第78話 恩讐、峰々を穿ちて (9)
金属の擦れる音、動力に異常な負荷のかかる音――
耳をつんざく轟音とともに空が割れ、虚空から巨大な影が出現した。
「んなっ……ヘリコプター!?」
白地に赤いライン。ドクターヘリだ。
恐らく高尾山中に怪我人が出たとの通報を受けて、駆けつけたのだろう。
そのヘリに、複数体のブギーマンがしがみついている。
とりわけ、プロペラの上に
他の個体より二倍近くも大きく、ほとんどドクターヘリの全長と同等である。そんな巨体のブギーマンが今まさに、回転しようとするプロペラを三本腕で押さえつけ、めりめりと音を立てて握り潰しつつあるのだ。
ヘリの操縦席には人間の男が着き、インカムマイクに向けて必死の表情で絶叫している。
声までは届かないが、彼が絶体絶命の状況である事は見れば分かった。
「ブギーマン……あれが『エルダー』か!」
「エルダー?」
国交のない連合国アメリカに多く棲まうというブギーマンの生態は、日本では知られていない。根岸が直接目にしたのも今回が初めてだ。
北米では年長者や部族の長老をエルダーと呼んだりするが、つまりあれがブギーマンの群れのリーダーだろうか。
しかし残念ながら、それ以上の問答の余裕はなかった。
「るぅうええええええッ」
ブギーマン達が一斉に吠え、ヘリコプターを地面に向けて投げつける。
十メートルを優に超える機体が玩具のように縦回転し、部品をばらまきながら落ちてきた。
「
突如、根岸の頭上から凛とした声が響く。
「志津丸さん!」
根岸は彼を振り仰いだ。
翼を羽ばたかせた志津丸は、虚空へ向けて
落下するヘリが、漁網にでも捕らえられたかのようにぴたりと空中で静止する。志津丸が風圧で押し止めたのだ。
「くっ……!」
止めはしたものの、これだけの力の行使は志津丸自身に強い負荷をかけるらしい。彼は重力に耐えかねたように急速に高度を下げ、何とか無事着地はしたが、そのまま数メートル、砂地に踵をめり込ませながらずるずると後退する。
そこに――背後から忍び寄るものがあった。
「後ろ! 危ないッ!」
気づいた根岸が叫ぶ。
双剣を逆手に構えた
「だから言ったのに。集中しろって」
志津丸の耳元に伽陀丸が囁きかける。
からかうような軽い声音とは裏腹に、志津丸の頸動脈を狙う刃の速度は恐ろしく鋭い。
志津丸は回避しようとしたが、彼はドクターヘリを受け止めている真っ最中でもあるのだ。動きようがない。
焦燥に見開かれた根岸のその目の中に、横合いからちかりと強い
「――!?」
思わず、根岸は両目を片手で覆った。光が目に入った途端、強い疲労と虚脱感に襲われたのだ。
握りしめていたはずの血流し十文字が、いつの間にか手の中から滑り落ちている。
この異変は根岸だけに起きている訳ではなかった。正面から光を浴びた伽陀丸は、咄嗟の判断かその場から大きく飛び
伽陀丸の双剣は、取り落とされたばかりか消え失せている。天狗の武器は自然の精気を物質化したものだから、つまり術が解けたのだ。
「
意外な程近くから声が上がり、根岸は目を瞬かせつつ声の元を辿る――そして、我知らず「わっ!」と叫んでいた。
「……ピー・ガスー……リンダラーさん!?」
辛うじてそう付け加える。
視線の先、空中に浮かんでいるのは、女の生首だった。しかも首から下には、人の臓物が丸ごとぶら下がっている。紅色の厚い唇に睫毛の長い悩ましげな目元と、顔立ちは文句なく妖艶な美女であるだけに、余計にショッキングなビジュアルだ。
「特殊文化財センターのネギシ、だったっけ?
タイ王国生まれの怪異、ピー・ガスーのリンダラーは根岸に向けて片目を閉じてみせた。
それに続いて、傾いた状態で静止するドクターヘリより更に高い上空から大音声が降ってくる。
「シヅマルーっ! 手伝うよーっ!」
竹細工を思わせる四枚の
リンダラーの伴侶、ピー・ガハンのチャチャイの姿があった。
「チャチャイ……っ!?」
ヘリを支える重圧に息を乱しながら、志津丸も目を丸くした。
「タグラーッ!」
高らかにチャチャイが吠える。彼の両腕と背中の四枚翅から、秋晴れの日のすじ雲のごとく細い霧状の物質が流れ出し、ヘリコプターを包み込んだ。
先程志津丸が繰り出した風にも、漁網のよう、という印象を抱いた根岸だが、こちらはもっとはっきりと網か籠を連想させた。
ピー・ガスーとピー・ガハンは
「るぐぅあああああっ!」
怒りの声を上げたのは、ドクターヘリにしがみつくブギーマンの群れである。
ひときわ巨大な一体はヘリに圧しかかったままだが、他の小型な数体は、一転チャチャイに狙いを定めて舞い飛ぶ。
「わぁヤバいっ! シヅマル、これ上手く着地させられる!?」
「お――おう、任せろ!」
未だ面食らいっぱなしといった様子の志津丸だったが、それでも彼はチャチャイに応じて体勢を立て直してみせた。
やや距離を取っていた伽陀丸もまたリンダラーの赤光の影響から抜け出し、再び双剣を現出させる。しかしそこですかさず、雁枝が短刀を掲げた。
「させないよ伽陀丸!」
キン――と硬質な、金属を弾いたような音が周囲に響き渡る。
伽陀丸と、空中を暴れ回る複数のブギーマンまでもがその場でぴたりと硬直した。
「捕獲結界か!」
伽陀丸が苦々しげに口走り、舌打ちをする。
「ちっ、『
「お前を閉じ込めるのは二度目だったか。全くおいたの過ぎる子だよ」
雁枝と伽陀丸が、冷たい視線を交錯させる。両者には面識があるらしい。しかもそれは良い思い出とは言い難いようだ。根岸はそう見て取った。
「音戸の雁枝。お前は」
ふと何かに気づいた様子で、伽陀丸が呟いた。
「九年前とは違う……いよいよ寿命が尽きつつあるな。眠りによる霊威の維持も意味を成さないくらいに」
「え――」
伽陀丸の言葉に雁枝は沈黙を返したが、傍で聞いていた根岸は少なからず動揺する。
――雁枝の寿命が尽きつつある。それは何度か耳にした話だ。しかし……
その時、ズシン、と重々しい音が周囲を揺るがし、根岸の思考を断ち切った。
志津丸とチャチャイが見事に、無事な状態でドクターヘリを地上へと下ろしたのだ。
「はぁっ……、空飛ぶのにいちいちクッソ重たいもん使いやがって、人間共はよ……!」
地面に突き立てた薙刀で体を支えて、志津丸は肩を上下させる。集中し過ぎたのか、鼻から血が滴っていた。
「志津丸さん!」
「オレぁ平気だ。根岸、中にいる人間を……」
ヘリを指し示したところで、志津丸がふらつく。陸号が駆け寄ってきて、「志津丸っ!」と彼を支えた。
陸号に志津丸を託し、ひとつ頷いて根岸はドクターヘリの方へ走る。
雁枝が『エルダー』と呼んだ巨体のブギーマンも、今は捕獲結界によって足止めされている。しかし、この無表情のブギーマンはじりじりと三本腕で虚空を掻き分けつつあった。
「気をつけな秋太郎! あのデカブツは異常だ」
短刀を掲げた姿勢で上空を睨みつけて、雁枝が呼びかける。
「『エルダー』にしたって……力が強すぎる! あたしの結界でもそう長くはもたないよ」
「……はい!」
貴方は大丈夫なのか――と、雁枝に向けて口を衝いて出そうになった一言を根岸は飲み込んだ。
この状況である。もう駄目だ、などと答える彼女ではないだろう。今はこの場を無事切り抜ける事に集中しなければならない。
――ミケと雁枝を、無事な姿で再会させなければ。
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