第83話 灯火の尖塔へ (4)

 都営地下鉄大江戸線、赤羽橋あかばねばし駅。

 その出口近くのコンビニで、惣菜パンや弁当を運べる限り買い込んだ根岸は、店を出てしばらく歩いたところで、ふと視線を上向けた。


 赤と白の特徴的な塔――東京タワーが見える。頂上を確認するには首を傾ける必要があるほどに、間近だ。

 現在タワーはライトアップされ、夜空をオレンジ色に染めている。もしも根岸がのびのびと観光に来た身であれば、この幻想的な景色に感動出来たかもしれない。


「あっ、根岸くん。そっちも買い出し終わり?」


 声に振り向くと、そこに陸号ろくごうが立っていた。彼も別の店で買い物をしてきたらしく、荷物のぎっしり詰まった袋を両手に提げている。


「どうかした? そういやきみ、腕怪我してたのにそんな荷物持って大丈夫?」

「ええ、怪我は大した事なかったし、須佐すささんに薬も塗って貰ったんで。……いや、こんな時になんですけど、東京タワーをここまで近くから見上げた事なかったなって」

「あー、登った事ないんだ」


 陸号も根岸の視線に沿ってタワーを見上げた。


 根岸が上京したのは二年前の事だ。最初の一年半は仕事に慣れるのに精一杯で、あまり都内を観光している余裕がなかった。

 そしてようやく慣れてきたと思った矢先に殉職してしまい、今度は幽霊の状態に慣れる必要が生じた。


「中学の頃にスカイツリーは登ったんですけどね。部活の大会で東京に来てついでに」

「今の若い人はそっちだよね」


 そう語る陸号は、見た目どおり顕現して四十年ほどの人狼だという。

 しかし、ボードゲームカフェを経営しつつ他の若い怪異たちのホストファーザーを務めたりもするという生活のためか、フランクな性格であまり年嵩という感じがしない。


 嗅覚こそ並の人狼より優れているが、戦闘に関してはさっぱりだと自ら明かしてくれた事もあって、根岸は何となく親近感を覚えている。


 戦いに参加しなかった分、根岸も陸号もまだ動ける程度には元気が残っていた。

 彼らはハナコが用意してくれた『避難先』に到着し、負傷した天狗たちを休ませて必要な物資を買い求めに出た。そして幸い、無事に戻ってきた。


 足早に歩くうちに、避難先のビルが見えてくる。


 その建物は五階建てで、高層ビルの並ぶ港区の中では小ぢんまりとした印象である。


 敷地前には立ち入り禁止を示す黄色と黒の柵が立てられていた。どうも解体前の廃墟のようなのだが、これは表向きのもので、ハナコによれば「所有者とは話がついてる。電気も水道も通ってる」との事だ。


 柵を超えて裏口に回り、戸を叩く。


「戻りました、根岸です」


 すぐに中からドアが開いた。立っていたのはリンダラーだ。

 今の彼女は首も内臓も身体に収めていて、普通の人間と変わらない姿をしていた。

 民族的な意匠をあしらったゆったり気味のパンツにシャツというスタイルで、ファッショナブルな観光業界の会社員といった風情である。


「おかえり。……尾行なんかされてない? あと、あんたたち本物でしょうね」

「証明するの難しいな」


 陸号が眉尻を下げて頭を掻いた。


 今回、敵の人狼の中には、極めて優秀な変身能力者シェイプシフターが潜んでいる。

 自身が化けるだけでなく他者を別人に変装させる事も可能、怪異の嗅覚すら騙しきるというのだから、ほとんど反則のような使い手だ。


 霧中のイーゴリイーゴリ・ヴ・トゥマネ

 根岸は未だその姿を目にしていない。が、天狗の里の襲撃に際して、裏で糸を引いていたのは確実だと、イーゴリを直接知る天狗や人狼たちは口を揃える。


「だからそいつらには、合言葉代わりになる買い物を頼んでおいたんだ。おら、出しな」


 リンダラーの背後からそう声をかけたのは、十一、二歳と見える小柄な少女だ。おかっぱ頭で古風な吊りスカートを履いている。

 旧戌亥いぬい小学校の怪異たちを率いる少女霊、ハナコだ。


「ハナコさん。これ頼まれてたカルピスです」


 根岸が買い物袋からカルピスウォーターのペットボトルを出すと、ハナコは満足そうな笑顔を見せた。


「おうご苦労、頂く。うん、お前は本物だな」

「あ、そういう意味だったんだ。コアラのマーチなんて今何に使うのかと思った」


 陸号も納得した様子で、袋から特徴的な菓子箱を取り出す。受け取ったハナコは、何が悪い、と言いたげに口を尖らせた。


「何に使うって、ハナコが食うんだよ」

「そ、そう……好物……?」


 怪異には、人間からすると外見と人格にギャップがあるように見える個体も多いが、彼女は特にそうだ。ただしベースとなった思念が子供のものなのか、好物がジュースと菓子だったりもする。


 ともあれ入り口を通過出来た根岸は、荷物を抱えて建物の中へと進んだ。

 このビルはごく最近までゲストハウスとして営業していたようだ。

 二段ベッドの並ぶ大部屋がいくつかと、大きなテーブルやソファの置かれた談話室が一つ。その奥には炊事場。シャワールームと洗面台も複数ある。


 なるほど、大所帯で身を隠す避難先としては最適だ。

 とはいえ合計五十体以上の怪異が押し寄せたものだから、流石にビル内はごった返している。


 ――五十か。


 根岸は苦い思いでその人数を噛みしめる。


 避難先まで先導してくれた学校の怪異は二十体。

 隠れ里に住んでいた天狗のうち、戦える者は約四十。前線向きの異能を持たない、または未成熟の天狗が十五。

 そこにリンダラー、チャチャイ、陸号、ペトラ、雁枝、根岸が加わり……八十体以上がここに逃げ込むはずだった。


 しかし、現時点で追撃を振り切り、避難所まで辿り着く事が出来たのは五十体である。


 よく無事で、と言うべきか、犠牲者が多過ぎると言うべきか。

 何しろ高尾山から港区までとなると遠いので、まだ何名かは到着出来ず、都内のどこかに潜伏している可能性もある。


 敵に変身能力者シェイプシフターがいる以上、安易に電話連絡も出来ないのがネックだった。万が一捕まって携帯電話を奪われ、成り代わられていたらお終いだ。


 ちなみに、根岸は車でここに来た。

 ふもとまで降りて来た時、神隠しの事務所の庭に、天狗たちの共有するバンが停めてあるのを見つけたので、負傷者を詰め込めるだけ乗せて運ぶ事になったのだ。


 定員オーバーの上、根岸は死亡時に運転免許を失効しているから、初めての無免許運転だった。正直言って冷や汗をかいた。

 八王子周辺が混乱状態で、警察も免許確認どころではなくなっていたのが、ある意味で幸いしたと言うべきか。


 なお人間の負傷者たちとは山の麓で別れている。ほとんどが医療従事者でもあるし、恐らく無事でいるだろう。


「志津丸さんは?」

「さっきちらっと目を覚ましたんで、今の状況を説明したが、また寝たかな」


 買ってきた食べ物を冷蔵庫に入れつつ問いかけると、ハナコが答える。


 志津丸は無事な天狗たちを連れて、チャチャイの案内で空からの脱出を試みた。

 立て続けに異能を使い、ブギーマンの攻撃をかわし、更に人間の目を忍んでの逃避行だ。

 余程疲労したのだろう。避難所には真っ先に辿り着いたものの、チャチャイ共々、ハナコの前で倒れるように眠ってしまったそうだ。


「……根岸。無事だったか」


 と、当の志津丸が炊事場に顔を出した。逆立てていた髪が、寝汗やら何やらで乱れ落ちている。

 まだ眠気が覚めない様子で舌も回っていないが、どうにか歩けるまで回復したらしい。根岸はほっと一息ついた。


「ええ、バンで移動したチームは全員無事です。今食べ物買ってきたところで。何か食べられそうですか?」

「ああ……何か知らんが無茶苦茶腹減ってる」


 当然だろう。もう夜の七時だ。

 志津丸は和食党である。根岸は使い捨てアルミ鍋入りのきつねうどんを袋から取り出した。


「これとか」

「サンキュ。それにする」


 志津丸がコンロを使い始めたので、根岸は自分のカレーパンを持って談話室に移動した。


 談話室のソファの傍らには、血流し十文字が立てかけてある。

 十文字を手元に引き寄せ、柄の状態を確認しながらパンをかじっていると、廊下からぐすぐすとすすり泣く声が近づいてきた。


阿古あこ、そんなに泣くな。桜舞おうぶならきっと大丈夫だ」

「……アー」


 阿古を伴った芳檜ほうかいが談話室に入ってくる。

 とぼとぼとソファに腰掛けた阿古は、翼で顔を覆ってまた泣き始めた。芳檜が困り顔で首裏を掻く。


 阿古は桜舞達と共に空から里を脱出したチームだった。しかし逃亡の途中で、桜舞が彼を庇って重傷を負ったというのだ。


 芳檜や志津丸の助けもあり、何とか桜舞を連れて避難先まで逃げ込む事は出来た。

 桜舞も須佐の治療を受けて一命は取り留め、意識も先程戻ったらしい。


 ただし、今や残り少ない天狗の貴重な戦力は、当面一人分失われたと見るべきだろう。

 阿古も自分を責めて、到着以来落ち込みっぱなしだ。


「芳檜さん、負傷者はどんな具合です? ……瑞鳶ずいえんさんは」


 気休めになればと、阿古の前のテーブルにコンビニスイーツをそっと置いた上で根岸はたずねる。


「頭領の容態は安定してる。須佐だけでなく、雁枝かりえ様も治療にあたってるからな。流石にとんでもないぜ、もがりの魔女の術は。駄目かもしれんと思ってた怪我人たちも、ほぼ命は助かったぞ」


 吸血女としての、攻撃的な異能はほとんど衰えたと語る雁枝だが、結界術や怪異治癒術を使えば未だ一流である。

 彼女に言わせるとそれらは「永すぎる余生の中で暇に任せて身につけた、知識さえあれば使いこなせる手品のたぐい」だそうなのだが、とても手品の領域に収まるものではない。


 ただ、根岸には気がかりな点があった。


 天狗の里で戦いの最中さなか伽陀丸かだまるが放った言葉だ。

 雁枝の寿命はもう残り少ない。そう彼は告げた。

 こうして霊威を消耗し続ける事は、彼女の命を更に削りかねないのではないか――


「おや、志津丸。お前起きて平気なのかい」


 急に雁枝の声がして、物思いに耽っていた根岸はうっかりカレーパンを喉に詰まらせかけた。

 慌てて傍に置いていた水を飲む。こんな事で急患を増やしては洒落にならない。


「全然、どってこたねーよ雁枝ばあちゃん。寝過ごしちまった」


 炊事場から志津丸が出てくる。

 談話室にはまだ椅子もあるというのに、せっかちにも志津丸は立ったままうどんをすすっていた。


「そう」


 頷きつつ、雁枝は談話室内を見回す。


かして悪いが、志津丸、秋太郎しゅうたろう。食事が済んだら上の階に来てくれる? 秋太郎は血流し十文字も連れてね。三〇一号室だ」

「三〇一。瑞鳶さんの部屋ですね」


 パンを飲み下して根岸は応じた。


 このビルの一、二階はゲストハウスだが、三階から上は住み込めそうな造りの、家具付きの個室が並んでいた。ウィークリーマンションか何かだったのだろう。

 安静を必要としそうな重傷患者らはそこで休ませている。


「魔女のねえさんよ、あまり悠長にはしてらんねえぞ」


 談話室の奥のソファに陣取るハナコが発言した。


「敵に人狼がいる以上、この場所が嗅ぎつけられるのも時間の問題だ。何しろ奴らは鼻が利く」


 もっともな意見ではあるが、彼女もコアラのマーチを楽しげに食べているのでやや説得力に欠ける。


「勿論承知してるさ、ハナコ。でも、今しておくべき大事な話がある」


 雁枝の態度はいつもどおり飄々としていた。

 が、その声音にどこか決然としたものを感じ取り、根岸と志津丸は揃って顔を見合わせた。

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