肉片と獣毛にまみれた肩を竦めた。至近距離に充満する血の匂いのせいで、鼻が利かないのだろう。
ミケは相当に追い詰めていたように見えたが、血液も肉片も消滅していないという事は、イーゴリはまだ生きている。
「とりあえず降りようぜ。皆は無事か? ――あんたがまず無事でもなさそうだが」
血に濡れた手が差し伸べられる。
「しかし、あの野郎を相手によく生き延びてくれたもんだよ」
割れた眼鏡のせいだけでなく、視界がぼやけそうになる。根岸は眼鏡を外して苦笑を浮かべると、ミケの手を握り返した。彼の手も擦りむけ、自分とイーゴリの血で汚れきっている。
「正直に言うと……本当に、待ってました」
根岸を助け起こしたミケは、抱き寄せる形で彼の肩を叩いた。
◇
「――ええ。ではそちらは到着次第、
『第二対策室』と印字された急ごしらえの看板が入口脇に立てられていた。
『第一対策室』は既に今日の昼過ぎ、高尾山での危険怪異大量顕現を受けて設けられている。先程急遽立ち上げられたこの第二対策室は、港区の東京タワー付近で新たに発生した怪異事件に対処するためのものだ。
伊藤は平静にノックをして扉を開けた。が、入室するなり二人がかりで慌ただしくホワイトボードを移動させる局員とぶつかりかける。
「あっ、伊藤司令! 申し訳ございません!」
若い局員は泡を食って頭を下げた。
「落ち着いて」
手短に伊藤は
全国の特別監督指定区を渡り歩いてきた伊藤から見て、都の中央怪異対策局員の練度はそう高くない。若手が多いのは結構だが。
騒然とした様相の室内を一つ見回し、彼女は奥のデスクを目指した。
「
たった今デスクで電話を置いたばかりの男性に向けて、伊藤は呼びかける。
「ああ伊藤くん。下の様子はどうだい」
丸っこい輪郭につるりと剃り上げられた頭髪。古風な眼鏡をかけた彼の風貌は陰陽士というより、幼稚園の園長あたりを兼ねた気の良い
「隊員に動揺が見られますね。陰陽士側に複数の犠牲が出る事態は――頻繁には起きませんから」
「うん、だろうな。深刻だよ」
丸顔の眉間に皺が寄って、
いささか緊張感に欠ける彼の表情は、部下たちが慌てふためいている時に彼らを落ち着かせる効果を発揮するのだという。
先刻置いた電話の受話器を、円山は両手を組んで見つめていた。
「今、都庁から連絡が入った。都知事が自衛軍への出動要請を決定したと」
伊藤は眉の片方だけを持ち上げてみせる。
「軍が。救助部隊ですか」
「いや。対国外怪異特殊作戦部隊の出動までを想定する」
警察が他国からの軍事行動に対処出来るほどの装備を持たないように、陰陽庁にも機能としての限界がある。
国体を揺るがしかねない危険怪異に対処する最後の砦は、対人と同様に軍隊だった。
一九五二年、怪異による国際社会の混乱と、アメリカ軍の太平洋地域への干渉方針転換を受けて創設された日本自衛軍、そして対国外怪異特殊作戦部隊。
殊、国家単位での防衛となれば彼らが
ただし――
「……目撃情報によると、危険怪異に対処し人間の救助にあたっている友好的怪異が、複数確認されています。今現在も」
あくまで冷静に、伊藤は発言する。
「特殊作戦部隊は原則、全ての怪異を排除対象とするはず。
万一友好的怪異との交戦が発生したならば、高尾山の天狗をはじめ、都民が都内の怪異と築いてきた関係に今後、亀裂が生じる可能性もあります」
「都庁サイドもそれは承知だとも」
円山は眼鏡を額に押し上げ、両目の間を指先で軽く揉んだ。
「だが、分かってるだろう伊藤くん。現状友好怪異との連携は難しく、現場判断で危険怪異との見分けは不可能だ。それでは人命救助に支障が出る」
立ち上がってホワイトボードの方へ向かう上司を、伊藤は視線だけで追う。
「人間が守れるのはせいぜい人間まで。対象を守るという事は、コントロールする、支配下に置くという事でもある。『人間は怪異を支配出来ない』――これもまた、陰陽士ならば全員に叩き込まれている原則だよ」
伊藤は小さく息を吐き、口を開いた。
「憶測で申し上げるのは恐縮ですが」
円山が軽く目を瞠ってこちらを振り向く。彼女には珍しい物言いだった。
「それこそが『敵』の狙いかもしれません。我々に思い知らせる事こそが」
「『敵』? ……危険怪異の事かい?」
怪異事件の取り扱い方は、基本的には自然災害や獣害事件に近い。
台風や人里に下りてきたクマに向かって『敵』という呼称を使わないのと同じく、危険怪異も『敵』とは呼ばれない。
だが、と伊藤は思う。
怪異が引き起こす事態は、常に想定外だ。彼らは人間の予想を上回る。
今回現れた危険怪異が、組織的に、何らかの成果を目標として動いているとすれば――それは人の社会にとって『敵』と言える。
「それは随分とその、政治的な怪異だな」
「その通りです司令長」
半ば冗談めかした円山の感想を、伊藤は端的に肯定した。
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