第84話 灯火の尖塔へ (5)

 雁枝かりえに連れられて、根岸と志津丸しづまるは三〇一号室を訪ねた。

 ワンルームの備え付けのベッドには、予想どおり瑞鳶ずいえんの姿がある。


「お、来たか。二人とも無事で何よりだ――」


 上体を起こしかけた瑞鳶が顔をしかめた。志津丸が慌てて彼に駆け寄り、傍らに膝をついて片翼を失った背を支える。


「無理すんなよっ。師匠の方は無事じゃねえんだから」

「やれやれだな」


 瑞鳶は苦笑を漏らす。

 その前に、腰に両手を当てた雁枝が立った。


「良いのかい瑞鳶。これからする事は相当、お前の身に負荷をかけるんだよ」

「なあに、心配せんでくれねえさん。どうにかなるさ」


 不穏な会話に、志津丸は目に見えて狼狽する。


「な、何しようってんだよ雁枝ばあちゃん」

「志津丸。瑞鳶はお前に渡したいものがあるんだと」

「渡したいもの?」


 志津丸は怪訝な顔で、雁枝と瑞鳶を見比べた。

 瑞鳶は弟子に向かって落ち着いた声で語りかける。


「昔、話した事があるだろう。お前と同じ峠生まれの天狗……隠れ里の創始者の一人だ。奴から別れ際に、一つ預かりものをしたと」


 心当たりのある話だったらしく、志津丸は大きく目を開いた。


旋風せんぷう志鷹しよう……」

「ああ、そいつだ。その二つ名で呼ばれると照れ臭がってたが」


 あれを――と、瑞鳶は続ける。


「受け継いでくれるか、志津丸」


 問いかけに対して、志津丸はしばらく答えられずにいた。

 ややあって、彼は小さく首を振る。


「待っ……てくれよ師匠。それを継ぐって事は、頭領の座も継ぐって事になる。少なくとも他の天狗の里じゃそうだ。鞍馬山くらまやまでも秋葉山あきばやまでも」

「今回に限って言えば、もっと緊急措置に近いぞ」


 と、志津丸よりも大分気安い調子で瑞鳶は応じた。


伽陀丸かだまるが宿した、ヴィイの魔眼に対抗するのに必要なんだが、わしの翼じゃもうあの力を現出させるだけの風を集められねえからな。受け継がせるにも、雁枝の姐さんに媒介役になって貰わにゃならん」


 瑞鳶に視線を向けられ、雁枝がひとつ頷く。


「伽陀丸と……戦うための?」

つらいか」


 志津丸は僅かに目を伏せたが、今度は強くかぶりを振ってみせた。


「いいや、それは覚悟出来てる。……ただ」


 いくらか迷った末に、志津丸は言葉を吐き出す。


「オレは伽陀丸が変わるのを止められなかった。助けられなかったんだ。あんな近くにいたのに」


 ――人間の関係で言えば兄だ。


 志津丸は伽陀丸についてそう語っていたと、根岸は振り返った。こんな事態など予想もしていなかった、数日前のことだ。


「それは――そんな風には考えるな。お前が背負うべき責じゃない」

「そうかな」


 酷く複雑な感情の篭もる声色だった。


 根岸には、伽陀丸という怪異の目的が分からない。彼は昔と比べてどう変貌し、今何を思っているのか。何故こんな真似をしているのか。


 分かるのは、志津丸にとって伽陀丸は現在も家族だという事実のみである。

 故郷を壊されようと仲間を殺されようと、どうしようもない感情だろう。敵と見做す覚悟を決めたとしてもだ。


「たとえ一時いっときでも……里を統べるあかしを手に取る資格なんか、オレにあるのか、師匠」


 志津丸は師に向かって訴えかける。

 長い時間をかけて溜め込んでいた思いの数々が、勝手に零れ落ちていくかのようだった。


「誰がそんな奴を認めるっていうんだ――」

「あたしが認めるわよ」


 不意に、根岸の背後から声が湧いた。

 振り返ると、部屋の入口に桜舞おうぶが立っている。自力で立つのは難しいのか、両肩を芳檜ほうかい須佐すさに支えられていた。


「桜舞! お前は身体を休めてろ……」

「悪いわね頭領、話聞いちゃった。このビル壁が薄いもんだから」


 叱る口調の瑞鳶に対して桜舞はさらりと返し、しかしやはり傷が痛むのか、そこで浅い息をつく。

 すると彼に変わって、芳檜が口を開いた。


「志津丸。今回俺達は、お前の判断と行動に救われた。そいつは皆が分かってる事だぜ」

「クエッ」


 須佐も高く鳴いて頷く。


「お前に未熟なところがないとは言わねえさ。加冠かかんの儀だってこれからだ。跳ねっ返りだった昔も知ってる。

 ……けど今この場で、頭領の力を受け継いで俺達を率いるのに相応ふさわしいのは、間違いなく志津丸、お前だよ」

「芳檜……けど」

「はいはーい。おれもシヅマルのこと推薦する!」


 開いた扉の陰からにゅっと上体を出したのは、チャチャイとリンダラーだ。


「チャチャイ――いやお前が推薦はおかしくね?」

「何よ。チャチャイに文句付ける気?」


 と、リンダラーが後ろ髪を掻き上げて睨む。


「異国のゴタゴタに生首突っ込むつもりはないけどね。でもシヅマル、あんたはチャチャイを助けてくれた。あたし達やハナコがここにいるのはそれが理由。だから、あんたがこの戦いの指揮を執るのは寧ろ当然よ」


 きっぱりと告げるリンダラーの更に後ろから、ハナコと阿古あこも顔を出した。阿古はまだしゃくり上げているが、一応泣き止んだらしい。


「あの魔眼の天狗との昔の話は――志津丸、お前自身の覚悟が決まってるっていうなら、そこで打ち止めだ。奴の真意だの事態の責任だのは、里が復興してから言い合え」


 そんな風に語るハナコに向けて、瑞鳶は深く頭を下げた。


戌亥いぬいのハナコ、それに異国のお二方。このたびは……痛み入る」

「ふん、よしな瑞鳶のおっさん。借りっぱなしほど尻の収まりの悪い話はねえんだよ」


 ハナコはつんと鼻先を明後日の方に向けて、カルピスを一気に飲む。


 肩口の包帯を押さえつつ笑いを漏らしてから、瑞鳶は改めて志津丸へと向き直った。


「さて、天狗の里は基本合議制だ。どう思うね、志津丸」


 短い沈黙ののち、はあっ、と志津丸は息を吐く。続けて彼は、諦めに近い表情を浮かべて顔を覆った。


「……こういうのズルくね? 師匠」

「ズルいって言い草があるか。お前が集めた人望だ、観念しろ」


 姿勢の維持が辛くなってきたのか、ソファに腰を下ろした桜舞がにんまりと笑う。


「あらやだぁ、志津丸ちょっと泣きそう」

「泣くかボケ!」


 たちまち赤面して、志津丸は言い返した。


 あえて口を挟まずに皆のやり取りに耳を傾けていた根岸は、志津丸が喚いている隙に雁枝の傍まで歩み寄り、小声で問いかける。


「雁枝さん。媒介役を務める、とは? ……貴方の体調は大丈夫なんですか?」

「うん?」


 雁枝は意外そうに目を瞬かせた。


「ああー、伽陀丸が余計な事を言ってたからか。こんな程度で引っくり返りゃしないよ。心配いらない」


 それから彼女は、『媒介役』について軽く説明する。要するに、瑞鳶が身中に封じている特殊な異能の力を志津丸に移す際の、パイプ役を務めるという事らしい。今の瑞鳶には力を発現させるにも補助が必要だ。


「それくらいはね。大昔、コマとミケの魂も繋ごうとした覚えがあるが、あれより大分簡単だ」

「そんなことが」

「呑気にあたしの心配なんかしてるけど秋太郎。お前にも別件でやって欲しい事はあるんだよ」


 え、と根岸は面食らった。

 確かに志津丸と一緒に名指しで呼び出されはしたが、てっきり立ち合い人でいれば良いものかと考えていたのだ。


「何のために血流し十文字を連れて来るよう言ったと思ってんだい?」

「十文字に、何か?」

「お前、ずっと話しかけられてるだろう。十文字から」


 十文字の柄につと触れて、雁枝は言った。

 またも根岸は戸惑うしかない。


「槍から……ですか?」

小袖こそで姿の」


 鈍く照明を反射する槍の穂、その表面に映り込む何かを見定めるかのように、雁枝は目を細める。


「少女……か? ずっと泣いているんじゃないか」


 途端、根岸は息を呑んだ。

 説明されてようやく思い出したのだ。

 天狗の里の道場で、そして瑞鳶の屋敷前で。彼は唐突に意識を遠のかせ、見知らぬ少女の姿を暗闇の中に幻視した。


 雁枝が今、槍の穂に見出しているのは、間違いなくその少女だ。

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