第82話 灯火の尖塔へ (3)

 どっと噴き出た手汗でスマホが滑りかけ、諭一ゆいちは慌てて両手で握りしめた。


 次は『武蔵野むさしの市 警報』で検索をかけてみる。


「武蔵野――ぼくんちの辺りは、避難指示までは出てないな……渋滞してるけど、家が壊されたりはしてない」


 声に出して呟いたものの、一安心には程遠い。


「どうしよっ、てかミケちんやネギシさんは? しづちゃん……天狗の里、大丈夫なのかよ。大丈夫なわけないよな」


 ブルーに染めた長い髪を、諭一は無意味にぐしゃぐしゃと掻いた。


 ――東京に戻らなければ。ここからどうやって? 主要道に出てタクシーで駅か空港へ? 財布とスマホはあるから支払いはどうにかなるだろうが……いや、待て、根本的な問題として。


「東京に――帰ったとして、どうすりゃいいんだよ……!」


 諭一には怪異が憑いている。ある程度怪異を見慣れてもいる。

 だが、あくまで彼は一般人だ。ただの学生だ。


 確かに『灰の角』に取り憑かれた当初、超能力を得て変身出来るという異常事態に浮かれて、憧れのヒーローを気取ろうともした。

 しかしそれは、何もかもを甘く見ていたからだ。


 『灰の角』が暴走した時。ミケ達にそれを止められた時。つい先程、ブギーマンに襲われた時。そして――『灰の角』がブギーマンにとどめを刺そうとした瞬間。


 諭一は心の底から、怯えた。


 殺し合いなど冗談ではない。目の前で見るのも嫌だ。友人の安否確認すら、素人が出しゃばればプロの邪魔になる可能性がある。

 東京に帰ったとして、家に閉じこもって震えながら事態の収束を待つくらいしかするべき事はない。


 それならばいっそ、丸一日ばかり和歌山にとどまるというのも手かもしれない。多分、交通機関もダイヤが乱れているだろうから。それが良い気もしてきた――


「送れるっスよ」


 唐突に、辺路番ヘチバンが口を開いた。


 目まぐるしく考えを巡らせていた諭一は、「え、何?」とぼんやり問い返す。


「送れるんスよ、アンタを東京まで。ここらの餓鬼は、『餓鬼穴がきあな』って空間穿孔くうかんせんこうの異能を持ってんスわ。ブギーマンも多分その痕跡をこじ開けてここに出たんだと思うっス」

「空間……穿孔?」

「ワープ能力っつうか。まあ、ブギーマンみたいな瞬間移動とはちょっと勝手違うっスけど、東京まで三時間くらいかかるかなー。のぞみとか特急南紀よりは早いスね、ワイドビューじゃないけど」


 説明しながらも、辺路番は傍らの餓鬼たちに目配せをした。


 五、六人の餓鬼が心得た様子で互いに手を繋ぎ、輪を作る。

 『かごめかごめ』によく似た形で、小さな怪異たちはキャッキャと声を上げて輪になったまま回り始めた。


 『かごめかごめ』と異なるのは、輪の中央に誰もいないという点だ。

 しかしややあって、何もなかったはずの空間に何かが生じた。


 影――いや、穴だ。


 底も分からない深く暗い穴が、餓鬼たちの造った輪の中央、地面の上にぽっかりと開いた。

 拳大だった穴は見る間に広がり、人間の大人が潜るのに十分なくらいの直径となる。


「ほらね」

「すごっ。こ、この穴に飛び込んだら東京に戻れるの?」

「自力で何時間か歩く必要はあるっスよ。あと、たまに道に迷うっス」

「迷う!?」


 諭一は目を剥いて、辺路番の穴の開いた顔と地面の穴を見比べた。


「こんな真っ暗な穴の中で? イヤすぎるって!」

「あ、ジブンが道案内してもいっスよ。でもその場合、対価を貰う決まりっス」

「……Suicaとか使える?」

「いや、お金じゃなくて。それは国から出るんで」


 さらりと凄い発言をした上で、辺路番は続ける。


「餓鬼穴を通る人間から受け取らなきゃならないのは、魂の篭められた何か。それを道中の灯りにするんス。……そッスね、アンタから貰えそうなのは」


 にぃっ、と辺路番の大きな口が笑みの形に歪む。

 諭一は思わず後退あとずさった。


 ――魂を貰う? 悪魔との契約か何かか。寿命を縮められたりするのだろうか。


 辺路番は指をひとつ鳴らして言う。


「歌だな。アガるヤツ一曲欲しいっス、『ユイチ・エー』さん」

「は」


 目を瞬かせる諭一である。

 『ユイチ・エー』といえば、彼がYouTubeに歌や楽器演奏をアップする時のユーザーネームだ。


「ええ!? ぼくのこと知ってたの? 見てくれてるのあのチャンネル?」

「気づいたのは名前聞いた時っスけどね。顔出しにほぼ本名出しでやってんじゃないスか、スゲーな」

「その方が女の子からDM来るかなって……」


 会話する間にも、餓鬼たちが諭一の近くに集まってきた。

 諭一を囲んだ彼らは、期待に満ちた表情でパチパチと拍手をする。どうやら歌が始まると思っているらしい。


「待って待って。まだ歌うなんて言ってないし」


 慌てて諭一は両手を振った。


「帰んないんスか? 東京」

「帰るよ。帰るけど……今すぐ戻っても」

「天狗は大丈夫かとかって言ってたじゃないスか。アンタ、強い怪異憑きなんでしょ。心配な奴がいるなら助けに行きゃいいっしょ」

「簡単に言ってくれるよなあ」


 怪異は強靭な身体能力を宿し、親も子もなく、社会も法も気にする必要がない。

 だから気に入らない相手がいれば戦えば良いし、気に入った相手は一も二もなく助ければ良いのだ。


 諭一も人類の中ではちゃらんぽらんな方だという自覚があるが、そんな彼でも怪異ほど自由奔放には行動出来ない。


「たった今、母さんから『危ない所には行かないように』って言われたばっかなんだよ?」


 左手首の刺青タトゥーを見つめて、諭一は呟く。


「『灰の角』はどう思う? 曾祖父ひいじいちゃんならどうするかな」


 線刻状の刺青タトゥーが変形した。しばし迷うようなもやもやとした動きを見せてから、アルファベットの羅列を示す。


『灰の角の一族は、友を救い勇敢に戦うことを常に是としてきた』


 それからまた少し間を開け、次の文章がつづられた。


『しかし、お前もお前の母親も灰の角ではない。命を懸けなければ冬も越せず、子孫を残せなかった山の民ではない。祖先の生き方に囚われる必要はない』


 更にもう一文、『灰の角』は付け加える。


『わたしは既に亡き者、お前の意志がどうあってもお前の命を守ろう、血族よキンズマン


 諭一は深く息を吐いた。


 軽く挙手して、彼は餓鬼たちに顔を向ける。


「えー……とりあえず、一曲歌わせて頂きます」

「お、使うんスね餓鬼穴」

「分かんないけどさ」


 諭一は髪を掻き上げた。


「悩み過ぎて頭ヘンになりそう。歌でも歌ってさっぱりしたい気分、対価とか関係なく。ヘチバンもさっき考え事するのに音楽聴いてたっしょ」


 指摘されて辺路番は、首にかけたヘッドホンを手元でもてあそび、ポケットからポータブルプレイヤーを取り出した。


「ああハイ。気持ちはチョー分かるっス。ジブン、DJしましょっか?」

「いや、アカペラでだいじょぶ」


 人前で伴奏もなく歌を披露する機会は、今まであまりなかった。

 ただ諭一は、幼い頃からある歌を知っている。気分が晴れない時は何度となく、一人で口ずさんできた。


 父が東アメリカにいた頃に耳にして、現代音楽風にアレンジした、北米先住民のとある一部族の子守歌だ。


 軽く喉を整えてから、彼は歌い出した。


「ぼうや、どうしたの

眠れずにいるの

星の瞬くわけが、不思議なの

ではアナグマに聞いてみよう


ぼうや、どうしたの

眠れずにいるの

水底みなそこの深さが、不思議なの

ではハクトウワシに聞いてみよう」


 辺路番も餓鬼たちも、しんと静まり返って耳を傾けている。

 少しばかり気恥ずかしさはあったが、諭一は続けた。


「本当のことを知るものは

いつも遠い場所にいる

離れて、離れて、分かるもの


今はお眠り


明日昇るお日様の不思議を

夢が教えてくれるよ」


 メロディは伸びやかに冴え渡ったのち、子守歌らしく静かに、囁くように締めくくられる。


 歌い終えた諭一は、餓鬼たちに軽く一礼した。

 辺路番と餓鬼たちが、どこか飲まれたような顔つきで、改めて拍手をする。


「ヘェー……『ユイチ・エー』ってこんな歌も歌えるんスね」

「……良くなかった?」

「いや! バリ良かったっス。アガるとはちょっと違うけど、寧ろソウルはチョー宿ってたっス。対価には十分」


 辺路番が熱を込めて感想を述べたその時、思わぬ所から声が上がった。


「うぅ、うううぅ」


 諭一は驚いて声の方に目を向ける。


 餓鬼たちの下敷きにされているブギーマンが呻き声を上げたのだ。

 今までと違ってそこに狂暴な色はなく、苦しげという訳でもない。

 悲しそうな――どこか嘆くような。


「う、エ、える、だぁ」


 嘆きの声の合間に、そんな発音が漏れ出る。諭一はいよいよ目を見開いた。


「喋った? ブギーマンが」

「アンタの――歌に反応したんスかね」

「そんな、ぼくディズニープリンセス? 歌で怪物の心動かしちゃう系」


 適当な冗談を吐いてから、ふと諭一は考える。

 怪異には、ベースとなる生き物の魂がある。ミケがかつてそう言っていた。


 ミケや諭一であれば、無念のうちに命を落とした死者の魂がベースだ。

 ウェンディゴは、先住民族達の冬の飢餓への恐怖から顕現した。『灰の角』の場合はそこに、諭一の曾祖父の魂が融合している。


 では、恐らく北米大陸で顕現したと思われるこのブギーマンのベースとなったものは。


「――ひょっとしてブギーマン、この歌知ってた? 言葉分かる? あの……何族だったかなこれ歌ってたの、とにかくアメリカの先住民の人だったりしたの?」

「うぅ」


 また短くブギーマンは応じたが、肯定しているのか否定しているのか分からない。


「ブラザーズ、もう押さえつけなくていっスよ、そいつ」


 辺路番が穏やかに、ブギーマンを捕える餓鬼たちに呼びかけ、手を振ってみせる。

 餓鬼たちはそろそろとブギーマンから身を離した。

 ぼろ布をまとった三本腕の異形は、その場に起き上がったものの、辺路番と諭一を前にぼんやりと佇むばかりで最早暴れる様子はない。


「……ブギーマンのもとになるのは」


 と、辺路番は独り言のように言葉を紡いだ。


「祈り方も言葉も、民族の記憶も喪失した人間の無念の集合体……もしくは、それらを持てないくらいに幼くして死に、いたまれることもなかった子供たちの思念」

「えっ――」

「餓鬼とヒダル神も、同じようなモンっス」


 諭一は声もなく辺路番の横顔を見つめた。

 彼の周囲の餓鬼は確かに、子供のような外見と振る舞いではある。

 ブギーマンも今や、巨体を持つだけの幼児とも思えた。


「同じような……だから詳しいんだ、ブギーマンのこと」

「似た者同士、何かしてやれることねーかなって、アメリカ行くたびについ、ね」


 口元だけで、辺路番は笑う。


「アンタの歌、マジで良かったってことっスね。生前の記憶も言葉も理性も失くして……ワケ分かんねー恨みと憎悪だけの存在になって……それでも、何故だか子守歌には反応する。そういう事ってあるんスよ、餓鬼ブラザーズにも」


 そんなの真っ先に忘れた方が楽なのかもしれないけど――と、辺路番は付け加えた。


 死後も悼まれず、祈られず、祈り方も知らない亡者。子守歌を歌われた記憶の断片など、一時の慰めでしかない。

 それでも魂はその断片を捨てられない。


「辺路番」


 正面から向き直り、諭一は呼びかけた。


「なんスか、改まって」

「ぼく、すぐに東京に戻る。道案内っていうの、お願いしてもいいかな」


 辺路番の目のない顔が、少しばかり意外そうに固まった。


「いっスよ、対価も貰ったし。……何かやること出来たんスか?」

「うん――ブギーマンを止める」


 語尾は震えたが、それでもきっぱりと諭一は告げる。


「何ていうか、ミケちんが……あ、ぼくの友達のスッゴい強い怪異ね。彼なら大抵の怪異に勝てると思うんだけど。でもさっきの話を聞くと、あんま戦うところ見たくないっていうか」


 ミケや根岸、志津丸が今どうなっているのかは分からない。連絡も取れない。

 しかし、大事なものに危険が迫れば彼らは当然に戦おうとするだろう。

 人間側も、今頃は陰陽士や警察が出動しているに違いない。


 この事態において、一般人に過ぎない諭一に出来る事などほとんどない。そうかもしれないが――


「今ブギーマンに対してこんな気分になってる奴、日本中見回しても少ないっしょ。……だとしたら、ぼくにしか出来ない事があるのかも」


 そう語り終えてから諭一は、ブギーマンの前へと立った。

 布の破れ目から覗く、瞼のない濁った両眼と視線を合わせる。


「一緒に帰る? エルダーの所に行きたいんだろ」

「うぅ、う」


 恐る恐る、腕の一本に触れる。襲いかかってはこない。ブギーマンの眼は相変わらず不気味だが、それが濡れているようにも見えた。


「いやー、リスペクトっすわユイチ」


 辺路番が声を上げて笑った。周囲の餓鬼たちもそれにつられて、キャッキャとはしゃぐ。


「ヒダル神、雲取の辺路番……ウィズブラザーズ。キッチリ道案内させて貰うっスよ」


 背中に挿していたなたを引き抜き、前方へと辺路番は掲げる。

 その先には、漆黒の『餓鬼穴』がぽっかりと口を開けて待っていた。


「また危ない事になるかもだけど」


 と、諭一は左手首の刺青タトゥーに話しかける。


「子孫存続の危機ばっかでゴメンよ、曾祖父ひいじいちゃん」


 『灰の角』が答えた。


『誇りに思う』

「あんがと」


 一先ず背中を押してくれる存在が一人はいる。

 しかし、両親にはまた叱られるかもしれないな、と諭一は胸の内に密かに謝罪した。

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