第77話 恩讐、峰々を穿ちて (8)
最早、屋内も全く安全ではなくなっていた。
ペトラに倒された二体の人狼は、呻き声を上げて
再び白狼の姿を取ったペトラに先導され、根岸は
屋内にいたのはほんの短時間だというのに、外の景色はがらりと、絶望的なまでに様相を変えていた。
そこらじゅうで木々が薙ぎ倒され、土砂崩れでも起きたかのように地面が荒れ放題となっている。家屋から煙が上がっているのも見えた。火災が発生しているのだろうか。
「
空中を飛んでいた
整えられていた髪は乱れ、頬と肩に傷を負っているが、一応は元気そうだ。
「須佐、無事だったのね! それに……あなたペトラさん? 『人狼ゲームを楽しむ人狼の会』の」
「お久しぶり桜舞、全く酷い再会になったもんね。おや、そっちの子は
「カァー」
桜舞の背にしがみついていたのか、彼の後ろから阿古が恐る恐る顔を出した。
「集落を守り切れなくなったから、子供達を里の外に逃がそうとしたんだけど」
と、桜舞は阿古の頭を撫でて息を吐く。
「駄目だわ、敵の数が多すぎる。一体どれだけ沸き出してんの?」
「報道もまだ臨時ニュースが出たばかりで、情報が錯綜してる。ただ――」
白毛に覆われた眉間に皺を寄せてペトラが答えた。
「ブギーマンと人狼を合わせると、少なく見積もっても三桁……最大で二百以上」
「二百っ……!」
思わずといった様子で芳檜が口走る。
「この里で戦える天狗の数はせいぜい四十だ。それも今、何人が無事でいるか」
「……『人狼の会』西東京支部の八名は高尾の天狗に加勢するよ。ただ、すぐに集められたのはわたしともう一体だけ」
「もう一体?」
根岸の問いかけに、ペトラは困り顔で頷いた。
「そう。あいつは喧嘩の方はからっきしだから、ここらに隠れてるよう言ったのに。
「ペトラさんっ!」
彼女の言葉が終わらないうちに、坂の上から男が一人姿を現し、こちらに駆けてきた。
年齢は四十絡みだろうか。柄物のシャツの上にエプロンを着けていて、どことなく昔ながらの喫茶店の店長のようだ。エプロンには『ROCK PAPER SCISSORS』とのロゴが入っている。
「陸号!」
ペトラだけでなく、芳檜と桜舞も唱和して名を呼ぶ。彼はこの場の全員と顔見知りらしい。
「勝手に離れてごめんよ、でも大変なんだ! あ、あの子の気配がして――まさかと思ってつい匂いを辿ったら――嘘だろ、こんな事が……僕はどう責任取れば!?」
ほとんどパニック状態で、エプロン姿の人狼、陸号はまくしたてた。
「落ち着きなさいな陸号。どうしたの」
ペトラに鼻先と前足でつつかれて、陸号は一旦深呼吸をする。それから彼は、今しがた駆け降りてきた坂道の先を指差した。
「
ペトラも含めた皆が、はっきりと顔を強張らせる。
それは想定したくもなかった事態なのだろうと、余所者である根岸にも容易に読み取れた。
直後――
「伏せろッ!」
芳檜が一声上げて、携えていた分銅鎖を大きく回転させた。
一瞬遅れて、通り雨のごとく無数の
警告に従い、須佐を庇う形で身を伏せていた根岸の視界に、ざっ、と砂利を踏む足が映る。黒い
顔を上げると、そこに男が一人立っていた。長い髪に半ばまで顔が覆われていたが、薄い笑みを貼りつけたその表情には明確な悪意が見て取れる。
「……っ!」
須佐の身体を後ろ手に押しやり、根岸は十文字を取って跳ね起きる。
しかし彼が体勢を整えるよりも早く、目にも止まらない程の速度で飛来する影があった。
「近づくな根岸っ!」
黒袴の男に肉薄した彼は、突風を伴って標的を斬り上げる。対する男の両手には、針のような形状の二振りの短剣が現れていた。双剣の柄近くで志津丸の薙刀がいなされ、火花が散る。
「こいつの刃は猛毒だ。
ほんの瞬きほど、志津丸は根岸達を振り返って安堵の表情を見せた。全員の無事を確認したのだろう。
その志津丸はというと、無傷ではない。額からも両手の甲からも、口の端にも血が滲んでいる。
彼は黒袴の男に向き直り、怒りに
「てめえ伽陀丸! オレとの勝負の最中だろうが、何のつもりだ!」
「そんな約束はしてないね」
伽陀丸――この男がそうであるらしい――は、鼻先で笑い飛ばす。
「志津丸、お前こそ。あっちを庇いこっちを気遣い、ちっとも俺に集中してないじゃないか。それにずっと焦ってるね、太刀筋が荒い。……瑞鳶様のタイムリミットが気になるのか?」
瑞鳶の名を出され、志津丸のみならず天狗の面々が一斉に反応した。
「頭領が――何ですって!?」
後ろから桜舞が詰め寄り、志津丸は肩で息を吐きながら答える。
「師匠も毒にやられた。けどまだ生きてる……! 屋敷の中庭にいる!」
クェェッ、と須佐が根岸の背で鳴いた。言葉は違っても
「ええ。行きましょう」
根岸は強く首肯して、須佐を背負ったまま走り出した。須佐もまた重傷患者なのだが、
「瑞鳶様の匂いは知ってる。露払いくらいはやるよ!」
陸号が根岸に先立ったかと思うと、狼へと姿を変えてみせた。ペトラより更に小型で、栗色の毛足が長く、鼻づらは丸みを帯びている。
「あっ、どうも……名乗るのが遅れましたが、根岸秋太郎と申します。幽霊です!」
どさくさの中で挨拶すらしていなかったと思い出し、根岸は走りながら頭を下げる。
「ああ、
陸号の方も四脚で駆けつつ、軽く首を傾げてきた。
どうやら根岸の存在は、人狼達の間で既に知られているらしい。どんな噂になっているのか少々気がかりだったが、その話題は後回しにするしかない。
ちらりと後方を振り返ると、志津丸は医療所の前に
相手の双剣には猛毒。加えてどうやら
しかも志津丸の方は、周囲の全てを守りながらの戦いだ。不利と見て間違いない。
可能な限り急ぐ必要があった。
◇
芳檜と桜舞による空中からの援護もあって、襲撃を受ける事なく根岸達は屋敷へと辿り着いた。
土足のまま廊下を横断し、中庭まで突っ切る。
「瑞鳶さん!」
中庭に建てられた
志津丸の言ったとおり、瑞鳶は生きてはいた。しかし彼の顔からは血の気が失せ、膝をついて片腕で社の壁にもたれる事で、どうにか身体を支えている。
「根岸くんに……須佐か。それに……驚いたな、君ァ陸号じゃないか」
苦しげに呼吸を乱してはいるものの、存外落ち着いた口調で瑞鳶は、駆け寄った一行を順々に見つめた。
「貴方が毒を受けたと、志津丸さんが」
「ああ、不覚を取った。毒の大元は片翼に抑え込んでるが……翼はもう駄目だし、全身にも回ってきてやがんな」
淡々と瑞鳶は説明する。見れば確かに、左の翼は地面に垂れて最早動かせない様子だ。その付け根部分からは今も血が流れている。
ただしどうやってか、彼は毒の巡りを一定量抑え込んでいると言う――人間には発想からして不可能な所業だし、一応怪異である根岸にも全く方法が分からないが。
「翼がもう駄目ってそんな……どうすれば?」
また人の姿に戻った陸号が、焦燥に横髪を掻く。
「処置方法はなくもねえが、しかし難しいか――」
「あたしが請け負うよ」
突如として、根岸のすぐ傍らから声が沸いた。
はっとしてそちらに顔を向けると、ずっと肩から提げていたキャリーケースの蓋が開き、一匹の三毛猫が上体を覗かせている。
「かっ、
この混乱に巻き込まれて以来、最大の驚きだったかもしれない。根岸は危うくキャリーケースを取り落としかけて、慌てて地面に軟着陸させた。
そこから雁枝はするりと抜け出し、ミケによく似た少女の姿を取る。足首まで丈のある、袖のゆったりした濃紺のワンピースは、根岸も見覚えのある彼女の気に入りの服だ。
「悪かったね秋太郎。長らく運んでくれたんだろ、ありがとう」
「いえそれは良い――んですけど、雁枝さんが目覚めたって事はミケさんに何かが――」
前回雁枝が目覚めたのは、ミケが戦いの中で、半不死の能力をもってしても全快の難しい傷を負った時だ。
彼女は眠りにつきながらでも己の使い魔の状態を把握している。
「あの子なら大丈夫。大分遠く離れちまって、苦労はしてるかもしれないが」
軽く北の空へと目を細めてから、雁枝は瑞鳶の方に足を進める。
「久しぶりだってのに、こんな形の再会になるとはね瑞鳶。あたしより先にお前がくたばりかけるだなんて、流石に予見出来ないよ」
「……面目ねえな、雁枝の
力なく瑞鳶は笑った。
「この始末、頼めるかい」
「後から文句を言うのはナシだよ」
「まさか。礼ならするが」
「
短い遣り取りの後、雁枝は袖口から奇術のように短刀を取り出した。
躊躇もなく、彼女は鞘から引き抜いたその刃先を瑞鳶の片翼の付け根に当てる。
まさか、と根岸が背筋を凍らせたのとほぼ同時だった。
庭の芝でも刈るかのごとくすっぱりと、雁枝の短刀が瑞鳶の翼を断ち切る。
「ちょっ――ええっ!?」
根岸の隣では陸号が、自分の手指でももがれたような顔色になっている。
当然ながら、翼を斬り落とされた背中からは多量の血が噴き出した。雁枝は流れ出る血に素手で触れると、口の中で小さく
ややあって、雁枝は瑞鳶の背後から数歩ばかり
「……ヴィイの魔眼に呪われた砂礫だ。こうして直接掴み取って解毒するのが一番手っ取り早い」
ふっ、と雁枝は手の平に残った砂粒を吹き消す。
血溜まりの中に沈む瑞鳶の片翼もまた、痕跡を残さず砂に還った。
そこで雁枝は、根岸と須佐へ視線を注ぐ。
「傷口は簡単に止血もしておいた。あとの治療は頼めるかい?」
「クエッ」
須佐が勢い込んで応じるので、根岸は急ぎ薬瓶を袋から取り出した。
瑞鳶は――流石というべきか、額に汗を浮かべてはいるものの、片翼を失う瞬間からここまで呻き声ひとつ漏らしていない。
ただ、根岸の持つ薬瓶を目にすると初めて痛ましげな眼差しになった。
「そいつは……甘柿の遺してくれた妙薬か」
「――はい」
「可哀想な事をした。
クゥ、と須佐が鳴いて首を振る。
「秋太郎、状況を教えてくれる? 眠ってると使い魔の様子以外は大雑把にしか把握出来ないんだ」
雁枝に請われ、根岸は須佐に薬瓶を手渡した上で彼女に頷いてみせた。
「はい。説明すると、今は天狗の里が――」
そこまで言いかけた途端、根岸は口を噤む。
周囲に異様な轟音が響き渡ったためだ。
音の源は――この場所の真上。空からである。
「……この里が大変なことに」
「それだけ分かれば十分だよ」
雁枝と根岸は、揃って里の空を見上げた。
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