第84話 灯火の尖塔へ (5)
ワンルームの備え付けのベッドには、予想どおり
「お、来たか。二人とも無事で何よりだ――」
上体を起こしかけた瑞鳶が顔をしかめた。志津丸が慌てて彼に駆け寄り、傍らに膝をついて片翼を失った背を支える。
「無理すんなよっ。師匠の方は無事じゃねえんだから」
「やれやれだな」
瑞鳶は苦笑を漏らす。
その前に、腰に両手を当てた雁枝が立った。
「良いのかい瑞鳶。これからする事は相当、お前の身に負荷をかけるんだよ」
「なあに、心配せんでくれ
不穏な会話に、志津丸は目に見えて狼狽する。
「な、何しようってんだよ雁枝ばあちゃん」
「志津丸。瑞鳶はお前に渡したいものがあるんだと」
「渡したいもの?」
志津丸は怪訝な顔で、雁枝と瑞鳶を見比べた。
瑞鳶は弟子に向かって落ち着いた声で語りかける。
「昔、話した事があるだろう。お前と同じ峠生まれの天狗……隠れ里の創始者の一人だ。奴から別れ際に、一つ預かりものをしたと」
心当たりのある話だったらしく、志津丸は大きく目を開いた。
「
「ああ、そいつだ。その二つ名で呼ばれると照れ臭がってたが」
あれを――と、瑞鳶は続ける。
「受け継いでくれるか、志津丸」
問いかけに対して、志津丸はしばらく答えられずにいた。
ややあって、彼は小さく首を振る。
「待っ……てくれよ師匠。それを継ぐって事は、頭領の座も継ぐって事になる。少なくとも他の天狗の里じゃそうだ。
「今回に限って言えば、もっと緊急措置に近いぞ」
と、志津丸よりも大分気安い調子で瑞鳶は応じた。
「
瑞鳶に視線を向けられ、雁枝がひとつ頷く。
「伽陀丸と……戦うための?」
「
志津丸は僅かに目を伏せたが、今度は強く
「いいや、それは覚悟出来てる。……ただ」
いくらか迷った末に、志津丸は言葉を吐き出す。
「オレは伽陀丸が変わるのを止められなかった。助けられなかったんだ。あんな近くにいたのに」
――人間の関係で言えば兄だ。
志津丸は伽陀丸についてそう語っていたと、根岸は振り返った。こんな事態など予想もしていなかった、数日前のことだ。
「それは――そんな風には考えるな。お前が背負うべき責じゃない」
「そうかな」
酷く複雑な感情の篭もる声色だった。
根岸には、伽陀丸という怪異の目的が分からない。彼は昔と比べてどう変貌し、今何を思っているのか。何故こんな真似をしているのか。
分かるのは、志津丸にとって伽陀丸は現在も家族だという事実のみである。
故郷を壊されようと仲間を殺されようと、どうしようもない感情だろう。敵と見做す覚悟を決めたとしてもだ。
「たとえ
志津丸は師に向かって訴えかける。
長い時間をかけて溜め込んでいた思いの数々が、勝手に零れ落ちていくかのようだった。
「誰がそんな奴を認めるっていうんだ――」
「あたしが認めるわよ」
不意に、根岸の背後から声が湧いた。
振り返ると、部屋の入口に
「桜舞! お前は身体を休めてろ……」
「悪いわね頭領、話聞いちゃった。このビル壁が薄いもんだから」
叱る口調の瑞鳶に対して桜舞はさらりと返し、しかしやはり傷が痛むのか、そこで浅い息をつく。
すると彼に変わって、芳檜が口を開いた。
「志津丸。今回俺達は、お前の判断と行動に救われた。そいつは皆が分かってる事だぜ」
「クエッ」
須佐も高く鳴いて頷く。
「お前に未熟なところがないとは言わねえさ。
……けど今この場で、頭領の力を受け継いで俺達を率いるのに
「芳檜……けど」
「はいはーい。おれもシヅマルのこと推薦する!」
開いた扉の陰からにゅっと上体を出したのは、チャチャイとリンダラーだ。
「チャチャイ――いやお前が推薦はおかしくね?」
「何よ。チャチャイに文句付ける気?」
と、リンダラーが後ろ髪を掻き上げて睨む。
「異国のゴタゴタに生首突っ込むつもりはないけどね。でもシヅマル、あんたはチャチャイを助けてくれた。あたし達やハナコがここにいるのはそれが理由。だから、あんたがこの戦いの指揮を執るのは寧ろ当然よ」
きっぱりと告げるリンダラーの更に後ろから、ハナコと
「あの魔眼の天狗との昔の話は――志津丸、お前自身の覚悟が決まってるっていうなら、そこで打ち止めだ。奴の真意だの事態の責任だのは、里が復興してから言い合え」
そんな風に語るハナコに向けて、瑞鳶は深く頭を下げた。
「
「ふん、よしな瑞鳶のおっさん。借りっぱなしほど尻の収まりの悪い話はねえんだよ」
ハナコはつんと鼻先を明後日の方に向けて、カルピスを一気に飲む。
肩口の包帯を押さえつつ笑いを漏らしてから、瑞鳶は改めて志津丸へと向き直った。
「さて、天狗の里は基本合議制だ。どう思うね、志津丸」
短い沈黙ののち、はあっ、と志津丸は息を吐く。続けて彼は、諦めに近い表情を浮かべて顔を覆った。
「……こういうのズルくね? 師匠」
「ズルいって言い草があるか。お前が集めた人望だ、観念しろ」
姿勢の維持が辛くなってきたのか、ソファに腰を下ろした桜舞がにんまりと笑う。
「あらやだぁ、志津丸ちょっと泣きそう」
「泣くかボケ!」
たちまち赤面して、志津丸は言い返した。
あえて口を挟まずに皆のやり取りに耳を傾けていた根岸は、志津丸が喚いている隙に雁枝の傍まで歩み寄り、小声で問いかける。
「雁枝さん。媒介役を務める、とは? ……貴方の体調は大丈夫なんですか?」
「うん?」
雁枝は意外そうに目を瞬かせた。
「ああー、伽陀丸が余計な事を言ってたからか。こんな程度で引っくり返りゃしないよ。心配いらない」
それから彼女は、『媒介役』について軽く説明する。要するに、瑞鳶が身中に封じている特殊な異能の力を志津丸に移す際の、パイプ役を務めるという事らしい。今の瑞鳶には力を発現させるにも補助が必要だ。
「それくらいはね。大昔、コマとミケの魂も繋ごうとした覚えがあるが、あれより大分簡単だ」
「そんなことが」
「呑気にあたしの心配なんかしてるけど秋太郎。お前にも別件でやって欲しい事はあるんだよ」
え、と根岸は面食らった。
確かに志津丸と一緒に名指しで呼び出されはしたが、てっきり立ち合い人でいれば良いものかと考えていたのだ。
「何のために血流し十文字を連れて来るよう言ったと思ってんだい?」
「十文字に、何か?」
「お前、ずっと話しかけられてるだろう。十文字から」
十文字の柄につと触れて、雁枝は言った。
またも根岸は戸惑うしかない。
「槍から……ですか?」
「
鈍く照明を反射する槍の穂、その表面に映り込む何かを見定めるかのように、雁枝は目を細める。
「少女……か? ずっと泣いているんじゃないか」
途端、根岸は息を呑んだ。
説明されてようやく思い出したのだ。
天狗の里の道場で、そして瑞鳶の屋敷前で。彼は唐突に意識を遠のかせ、見知らぬ少女の姿を暗闇の中に幻視した。
雁枝が今、槍の穂に見出しているのは、間違いなくその少女だ。
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