第79話 恩讐、峰々を穿ちて (10)

 「グルルルルッ!」


 すぐ近くの林の中で唸り声が上がった。

 ペトラが、あの医療所を襲撃してきた二体の人狼と戦っている。空には芳檜ほうかい桜舞おうぶの姿も見える。皆、負傷者や自身の怪我を庇いながらの戦いで、もう余裕がない。


 不時着したドクターヘリはというと、歪んだドアがどうにか中からこじ開けられたところだった。

 歩み寄りながら根岸は、槍先に自分のアウターを巻き付ける。血流し十文字の穂が生きた人間に触れると、呪いを振り撒く可能性があった。


「大丈夫ですか!? 患者さんは?」


 呼びかけて中を覗くなり、フライト・ドクターと見られるジャケットを着た男と鉢合わせる。

 その医師は顔を酷く擦りむいていた。混乱し、半ば朦朧とした様子ではあったが、どうにか彼は口を動かす。


「ぜっ、全員命に別状はありません……患者はまだ搬入してない……ただ」


 そこで根岸は、辺りに漂う異臭に感づく。

 油か何かの臭いだ。それに焦げ臭い。


「ひょっとしてオイル漏れが?」

「出火するかもしれない。早く離れないと」

「すぐ出て下さい! 掴まって!」


 慌てて根岸は医師に肩を貸し、強引に引っ張り出した。


「……あれ? あの、きみ体温は?」


 根岸に抱きつくような格好になった医師が、思わずといった口調で問う。

 幽霊の体表からは温度が感じ取れない。呼吸も脈拍も、生前の動きを模倣した疑似的なものだ。救急医療のプロならば違和感を覚えるだろう。


「あ、はい、僕幽霊です。気にしないで」

「……」


 相手は口をあんぐり開けて固まった。

 気にしないでというのが無茶な物言いなのは根岸も承知していたが、こちらもリアクションを気にしている場合ではない。


 続けてフライト・ナース、操縦士、と順番に降ろしてゆき、同時に根岸は周辺を見渡す。ブギーマンも人狼もそこらじゅうにいる。一体どこに逃がせば良いのか。


「ネギシ! どいてっ!」


 チャチャイの声が飛び、はっと我に返る。

 乗組員の最後の一人を支えていた根岸は、咄嗟に彼をヘリから引き離し、自分も地面に身を伏せた。


 直後、ヘリの後部が火を噴く。

 想像よりも遥かに凄まじい速度で炎は燃え広がった。焼け焦げた何かの部品がすぐ足元に飛んできて転がり、首裏に痛いほどの熱風を感じる。

 チャチャイが霧状のすだれとも呼ぶべき障壁を編み上げていなかったら、根岸も乗組員も火傷か怪我くらいはしていただろう。


「チャチャイ! 大丈夫!?」


 リンダラーが飛んできた。

 よりによって最もインパクトのある外見の怪異に急接近され、乗組員たちは一斉に「ギャアーッ!」と悲鳴を上げる。絶叫を背に浴びて、根岸は再び首を竦めた。


「おれはどってことないよリンダラー」

「流石あたしのチャチャイね! でもここも危ない。早く離れなきゃ……あっ、あたしの身体回収しないと」

「身体?」


 と根岸はたずねる。


「まさか首のない身体がそこらに放置されてるんじゃ」

「そんな真似しないって。戌亥小学校いぬいしょうがっこうの怪異たちが近くに待機してるの。メリーに預けてるわ」

「彼らが? ここに来てるんですか」


 驚く根岸に対して、リンダラーは生首を縦に振る。


「ハナコから伝言よ。『戌亥小のハナコ旗下二十名、および契約者リンダラー、チャチャイ両名は、高尾の志津丸しづまるの恩に報いる』」

「……オレの?」


 ぽかんと問い返したのは、噴き上がる炎を見て駆けつけてきた当の志津丸である。陸号ろくごうも後ろから走ってきた。


 ――そういえば、あの時の騒ぎを鎮めて彼らを助けたのは志津丸だった。


 根岸は学校の怪異の面々を思い起こした。


 新宿区特殊重要文化財、『怪談の学校』の世話役であるハナコは気性の荒い怪異だが、一方で情が深く義理を重んじる一面でも知られる。恩を返す機会を待っていたのだろう。


 そして、例の騒動の原因となったリンダラーとチャチャイは、謝罪の証としてハナコに何らかの形で使役される『契約の呪い』をかけられていた。

 今のタイミングで来日していたのは全くの幸運だったが、こうも迅速に飛んできてくれたのは、恐らくハナコの計らいのお陰だ。


「おれが合図を出せば、学校の怪異たちは一斉に動ける。ハナコは天狗の里の子供たちを心配してんだ。もし逃がすなら、隠れられる場所も用意してあるよ」

「逃がす――」


 腰を抜かしたヘリの乗組員を引きずりつつのチャチャイの提案に、志津丸はどこか切実な表情を浮かべる。炎に照らされる顔に影が落ちた。


「子供らだけじゃ済まねえ。この里は皆もう……」

「志津丸」


 低い声音に振り向けば、そこに瑞鳶ずいえんがいた。

 驚いた事に、須佐すさを伴って自力で立っている。


「師匠! 魔眼の毒は!?」

「雁枝の姐さんのお陰で、どうにかな」


 安堵と喜びに顔をほころばせかけた志津丸だったが、すぐさま彼は気づいた。瑞鳶の背に片翼が欠けている事に。


「そっ……その翼」

「切り落とした」


 さらりと瑞鳶は告げる。


「天狗が翼を失った以上、前のようには風を呼べねえ。千里眼も無理だろう。一兵卒としちゃあ、大分役立たずになっちまった」

「そんなっ――」


 言い募りかけて口を噤んだ志津丸は、僅かな間目を閉じ、また開いた。


「師匠。……この里を捨てよう」


 一息に志津丸は言った。

 根岸も、陸号も須佐も彼の顔を見つめる。


「これ以上ここでは踏ん張れねえ。でも、撤退ならまだ出来る。また皆で戻って来られる」


 志津丸の言葉に躊躇ためらいは見られない。だが彼が血を吐くような思いでそれを口にしているのは誰の目にも明らかだった。


 瑞鳶と真正面から向き合っていた志津丸が、耐えきれなくなったように顔を俯ける。

 そんな彼の肩に、瑞鳶の手の平が添えられた。


「志津丸――よう言った。いや、本来わしが負わにゃならん責務を負わせてしまったな」


 いたわるように何度か志津丸の肩を叩いた上で、瑞鳶はチャチャイの方へ視線を注いだ。


「すまんがそこの……四枚翅よんまいばねくん」

「ん、おれチャチャイ」


 空気を読んだのか、珍しくチャチャイが神妙な応答をする。


「チャチャイくんか。君ァ風や雲を編み上げられるようだが、その異能で声は運べるか?」

「出来るよ。合図もそれで出すつもりだった」

「よし、それじゃ里全体にこう伝えてくれ。――天狗の里を放棄する。戌亥小の怪異たちの誘導に従って撤退、『避難先』で再集合だ」


 避難先というのは無論、ハナコが用意してくれたという隠れ場所だろう。戌亥小の怪異たちならば把握しているはずだ。


「志津丸、お前は――」

「千里眼だろ」


 顔の血と汗を拭い、志津丸は先回りして答えた。


「里に残ってる天狗達の位置を探る。安全な逃げ道もだ。チャチャイ、敵にこっちの動きを知られないよう誘導どおりに声を届けてくれ。……そういうの出来るか?」

「んー、やってみる」

「志津丸、今のきみが千里眼なんて使ったら……」

「ぶっ倒れやしねぇよ陸号さん。大丈夫だ」

「さっきまで大丈夫じゃなかったじゃないか」


 陸号と志津丸が気忙きぜわしく押し問答を始める。言い争っている時間はない、と根岸は割って入ろうとした。

 しかしそれより先に、この場の全員を黙らせられる声がかかる。


「坊やども。方針は決まったのかい」


 雁枝である。


「この結界は長くはもたないと言ってるだろ。そろそろ限界だよ」


 『坊やども』は揃って大人しくなったが、雁枝を知らないリンダラーは軽く生首を傾げてみせた。


「ねえ、あいつら捕獲結界で動きの止まってる今の間にグサッとれないの?」

「そう強力な術じゃないからね。外から刺激するとすぐ壊れる」


 そう応じた上で雁枝は、にこりとリンダラーに、そして志津丸に笑いかける。


「しかし、その意気は良いねえ。志津丸も大した人脈を持ってるじゃないか」

「……褒めてくれるのはいいけどよ、雁枝のばあちゃん。オレはこの場を負けいくさにしたんだぜ」


 と、志津丸は自嘲ともつかない風に口角をひねった。


「そうは思いません」


 思わず、根岸は口走る。

 志津丸がはたと彼を見て、目を瞬かせた。


「まだ負け戦とは決まってないですよ。志津丸さんは今、これだけ味方に囲まれてるじゃないですか。せめて僕らが全員諦めてから負けを認めて下さい」


 言い終えないうちから、自分らしくない物言いだったかな、と根岸はかえりみる。柄にもなく夢中で喋ってしまった。さして戦力にもならない身の癖に。

 向かい合う志津丸はというと――ほとんど唖然としている。


「はっはは……志津丸、根岸くんが正しいぜこいつぁ」


 そんな風に笑い声を上げたのは瑞鳶だった。


「この際だ。全員で悪足掻きして、全員を無事に逃がそう。そっから先はまた考える」


 今度は背の翼を、先程よりいくらか景気良く瑞鳶にはたかれ、我に返った様子で志津丸は息を吐く。


「はーっ……やっぱ根岸、オメーって気に食わねえ奴」


 悪態をつく志津丸の声色には心なしか、いつもミケの前で示す不良少年のような尖りっぷりが戻っていた。


「じゃ、使うぞ千里眼。少し離れてろ」


 志津丸が短く告げ、薙刀なぎなたを両手の中に現出させた。ふわりと、周辺から風が集まる。


見出みいだせ、山風――!」


 虚空に向けて見開かれた志津丸の両眼が一瞬白く染まり、続いてオパールのごとく複雑な輝きを放ち始めた。


 一歩退がった場所で根岸は、ふと西の空を見つめる。

 もう陽が傾いていた。ミケや諭一と共に帰路につこうとしたのはまだ昼過ぎの事だったはずだ。かれこれ何時間も、腕時計ひとつ確認する暇もなかった。


 ――ミケと諭一は、無事でいるだろうか。今一体どこに。


 そんな考えが脳裏をぎる。


 信じるほかに出来る事はなかった。



 【恩讐、峰々を穿ちて 了】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る