第92話 灯火の尖塔へ (13)

 「辺路番ヘチバンーっ!」


 坑道の中に、諭一ゆいちの叫びが反響する。


 イーゴリが辺路番の右腕を咥えたまま立ち上がり、辺路番は宙吊りの状態となっていた。


(話に聞いていたより更に大きい……!)


 募る焦りの中で根岸は、九年前に霧中のイーゴリイーゴリ・ヴ・トゥマネを実際に目撃した陸号ろくごうの証言を思い出す。


 当時、イーゴリは小学校の校庭でミケと対決したという。その獣としての姿は炎をまとったミケよりやや大きく、目測で全長七メートル前後だったと彼は語った。

 しかし今目の前にいるイーゴリは、七メートルどころではない。その二倍近くはある。


、と言ってるんだよ! オレは腹が減ってんだ。先にこいつ食っちまうぞ」


 居丈高にイーゴリは命じた。彼の視線の先には、ここまでの案内人を務めた二体の餓鬼と、ブギーマンのティアリーアイズがいる。


 イーゴリの側腹部からはみ出す牙が、ぐりっ、とうごめいた。辺路番の右腕と一緒に噛み砕かれた鉈がへし折れ、その場に落とされる。


「いぃぃっ!」

「きぃぃぃっ!」


 二体の餓鬼は肩を震わせて泣き叫んだ。

 ここまでの遣り取りを見るに、辺路番は餓鬼たちにとって兄も同然なのだろう。


「っ……、ダメっスよブラザーズ、こんな奴地上に出したら、ヤベェなんてもんじゃ……っくあああッ!?」


 朦朧としながらも餓鬼に呼びかけた辺路番が、言葉半ばで悲鳴を上げる。苔色のパーカーが見る見る血に染まった。


「るぃいいいあっ」


 突如、ティアリーアイズが三本腕で自分の頭を掻き毟った。辺路番の物だというヘッドフォンが外れる。


「ティアリーアイズ!」


 慌てた諭一が、ウェンディゴから人の姿に戻って駆け寄った。


「そっか混乱するよな、会いたかったエルダーがいきなり狼に変身って……いやでも待って、落ち着いて!」


 ティアリーアイズを抱き止めようとした諭一だったが、あえなく彼は振り払われた。ふらつくブギーマンは坑道の壁面に向かって飛び、そこで「いぃぃっ」と一声放つ。


 ――風が吹き込んだ。


 暗い坑道の壁から、明かりのともるビル街と夜空が見える。

 ティアリーアイズが錯乱状態で、空間穿孔くうかんせんこうの異能を使ったのだ。


「それでいいッ!」


 喜色も露わに、イーゴリが開かれた穴へと突進する。辺路番の身体が放り出されたかと思うと、今度はティアリーアイズが狼の前足で踏みつけられた。


「ぎああああっ」

「わぁーっ!?」


 ティアリーアイズの苦鳴に、突き飛ばされ尻餅をついていた諭一までが血相を変える。


 イーゴリが外界へ踏み出した。外からは陰陽庁と警察の車両が鳴らすサイレンの音、急ブレーキの音、そして騒然とする人々の声が流れ込んで来る。このままでは惨劇は必至だ。


 坑道内では、餓鬼たちが倒れた辺路番に取り縋って泣いていた。

 辺路番は右腕を完全に引き千切られ、ぐったりとしている。


「辺路番さん――!」


 無事な方の肩に触れて根岸が呼びかけると、一応彼は息を吐いてみせた。


「……色々イタすぎて顔ない」


 彼の顔は元々半分くらいない、と指摘しようかと思ったがやめておく。

 半端に残ったパーカーの袖口で患部から溢れる血を押さえ、根岸は諭一たちの方を振り仰いだ。


「諭一くんリンダラーさん、そっちは?」

「ティアリーアイズ……う、腕のどれかが折れてるっぽい」

「暴れるとまずいから、一旦意識飛ばすわ。あんたは目を閉じてて」


 リンダラーが諭一に告げて、ティアリーアイズに赤い光を浴びせる。痛みと混乱で痙攣を起こしていたブギーマンは、たちまち打ち捨てられたシーツのように諭一の腕の中で伸びた。


「僕らも外へ!」


 辺路番を背中に負ぶって根岸は言う。

 ティアリーアイズが意識を失った事で、坑道の出口は縮まりつつあった。加えて辺路番の作り出した灯りも薄れている。


 諭一とリンダラーがティアリーアイズを運び、まだ泣いている餓鬼たちと十文字を根岸が両脇に抱えるようにして、彼らは急ぎ脱出した。



   ◇



 地上に出た根岸は、一度辺路番を下ろすために身を屈め、そこで息を呑んだ。


 目の前の歩道に血だまりが出来ている。

 血の海の真ん中に、男物の靴を履いた人間の足首から先、と思われるものが落ちていた。紺鼠色こんねずいろの丈夫そうな布の切れ端も。……恐らく、陰陽士の制服だ。


「うっ――」


 根岸の視線を追って路上の有り様に気づいた諭一が、片手で口を押さえる。吐き気をもよおしたのだろう。


 車道にはフロントガラスとドアの壊れた、陰陽庁の緊急車両が斜めに停められていた。壊れたドア側から倒れ込むようにして、負傷した女性の陰陽士が一人、無線機に取りついている。


「応援っ、応援頼む! 大型の危険怪異が現在、東麻布ひがしあさぶ一丁目交差点前を――きゃあッ!」


 前触れもなく、砲弾のごとき速度で着地したイーゴリが車両を押し潰した。近くのビルの屋上から一息に飛び降りてきたのだ。


 潰された車両から辛うじて転がり出た陰陽士だったが、その彼女の胴体に何かが巻きついた。

 長く、赤みがかったマットレスのようなそれの異様さに根岸はぎょっとする。イーゴリの側腹部の口から垂れている所から見て、どうやらあれは舌だ。


「諭一くんは皆と避難所へ!」


 それだけ言い置くと、思考より先に根岸は走り出していた。血流し十文字を振り被る。


 陰陽士の身体を掬い上げた舌は、まさにイーゴリの口の中へと彼女を納めようとしていた。

 根岸は投擲とうてきに近い姿勢で、強引に槍先を届かせる。

 ほぼ片手だけの力だ。狙いなど定めようもなかったが、そこは十文字が上手くやってくれた。分厚い舌を槍の穂が穿うがち、イーゴリの口は彼女を投げ捨てる。


「グルアァッ」


 イーゴリの頭部が苛立ちを滲ませて唸った。


「てめぇ、幽霊か! さっきからクソ雑魚がチョロチョロと!」


 三対の眼が根岸を睨み据え、長い毛並みが逆立つ。狼は攻撃体勢を取った。


 猛烈な勢いで迫る牙の初撃を、何とか根岸は回避する。だがバランスを崩し転倒した。

 次は逃げ切れない、と思った途端、十文字の声が聞こえる。


『乗れ。そこに急所がある』


 ――急所?


 根岸は背後を振り仰ぐ。イーゴリが再び牙を剥いて襲いかかろうとしている。


 即座に決断して身を起こすなり、彼は地面を踏み切った。イーゴリの頭部めがけて。


 ――大概の動物の弱点は頭部にある。大きければ大きいほどに、良い的だ。


 鼻頭びとうの毛皮を片手で掴み、身を捻る。鼻先から頸裏くびうら付け根までが根岸の身長と同程度だろうか。そこに逆立ちして倒れ込むような格好となった。


 我に返ると同時に冷や汗が吹き出る。無我夢中でどうにかなったが、もう半歩ずれていたら自ら口の中に飛び込んでいた。


『お見事』


 割り合い呑気な口振りで十文字が称える。

 それを聞き流しつつ、根岸は頭頂部に片膝立ちになって槍を構えた。三対の眼と鼻の間の丁度中央に穂先を突き立てる。


 が――浅かった。

 十文字の力を借りたにもかかわらず、貫けたのはイーゴリの毛皮のごく表層のみだ。


『こやつ。鎧でも着込んでおるのか』


 血流し十文字の声色は先程までと変わらず抑揚が乏しいが、しかし今の彼は明らかに動揺していた。

 血の色の流体が槍から湧き出て、イーゴリにまとわりつこうとするもことごとくはじかれる。


 根岸もまた、岩盤を叩いたかのような刺突の感触に驚いていた。発掘作業中、ただの土だと思ってスコップを強く突っ込んだら予想外に硬かった時のあの反発ぶりだ。


「一体何に覆われてる……!?」


 そう呟いた時、ふっと根岸の視界に、金襴きんらんを思わせるイーゴリの毛並みに重なる形で何かの影がぎった。


 人影。それも複数の。


(幻視? ……『もがり』の異能か? 今はやめてくれ!)


 根岸の持つ異能はコントロールを利かせにくい。他の怪異に近づいた時、ランダムで発動し勝手に映像を読み取ってしまう。


 根岸は一瞬だけ強く両目を閉ざした。再び開けると幻は既に消え失せている。


 直後、十文字が警句を発した。


『秋太郎殿、備えよ』


 何に、とはくまでもない。


「がああああっ!」


 イーゴリが狂暴に吠えた。

 上体ごと大きく頭を振り、高層ビル群を高々と跳躍して根岸を揺さぶり落としにかかる。

 突き立てた槍で身を支えようとした根岸だったが、穂先は呆気なく抜けて毛皮の上を滑った。


「あッ――」


 空中に投げ出される。そこでようやく根岸は、いつの間にか自身が遥か上空まで道連れにされていた事に気づいた。街の明かりが星空と変わらないくらいに遠い。


 ――この位置から地上まで落ちようものなら。


 自由落下の加速する感覚に根岸はぞっとした。ジェットコースターすら苦手だというのに、こんな第二の死はあんまりだろう。


 しかし、根岸が地上にぶつかる事はなかった。助けられた訳ではない。


 根岸を振り払ったイーゴリは空中で体勢を変え、更にはその身をヒトに似た形へと変容させた。

 獣の時よりは随分と小さく、ただし人間としては大柄な男だ。ごわついた質感の純白に近いプラチナブロンド、青白い肌、尖った耳。顎下から指先に至るまで、様々なモチーフの刺青タトゥーに覆われている。


 人型への変化へんげを完了させたイーゴリは犬歯を覗かせて凶悪な笑みを浮かべ、虚空を蹴立てるようにして落下する根岸へと追いついた。


 肩を掴まれる。長い爪の食い込む痛みに根岸は呻いて身じろいだが、空の只中で抵抗のすべなどない。


「やってくれたなァ、クソ雑魚ッ!」


 顔に走る傷を指の腹で拭うなり、イーゴリは片腕の力で根岸を投げ飛ばした。


「――っ!!」


 声を上げるいとますらない。一瞬ののち、根岸は背中に強烈な衝撃を受けた。


 全身、ばらばらになったかと思う程の鈍痛と痺れが襲う中、根岸はぼやける視界を左右に振った。眼鏡が割れたのか、視界の右側が曇っている。

 赤く塗られた、武骨な造りの鉄柵と鉄板製の床がすぐ目の前に見えた。


(……東京タワー)


 すぐにそう思い当たる。つい先刻までは地上から見上げていたあのタワーの、恐らく点検補修用の通路に落とされたのだ。


 彼の周囲には、ねばついた赤黒い流体がまとわりついていた。身体の下にも広がっている。

 血流し十文字が、自身の怨嗟の呪いを具現化させたものだ。激突の直前、これをクッション代わりに撒き散らしてくれたのだろう。そうでなければ即死していてもおかしくなかった。


「じ……十文字……」


 通路の少し離れた位置に投げ出されている十文字へと、根岸は倒れたまま腕を伸ばした。

 その手首が、突然降ってきた靴底に踏みつけられる。


「うぐぁっ!」


 不意の激痛に、喉から勝手に声が絞り出された。

 顔を上げると、イーゴリがこちらを見下ろしている。反射的に跳ね起きようとしたが、途端に顔を蹴り上げられ、通路の柵へとまた背が叩きつけられた。


「どうも妙な匂いがすると思ったんだ」


 雑談でも振るような調子で歩み寄ってきたイーゴリが、鉄柵の前にうずくまる根岸の髪を掴んで無理矢理引っ張り起こす。


「う……」

「こいつは、残り香か。てめぇあのクソ猫の――何だ? 同じ魔女のペットか何かか?」


 、とは随分な呼び方だが、多分ミケの事だろうと根岸は当たりをつけた。九年前に戦った相手の匂いをこの人狼は覚えていて、今憎々しげに記憶を蘇らせている。


 額から瞼の上まで血が垂れてきて、視界が霞みつつあった。それでも根岸は、最早ろくに顔の見えない相手を正面から笑い飛ばしてみせる。


「……ただの茶飲み友達です」

「はっ、そうかよ」


 イーゴリもまた鼻で笑う。


「お仲間ってんなら、奴の目の前で食らってやるのが最高だろうが――いや、手足の一本くらいは今食っても死にゃしねえな」


 掴んでいた根岸を通路上に放ると、イーゴリは一つ舌舐めずりをした。


 血流し十文字からは引き離されてしまった。根岸は上手く動かない腕で身を引きずるように後退し、イーゴリを睨み上げる。


 ――どうする、まだ反撃の手段はあるか、考えるのをめるな、動け――


 諦めて手足を差し出すつもりは毛頭なかった。



   ◇



 諭一は自分のポケットからの振動音に気づいた。


 路傍に転がる惨劇の痕跡を見せつけられた上、すぐそばにいた根岸は陰陽士を助けようとしてイーゴリに組み付き、そのまま連れ去られてしまった。

 一度に色んな事態が動いて目の回るような気分だったが、一先ず彼はポケットを探る。


「……? 誰?」


 画面には知らない携帯の番号が表示されている。まさかこんな時にセールスか、などといぶかしみながらも、鳴りやまないので通話ボタンを押した。家族や友人からの安否確認かもしれない。


 が、聞こえてきたのは記憶にない声の、思いもかけない名乗りだった。


『あっ、繋がった! 無事でしたか! どうもはじめまして、私ぁ陰陽庁富山黒部くろべ支局の堀田ほったです!』

「は、はい? 富山? ほったさん?」


 訳が分からない。諭一はぽかんとして断片的な単語だけを問い返す。


『そうながいぜ。あのですね、今羽田に到着しとるんですが、そちらのお知り合いの猫さんが着陸より先に飛行機の屋根から飛び降りてしもうて』

「猫――えっ――」


 はたと、諭一は夜空を見上げた。


 オレンジ色のライトに照らされる東京タワー。

 その遥か彼方からもう一つ、同じ色の光が迫ってくる。


 ――朱々と燃え盛る火炎をまとった、二尾の猫だ。


「ミケちんっ!」


 声を限りに、諭一は叫んだ。今度は通話相手が困惑して、『ミケちん?』と返す。


 いかなる原理でか、雲間から飛翔してきた猫又は、東京タワーの尖端へと猫らしい器用な挙動で四足を絡ませた。


「フシャアアアアアアッ」


 猫の威嚇音に、空襲警報と十万の老若男女の悲鳴が重なり、東京の空にこだまする。


 不吉な響きであるはずのその咆哮が、今の諭一にはただただ頼もしかった。



 【灯火の尖塔へ 了】

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