第76話 恩讐、峰々を穿ちて (7)
ぞくりと、根岸の背筋に悪寒が走った。
山々に不可思議な響きがこだまするのを聞いたのだ。ホルンかトロンボーンあたりの音色に近いが、言いようもない敵意がその底に篭められているように感じた。
「……人狼の遠吠えだ」
根岸の肩を掴んで飛翔している
彼らは里の医療所へと急いでいた。山の斜面に築かれた天狗の里は勾配がきついが、面積はさほど広くない。飛んで向かえば数十秒の距離である。
「やっぱり機を伺ってたか。結界が消えたから、群れで突入してくる気だぞ」
「西東京支部の人狼達とは、長らく仲良くやってるのにねぇ。揉め事が起きれば共闘した事もあった」
隣を飛ぶ
「味方の時は頼もしく思えた遠吠えだけど。自分達が狩られる側となると不気味だわ」
「そう簡単に狩られてたまるか――」
憤り混じりに応じかけた芳檜だったが、言い終える前に突如「うおっ!?」と声を上げて空中で急旋回した。それに合わせて根岸も身体を引っ張られる。
ぐらつく彼の視界の端に、色褪せた大判の布と黒ずんだ腕が映った。
「ブギーマン!」
根岸は襲撃者の名を叫ぶ。
はっとして高空を振り仰ぐと、そこには戦慄する光景が広がっていた。
複数のブギーマンが里に向かって飛来しつつある。見える限り、軽く十体は超えているだろう。
「来たぞぉ! 構えろッ!」
芳檜の指示に、地上の天狗達もざわつく。
動揺はあったものの、彼らの対応は素早かった。弓矢や
「るぎぃええええっ」
「うわああっ!」
弓を現出させたものの、体勢を整えるのが遅れた天狗の一人にすかさず覆い被さったブギーマンが、三本の腕で彼の首を掴み、地面へと引きずり倒した。
しかし、その背に桜舞が追いつく。
「ナメた真似してんじゃないわよッ!」
彼は帯に挿していた
「ぎいいっ!?」
混乱したブギーマンが捕らえた天狗を手放したところで、桜舞は鉄の扇をその顔面に叩きつけた。
「やるな桜舞!」
芳檜が仲間に声援を送り、自身も分銅鎖を構える。しかし彼は片手で根岸を抱えたままだ。
「芳檜さん、僕を降ろして下さい」
と根岸は呼びかけ、前方を指差した。
「医療所は、あの建物ですよね? 僕が救助に行くので、貴方は皆に加勢を!」
「……分かった。気をつけろよお客人。雁枝様のことも頼む!」
根岸は未だ雁枝の眠るキャリーケースを抱えている。この状況で放り出す訳にはいかない。
芳檜は根岸を草むらに降ろし、自分はブギーマンの群れの方へと向かった。
キャリーケースを小脇に抱え、十文字槍も携えた根岸は、バランスが取りづらい。地面に降り立つなり転びかけたがどうにか立て直して、空から確認した医療所へと走る。
医療所は、普通の民家とそう変わりない大きさだった。
平時であれば、それほど大規模な設備は必要はないのだろうと根岸は思う。怪異は概ね人間より頑丈だ――無論、老いもするし不意の死も訪れるのだが。
「ご、ごめんください!」
無言で突入するのも
「……っ!」
直後に、絶句する。玄関の上がり
「しっかり! 助けに来ました!」
根岸は駆け寄り助け起こしたが、既に彼が虫の息なのは明らかだった。翼の付け根に刺し傷。鼻と口、両目からも出血した痕跡がある。
「お――奥に――」
辛うじて意識を取り戻した天狗は、細かく痙攣を起こしながらも廊下の先を指差し訴える。
「
「須佐さんが。無事なんですか?」
質問に答えはなかった。
根岸の腕の中から一人分の重みが消え去る。玄関の土間に羽根が一枚落ちて、それもすぐに薄れて見えなくなった。
まるで彼の存在そのものが、白昼夢に過ぎなかったかのように。
根岸は唇を噛み、廊下の奥へと視線を巡らせる。
そこは無人で、不気味なまでに静かだった。
ただ、家具が乱雑に引っくり返り、壊れた薬瓶の破片が散らばっている点からして、騒動があったのは間違いない。
壁と床に数か所、血痕が残っていた。しかし近づいた根岸の目の前で、それらは音もなく拭い去られる。
恐らくこの場には、他に何人かの天狗がいた。しかし皆手遅れだったのだ。
――これが怪異の死。
自分もいずれ……もしかすると今日にも、こうなる。根岸は強い霊威など持たない幽霊だから、もっと呆気なくうら寂しい最期を遂げるかもしれない。
そんな事を考えるなり、足元からじわりと恐怖が這い上がってきた。
しかしながら今の彼には、泣き叫ぶだけの余裕も
根岸は立て掛けていた槍を取り、再び足を進めた。
「須佐さん――!」
割れた陶器片を避けつつ彼は呼びかける。と、廊下の右手でごとりと物音がした。木戸の向こう側だ。
外れかけてがたつく引き戸を無理矢理こじ開けると、その部屋も荒れ果てていた。ベッドは斜めになり、その前に重たげな棚が半壊の状態で倒れ、上に毛布が引っ掛かっている。
物音は毛布の下から沸いていた。微かに呻き声も聞こえる。
慌てて布をめくると、覚えのある鳥面の天狗の姿がそこにあった。
「須佐さんっ!」
「クゥ……」
須佐が弱々しい鳴き声を上げる。脚が棚の下敷きになって、抜け出せないらしい。
「ちょっと待ってて。動かないで下さい」
血流し十文字を怒らせるかもしれないとは思ったが、他に致し方なく、根岸は槍の柄を
柄の先端を棚と床の隙間にねじ入れ、更に毛布を噛ませて、力任せに柄を押し下げる。
苦労はしたが、どうにか棚を反転させる事に成功した。
「大丈夫ですか?」
問い質すと同時に、根岸は須佐の容態を探る。
左脚は出血し、骨にも異常が出ているかもしれない。だが右脚は動かせている。何しろ脚部も鳥類に似て黄味がかっているので、変色具合が分かりづらいが、もう片脚ほど重篤ではなさそうだ。
他に大きな怪我は、ざっと確認した限りない。毒にやられた症状も見て取れなかった。
とりあえずもっと安全な場所に移そうと、根岸は
幸い、彼は他の天狗達より小柄だ。身体の構造が鳥に近いためか見た目より体重も軽い。担いで避難させる事は出来る。
「……コレ……」
不意に須佐が身じろぎ、ぎこちなく人語を発した。
「えっ?」
驚く根岸の前で、須佐は懐に抱えていたベロア生地の巾着袋を開ける。中から出てきたのは陶器の薬瓶だ。
「これは――」
「カンシ、ガ、ツクッタ」
襲撃を受ける前に、甘柿は薬を完成させていたらしい。
「カンシ、ハ――ブジ?」
ぜいぜいと苦しげな息と共に、須佐は言葉を吐き出す。
彼が人の言葉を喋るのには、かなりの体力を消耗するようだ。根岸は「無理しないで下さい」と背を撫で、しばらく迷った上で問いに答えた。
「甘柿さんは……皆に危険を報せに来て、そこで……」
覚えず声が掠れる。
須佐は覚悟の上の質問だったのだろうが、それでも耐え切れなくなった様子で涙を零した。力無く翼をばたつかせ、ウゥ、と呻き声を漏らす。
あの部屋で、身動きの取れない須佐は毛布に覆い隠されていた。彼は完成した妙薬を託された上で
「とにかくその薬、使ってみましょう。外傷に効くんですよね?」
広間まで須佐を運び出した根岸は、長椅子に彼を横たえて提案した。
彼は河童の妙薬による治療を受けた事がある。その妙薬は
甘柿があれと同等の妙薬を作り出せたとすれば、あるいは骨折も治せるかもしれない。
しかし根岸が薬瓶の蓋を開けたところで、須佐が首を横に振った。
「スコシ、デイイ。ニテキ」
「ニテキ……二滴ですか?」
促されるままに、根岸は瓶を傾ける。蜂蜜のようなもったりとした
薬剤が染みるのか、須佐は何度か短い鳴き声を上げたが、ややあっていくらか落ち着いた声音で、「ナオル」と呟いた。
「本当に? 良かった、すぐに避難させますから――」
床に落ちていた包帯を足に巻いて、根岸が須佐を再び抱き上げようとすると、彼はまた首を振る。
「クスリ、トウリョウニ、トドケル。トウリョウ、アブナイ」
「頭領……」
頭領
瑞鳶の屋敷には志津丸が向かった。しかし今、一体何が起きようとしているのか――
根岸が言葉を返そうとしたその時、玄関の方からただならぬ異音が飛んできた。
何かが砕け、壊れる音。恐らく、玄関扉がやられた。
「グルルルルッ」
低い唸り声と共に廊下へと侵入してきたのは、人間の背丈を上回る体高の狼。
それに、両側頭部から栗色の毛に覆われた耳を生やし、それと同じ色の長い髪を後頭部で束ねた長身の女である。
女はくんくんと匂いを嗅ぎ、傍らの狼に首を傾げてみせた。
「プリヴィデーニエ?」
――意味は分からないが、ロシア語だろうか。
狼と栗色の髪の女は短く囁き合い、それから揃って、ぎらりと根岸を見据える。
どちらも肉食獣の眼だ。形態は違えど同じ人狼であるらしい。
まずい、と根岸は狼狽するも、ここで自分だけが逃げれば須佐が犠牲になるのは確実だ。それはもっとまずい。やっとの事で一人救ったというのに。
半ば自棄気味に、根岸は槍を構える。
次の瞬間、女型の人狼が床を蹴り、人類を軽々と凌駕する跳躍力で根岸に飛びついた。
「ガアアアッ!」
槍を繰り出す隙など一切ない。目と鼻の先まで迫った彼女の口は耳まで裂け、鋭い犬歯が剥き出しになっている。
どうにか槍の柄で牙が首に食い込むのは防いだものの、相手は長く伸びた手指の爪を根岸の腕に突き立ててきた。
「うあッ!?」
破れた袖口から血が滴る。血の匂いにますます
――駄目なのか。
ほんの数秒時間を稼いだところで、やはり自分には誰も守れない。
絶望に瞼を閉ざしかけた根岸の耳に、新たな遠吠えが届く。
――……遠吠え?
根岸は声の方へ首を捻った。
灰色混じりの白毛の狼が一頭。裏口から入って来たのだろうか。根岸を襲う二体の怪異と対峙するかのように高々と吠え、こちらを目掛けて疾駆してきた。
巨体の人狼と比べるとその
「グゥゥ、ギャアアアッ!?」
巨体の人狼は悶え、その場に
白狼はくるりと身を翻し、人間の姿に
初老と呼んで良い年齢の、白髪混じりの
「全く、最近の若いお嬢さんは躾ってものがなってないね……おや」
肩口の埃と血飛沫を払った彼女は、根岸と須佐の方を振り返り、軽く目を瞠る。
「プリヴィデーニエ。貴方、ひょっとして
「かわり……? いえ、まあ、はい」
戸惑いながらも根岸は相槌を打った。状況が読めないが、この老婦人の人狼は敵ではなさそうだ。
ついでに推察すると『プリヴィデーニエ』とは、恐らくロシア語で『幽霊』あたりを意味するのだろう。
そこに、壊れた玄関扉を慌ただしく踏み越えて、芳檜が現れた。
「すまん、人狼を捕り漏らした! 無事かお客人ッ……」
口走ったところで、彼は手前に佇む老婦人に気づき、口も目もあんぐりと開ける。
「ペトラおばさん! 来てくれたのか! ありがたいが、どうやってこの里の危機を知ったんだ!?」
「何言ってるの芳檜。さっきから臨時ニュースで流れっぱなしよ、ほら」
ペトラと呼ばれた人狼は、スマホの画面を掲げてみせた。
『危険怪異発生! 八王子市高尾町全域に緊急安全確保!』
『ただちに命を守る行動をとって下さい』
画面の上下には赤いテロップで大きくそう表示されている。
そして動画の内容はというと――煙を上げて横倒しになったケーブルカー、タオルを口に当てながら逃げ惑う人々、泣き叫ぶ子供……。
「これは――」
根岸も芳檜も須佐も、愕然とするしかない。
事態はとっくに、天狗の里だけで収まる規模ではなくなっていた。
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