第91話 灯火の尖塔へ (12)

 夜空の下、ライトアップされた東京タワー。地上一五〇メートル地点の展望台メインデッキ。

 現在は臨時閉館となったそのフロアので、金属の激しくぶつかり合う音が響いていた。


「つッ、この――」


 志津丸しづまるの巻き起こした暴風の中、肩口を斬りつけられた伽陀丸かだまるの血飛沫が空へと散る。

 疲弊の色を隠せなくなってきた伽陀丸は距離を取った。志津丸は薙刀ながなたを構え直して間合いを詰めにかかるが、その彼の周りを、伽陀丸の操るつぶてが取り囲む。


ちろ!」

循環めぐれ!」


 弾丸の速度で礫が繰り出されるのと、志津丸が薙刀を羽団扇はうちわに変形させるのと、ほぼ同時の事だった。


 羽団扇のひと扇ぎで礫は速度を失い、ざらりと砂粒状に崩れて地面へ落ちる。


 礫の粒子が混ざる風の中を、志津丸は高速で飛翔し伽陀丸へと肉薄した。

 下段からの斬り上げ――と見せかけてぐるりと薙刀を回し、柄側でしたたかに伽陀丸の首根を打ち据える。


「ぐッ!」


 更に至近距離まで詰めた志津丸は、薙刀を手の中から消し去り、素手で伽陀丸の胸倉を掴んだ。


 引き寄せるなり、固めた拳で思いきり顔面を殴る。


「っ……!?」

「いい加減目ぇ覚ませよこの馬鹿! 暴れたかったなら天狗の里で十分やっただろ! ブギーマンと人狼を退かせろ!」


 展望台の窓ガラスに、双剣を握った伽陀丸の両腕を押しつけて、志津丸は怒鳴った。

 対する伽陀丸は、血の滲んだ口角を冷笑に吊り上げる。


「はっ……、お前、まだ俺を斬りたくないのか」

「当たり前だ!」


 そこは最早認めるしかない。


「誰が斬りてぇもんかよ、お前は兄貴だろ! 家族だろうが!」

「怪異にそんなものはない! 人間と、それに迎合した里の連中から押しつけられた概念だ!」


 否定の言葉と共に、志津丸の脇腹に鋭い蹴りが入る。衝撃に顔をしかめた途端、伽陀丸の右手が拘束をすり抜けた。短剣の切っ先が胸元に迫る。


「ち……!」


 ――この剣は魔眼の毒を篭められていない。掠った程度ならば死には至らない。


 志津丸はあえて身を離さず、急所は避ける形で浅く切らせた。鎖骨の真下辺りに痛みが走る。それがどうした、と自身を叱咤して次の行動に出る。


 志津丸の判断が予想外だったのか、伽陀丸は目を見開いていた。

 その顔にもう一度拳を食らわせると、志津丸は再度相手の右腕を捕らえにかかる。


 掴んだ、と思いきや、鼻先にがつんと固い衝撃が来た。頭突きを食らったらしい。


 闇雲に羽交い締めにしようとする志津丸を、伽陀丸は振りほどこうとする。短剣の刃が何度か志津丸の腕を掠め、手首が血でぬるついてきた。


 揉み合いの中で二人は急速に高度を落とす。どちらのか分からない羽根が千切れ、周囲に舞い散るのが分かった。


 地上一五〇メートルから地面へと激突するその直前、志津丸は風を起こして自身の身体を浮き上がらせる。

 ここで伽陀丸を突き放すべきだったかもしれない。しかし彼には、薙刀での一刀両断と同様にその決断も出来なかった。


 伽陀丸の腕を掴んだまま、二人分の空気の層を作り出す。

 伽陀丸が少し意外そうな表情となり、それから皮肉めいた笑みを口の端にだけ浮かべた。


 地面に片足が付くその瞬間、砂塵さじんの蛇の尾が突然死角から現れた。鞭のごとくしなる尾が、志津丸に叩きつけられる。


「が、はっ――」


 呼吸が止まり、視界が一瞬暗くなるほどの激痛が襲う。


 彼の身体は吹っ飛ばされ、その先にはガラス張りのドアがあった。ガラスが脆くも割れ、志津丸は破片共々建物の中に転がり込む。


 東京タワーの下部、ショッピングモールになっているフロアか、と志津丸は痛む身を起こして理解した。


 先程の砂塵の蛇は、伽陀丸が子供の頃から得意としていた術だった。

 九年前はミケにあっさりと突破されたものだが、今の術の威力は当時を遥かに超える。


 ――伽陀丸は?


 志津丸は急ぎ敵の位置を見定めようと視界を巡らせた。

 そこに、


「ひぃっ」


 と息を呑む声が湧く。


 声の方を見て、志津丸はぎょっとした。

 土産物屋と思われる店舗の会計カウンターの陰に、人間の女性が一人、がたがたと震えながら身を屈めている。

 店自体はタワーの臨時閉館に合わせて閉まっているはずだ。彼女は店員だろう。閉店後の検品か清掃かレジ業務か。


(明日にしろそんなもん!)


 怒鳴り散らしたいのをこらえて、彼女の周囲を観察する。伽陀丸がもし彼女を見つけたなら。


 案の定――というべきか。砂塵の蛇が床板を地下から割り破って出現し、躊躇ためらいなく人間の女性へと襲いかかった。


「何してる、逃げろっ!」


 今度は抑制せずに腹の底から叱りつけると、志津丸は人間と蛇の間に割って入り、羽団扇を現出させる。


循環めぐれ山風!」


 団扇が一閃、砂塵の蛇は元の塵へと溶け消えた。


「いやあっ、ああああっ」


 頭を庇ってうずくまっていた女性は、泣き喚きながらもカウンターの陰から這い出し、奥へと走って逃げて行く。

 同時に志津丸は、言いようのない疲労感に息をついた。


 天狗の羽団扇は、ものの数十分前に瑞鳶ずいえんから受け継いだばかりの異能だ。そう何度も短時間のうちに乱発するべきではない。


 頭を振り、ぐらつく視界を明瞭にする。

 刹那、彼は背後に迫る気配を捉えた。


 咄嗟に翼を広げて防御体勢を取る。急所を狙ったらしい短剣の刃は、広げた翼の付け根近くに深々と突き立てられた。


「……! 伽陀丸っ――」

「そんな動きまで大師匠おおせんせいに似てる」


 突き立てた短剣を、伽陀丸は更に押し込んで捻る。べきっ、と乾いた音が翼の内で鳴った。


 ――折られた。


 そう認識するなり刃が引き抜かれる。

 志津丸は正面から伽陀丸に向き直り、薙刀を現出させようとしたが、片翼で瞬時に集められる風の精気には限界があった。


 武器が形を成す前に、俊敏に懐へ潜り込んだ伽陀丸によって腹部を蹴り飛ばされる。

 短く呻いて、志津丸は床に転がった。

 追撃が来る。

 仰向けに倒れた状態で、志津丸は上から振り下ろされた短剣を蹴り返した。舌打ちをした伽陀丸が、もう一振りの剣を腿に突き立ててくる。


「っがあああッ!」


 耐えかねて志津丸は叫んだ。片翼と片足から吹き出た血が床に撒き散らされる。


「これで瑞鳶ずいえんと揃いの片翼だな。いや、左右逆だったか?」


 無理矢理に上体を起こそうとした所で胸を踏みつけられ、再び床に倒れながらも志津丸は相手を睨み上げた。


 余裕ぶった口調ではあるが、伽陀丸も無傷ではない。顔も腕も血にまみれ、暗色の着物も肩口からの出血で黒ずみを増している。


「しっ……師匠の何が、そんなに憎いんだよ……!」


 伽陀丸の声音には隠しきれない憎悪が滲んでいた。志津丸にはそれが理解出来ない。


 直弟子でないとはいえ、瑞鳶は伽陀丸を冷遇していた訳ではない。

 寧ろ子供だった志津丸から見ると、反抗しては叱られてばかりの自分よりも、何事も優秀にこなす伽陀丸はよく褒められていて、羨ましかった。


 志津丸のぶつけた疑問に、伽陀丸は冷たく目を細める。


「怠慢だ」

「怠慢?」


 ――何を言っている。

 かつて四人の大天狗の一角として里を拓き、結界を張り巡らせ、今は一人でそれを維持している彼の、どこに怠慢が?


「瑞鳶は知っているはずだ、この先の怪異の運命を。

 四人がかりで張り巡らせた天狗の里の結界……それを維持出来るのは今や一人。

 二十年前にお前が、後継となり得る異能持ちがようやく生まれたが、それも一人きり。八十年前の異変以来、怪異の頭数は増えたってのに」


 伽陀丸の左目が、真下の志津丸を捉える。


「怪異はえた。……だが弱くなった。昔の怪異は個体数こそごく僅かだったが、今より強く大きかった。何故だと思う?」


 志津丸は眉をひそめた。

 江戸の頃の怪異には身体の大きな者が多かった。そんな話は確かに、瑞鳶から聞いた覚えがある。


 頭領の屋敷の茶室――現在はカフェスペースに改造された離れの部屋だ。あれを瑞鳶がこしらえたのは三百年ばかり前の事だと言う。

 人間の使う茶室を模したが、人間用の造りでは、当時の瑞鳶の客となる怪異には狭過ぎた。

 それで多少天井も床も広めに取ったと、かつて師は笑い話として語った。


「……人が恐れなくなったからだ」


 回答出来ずにいる志津丸に対し、教え諭すような口調で伽陀丸は告げる。


えた怪異達……多くは幽霊だとかの雑魚ざこだよ。連中は怠惰にも、人間社会への恭順を示し始めた。あろうことか、百年以上を生きるパンデミック以前からの大物怪異達もそれに同調した!」


「そっ……れは、別に構やしねぇだろうが! 増えた端から人間とバカスカ喧嘩しろっつーのかよ! 殺し合いでキリがなくなる! つうかまた数が減るわ!」

「それでいい!」

「あァ!?」


「種族ごと弱者にすくらいなら! 雑魚を減らしてでも、人間と白黒つけて――どちらが上か理解させるべきだ!

 思い上がった人間を食らい、罰して、おそれられる! かつての姿に戻るべきだ!

 そうしなければ、いつか蹂躙じゅうりんされるのは怪異こちらだ! 人類ってのはそういう種族なんだよ!」


 失血のせいだけでなく、志津丸は自分の視界が揺らぐのを感じた。

 頭がくらくらする。兄と思って慕っていた相手が、ほんの少年の頃から、そんな風に目に映る世界を見下し、憎んでいたというのか。


「……時代さえ違えば」


 絞り出すような声で、伽陀丸は続ける。


「瑞鳶が方針を誤らなければ……! あるいは俺だって、お前と並び立てるような力を得ていた……!」


 多分、それは失言だった。

 志津丸は一瞬、呆気に取られる。


「……伽陀丸」


 名を呼ばれて、伽陀丸は我に返ったような目つきになった。

 その顔に志津丸は、互いが少年だった頃の面影を見出し――そして、猛烈に腹を立てた。


「お前っ……これだけやらかしやがって、種族がどうのとか大層な御託並べといて……それが、それが本音かよっ!」

「黙れ!」


 にわかにまなじりを吊り上げた伽陀丸が、馬乗りになってくる。片手で首を絞められ、身動きも出来なくなった上に、折れた片翼を再び短剣で抉られた。


「あっ、ぐぁ――!」

「生かして――やりたかったのに! お前は! 力を得て生まれた! 怪異を救える存在だった! どうして人間を守るのに命を懸けてる、クソったれ!」


 相手が何を言っているのか、志津丸は半ば聞き取れなくなっている。意識が薄れる。ここで彼を止めなければならないというのに。

 しかし、どうすれば――


「カァァッ!!」


 全く唐突な出来事だった。

 甲高いからすの鳴き声がフロア内に響き渡る。

 天井近くだ。

 黒い翼を目一杯に羽ばたかせ、現出に成功したばかりらしい木棒を握りしめて、阿古あこが飛んでくる。


「阿――」


 志津丸が口を開くのと時を同じくして、阿古の振り下ろした棒が伽陀丸の掲げた短剣をはじき飛ばした。


「なっ!?」


 伽陀丸が背後を振り仰ぐ。彼にとっても完全に不意打ちだったのだろう。


「アァーッ!」


 怒りの声を上げて、阿古が今一度打ちかかろうとする。

 志津丸が制止している猶予はなかった。

 ほとんど反射的な挙動で、伽陀丸はもう一振りの短剣を現出させ、阿古の身体を逆袈裟に斬り上げていた。


「ギャッ」


 ごく小さな悲鳴と共に、阿古が床へと落下する。

 床に倒れた阿古の身体の下から、血溜まりが広がってゆく。


「……阿古」


 ほうけたような声を、伽陀丸は漏らした。

 阿古が顕現したのは十年前だった。伽陀丸が人間社会に修行に出たすぐ後の事だ。

 学校が連休で里帰りした折に、伽陀丸はまだ雛鳥ひなどりだった阿古と対面している。志津丸と一緒になってあやしてやった。


 ――彼はそれを忘れていない。

 忘れていないくせに。


「うぁ――あああああッ!」


 言葉にもならない叫びが志津丸の喉から絞り出された。


 全身の痛みを無視して跳ね起きる。阿古の方へ身構えていた伽陀丸はあっさりとそれを許した。

 その勢いで、今度は志津丸が馬乗りの体勢を取る。彼はがむしゃらになって相手を殴りつけた。自分の手指が傷つくほどに。


「てめぇ、伽陀丸――っ! 怪異を救う方法ってのはこれかよ! こんな事なのかよ! どの口がああっ!」


 視界がぼやけている。何を打ちのめしているのだかもうろくに見えない。志津丸は夢中で薙刀を呼び出すと、伽陀丸の喉へと刃を押し当てた。


 ――どうすればいいかなど、最初から分かっていた。

 首を斬り落とせば良かったのだ。その機会は何度もあった。それを躊躇し続けたせいで、そのせいで阿古が。


 刃先が勝手に震える。迷うな、と志津丸は必死で呼吸を整えた。もうやるしかない、こうするしかない。


 更なる新しい音が彼方から響いたのはその時だった。


 ――遠吠えだ。


 狼のものだった。それも尋常でなく大きい。


「彼が打って出たか」


 不意に、他人事のように伽陀丸が呟く。


 直後、志津丸は横合いから殴りつけられたように吹っ飛ばされた。

 砂塵の蛇、と攻撃の正体に思い当たった時には、既に伽陀丸の姿はとぐろを巻いた蛇に隠れて見えなくなっていた。


「待て!」


 どうにか起き上がり、追おうとした志津丸だったが、飛べないばかりか歩く事すら出来ない。


 蛇は素早く身をくねらせ、ガラスの割れた扉から外へと逃げ去った。伽陀丸も、恐らく蛇の内部に隠れて行ってしまったのだろう。


 後には、あちこち破壊された店内と志津丸と、阿古だけが残されている。


「……阿古っ」


 血まみれの床を這いずって、志津丸は阿古の元へと辿り着いた。

 阿古は返事を寄越さない。だが、まだ呼吸音は聞こえる。傷の深さは致命的なものではない。


 安堵に近い吐息を落とす志津丸の耳に、馴染みのある、そして今最も聞きたかった声が届いた。


「阿古っ! お前、勝手に飛び出して……!」


 雁枝かりえだ。

 三毛猫の姿を取って建物内へと入ってきた彼女は、「志津丸!」と彼に気づき、人間の少女へと変容する。


「ばあちゃん」


 そう呼びかけるのが、何だか懐かしい事のように思えた。

 志津丸は阿古を抱いて立ち上がりかけ、また力なく倒れ込む。

 倒れた先に、雁枝の腕があった。阿古ごと抱きしめられているらしい。


「お前達、本当に……仕方のない子だよ!」


 子供を叱るような調子で、彼女は言った。

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