第98話 解放せよ骨髄の慟哭 (6)

 巨大な爪でガラスを掻くかのような不気味な音。施設を覆う結界が軋みを上げている。


 根岸は血流し十文字の柄を握りしめながら、ミケと雁枝かりえの遣り取りに耳を傾けていた。


 主人からの突然の宣告に、ミケは戸惑っている。いつもの老練ぶりを感じさせる飄々とした表情は拭い去られ、外見どおりの少年に戻ってしまったかのようだった。


「……それは、危険だ。御主人」


 緩く首を横に振って、ようやくミケは答える。


「契約で許可された範囲内で力を解放するのとは、わけが違う。猛獣の首輪の鎖の長さを伸ばすのと、首輪を外して街に放り出すんじゃ大違いだろ。――もし、解放された俺が暴走を起こしたら。二体目のイーゴリが東京に出現するようなもんだ」

「でもね、ミケ」


 使い魔に対し危険な命令を下そうとしているとは到底思えないほどに、雁枝は穏やかな微笑を浮かべた。どこか寂しげな眼差しを伴って。


「分かってるだろう。あたしの命は尽きようとしてる。あとほんの……数日後には、どのみち主従の契約は終わる」


 ミケが俯く。


「どうしても……あなたに、殉じさせてはくれないんだな」

「それだけは」


 今度は雁枝が首を振る番だった。


「これは主としての命令じゃなく、同居人からのお願いだ。あたしはそりゃ、ドライクリーニング向けの服を洗濯機に放り込んじまうような大雑把ものだがね。それでも、お前の命を巻き込んじゃあ死んでも死にきれない。あっちでコマに合わせる顔もなくなっちまうよ」


 切々と、雁枝は語りかける。

 最早ミケに反論のすべはなかった。彼は縋り先を求める風に、根岸の方へと視線を泳がせる。


「根岸さんは? あんたいいのかい、こんな無謀な……ギャンブルみたいな真似に巻き込まれて」


 ええ、と根岸はすぐに頷き、それから少し迷って付け加えた。


「その……僕が提案したことなんで」

「あん?」


 いよいよ、ミケは啞然とする。雁枝は澄まし顔だ。


 実際ミケの懸念するとおり、普段の根岸は賭け事に興じるタイプではない。人間だった『根岸秋太郎』なら、こんな案は決して口にしなかっただろう。

 だが、『もがり』の異能を得た根岸としては――そう、彼が初めてその異能を発揮した相手は。


「僕は、ミケさんの過去を垣間見た事があります。幽霊になったばかりの頃……貴方に助けられた時に」


 唐突な話題にミケは面食らった様子だったが、根岸は彼に対し居住まいを正して続けた。


「あの時はまだ、『殯』の異能が何を見せようとしていたのか分からなかった。自分の中に流れ込んでくる過去の他人の思いを、上手く掴み取る事も出来ませんでした。でも今は分かります」


 あの日、瞬きほどの僅かな時間、根岸の脳裏に映し出された記憶。

 焼け落ちる街並み、成すすべなく死んでゆく人々。

 そして同時に彼の胸の奥深くを疼かせた、自身のものではない感情。熱くもあり、しかし氷を飲まされたような気分でもあり、何よりつらい痛みを伴った。


「八十年前、東京が燃えて……貴方が怪異として顕現したその瞬間。貴方はとても悲しんでいた。大切な誰かが、街が、うしなわれて欲しくないと心から嘆いていた」


 しかしその悲しみは、あまりにも多量の怒りと怨みに押し潰されて紛れてしまった。

 混濁する十万の怨嗟によって、怪異となったミケの力は暴発する。

 雁枝に力を封じられた後、彼は悔いて、呪わしい霊威を自分の意志で操れるようにと努力してきた。それは並大抵の苦労ではなかっただろう。

 しかし、その中で――


「誰かのために悲しんだ……その感情にまでも蓋をするのは……それこそ、僕には悲しい事に思えます」


 自然と、根岸は血流し十文字の穂に視線を注いでいた。

 鈍色の刃が、赤黒い淀みを浮き上がらせて彼に呼応する。


「血流し十文字には、二人の思念が宿っていました」

「二人?」

「槍の持ち主と、彼の死を目の当たりにしながら死んでいった娘さんと。娘さんは自身を怪異として形づくるだけの力を持てませんでした。狂乱を伴う怒りや怨みより、悲しみはずっと弱く曖昧だ。

 でも、『殯』の異能は彼女の存在を過去から浮かび上がらせた……形になる事で心を取り戻せた。父娘おやこ揃って」


 一つ呼吸を置いて、根岸はミケに言った。


「だから、もしミケさんが暴走しそうになったとしても。。貴方が何を願ってこの世に顕現し続けたのか、どれほど優しい悲しみをいだいてきた怪異なのか、必ず思い出して貰います」


 彼は片手を伸ばし、今まで何度かミケにそうされたように、彼の肩を引き寄せて柔らかく叩く。

 そこまでしてから急に、らしくもない真似をしたな、と気恥ずかしさを覚えた。


「まあその……あまり頼れるような幽霊じゃないですけど、僕は」


 もごもご言って両手を上げる。

 ミケは不意の出来事に驚いた猫そのままの顔で、目を丸くしていた。


「どうも最後まで格好良くキメられない奴だね、秋太郎お前は」


 と、雁枝が横から茶々を入れてくる。ごもっともな意見だがどうしようもない。

 ただ彼女の軽口のお陰でか、ミケは戸惑いと切迫感の中で強張らせていた両肩を、糸の切れたような仕草ですとんと落とした。逆巻いていた髪も落ち着く。


「……根岸さん」


 改まった態度で、ミケは口を開いた。はい、と根岸は相槌を打つ。


「約束してくれるか。万一の時は、御主人や志津丸しづまるや……他の誰かが犠牲になる前に、あんたが俺を殺してくれると」

「――それは」

「十文字の力を借りれば、出来るはずだ」


 実力として可能か不可能の問題ではない。いや、それも確かにあるが。

 だが、ミケがただしたのは当然とも言える。最悪の事態を想定しないまま発案するべきではなかった。

 『殯』の異能を使いこなそうというならば。他者の、あるいは世界の運命に介入するならば、覚悟と責務が必要だ。


「わ――分かりました」


 血痕で汚れた額に汗を浮かべて、根岸は答えた。


「約束します」


 ミケは金縁きんぶちの瞳で根岸を見つめる。

 ほんの二秒か三秒か。恐ろしく長く感じる時間だった。


 やがて、ミケはふっと相好を崩す。

 何を思ってか、彼は根岸の側頭部をぺちぺちとはたいた。


「ミケさん?」

「あんたのその表情を、この目に焼きつけた」


 にやりと犬歯を覗かせてミケは言う。飄然としつつも隙を感じさせないその面持ちは、既にいつもの彼だった。


「安心しろ、二度とそんな顔はさせない。俺こそ約束するよ、皆で元気に音戸邸おとどていへ帰る」


 それだけ一息に告げてから、ミケは雁枝へと向き直る。


「やってくれ、御主人。……使い魔としてはここでおいとまを頂くが、音戸の家令の仕事は残ってるよな? 帰ったら飯を炊かなきゃならん」

「楽しみにしてるよ、ミケ」


 応じた雁枝がくるりと一つ、手首を回す。

 次の瞬間まるで手品のように、彼女の手には抜き身の短刀が握られていた。


「これより、お前との主従契約を解除する」


 その時――再びの破砕音が響いた。


「……七枚目の結界が」


 残る結界は一枚きりだ。

 根岸は血流し十文字を携えて、その場に立ち上がる。


「雁枝さん。契約解除にはどれくらいの時間が必要ですか?」

「諸々手順をすっ飛ばすが、それでも三分は欲しいね」

「分かりました。稼ぎます」

「何か手はあるのかい、根岸さん。今のイーゴリは……生半可な相手じゃないぞ」


 案じるミケに、根岸は彼を振り向いて頷いてみせた。


「一つ、試したい事があるんです。この際打てる手は、ギャンブルでも何でも全て打ちましょう」


 もとより、イーゴリを相手取る重責をミケ一人に背負わせるつもりなど、根岸にはなかった。

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