第75話 恩讐、峰々を穿ちて (6)

 山の斜面に築かれた天狗の隠れ里、その中でも最も標高の高い場所に位置する頭領屋敷。

 特徴的なコの字型をえがく屋敷の中庭には、やしろとも蔵ともつかない小さな建物が鎮座している。


 中に入れば、そこは四畳程度の土間となっていた。

 土間の中央には長い錫杖しゃくじょうが突き立てられている。そして錫杖を囲む形で、四枚の木板が立つ。板同士は縄で繋がれている。


 しんと鎮まった蔵の中で、瑞鳶ずいえんは錫杖の周囲を一回りばかり歩き、西側に位置する木板の前で立ち止まる。


「今回は西の結界を開ける」


 錫杖に向けて言い聞かせるように、瑞鳶はそう告げた。


志鷹しよう、お前の守ってきた場だ。大垂水峠おおたるみとうげの大天狗……」


 胡坐あぐらを掻いて座り込んだ彼は、ふと懐かしむように笑う。


「あの峠から生まれる天狗は、どういう訳か揃いだな。……さて、あいつはこれからどんな生き方をするやら」


 瑞鳶は目を閉ざし、瞼の裏にかつての親友の後ろ姿を見出す。

 共に天狗の里を拓いた仲間だが、のちに里との繋がりを断って、遠い人間の街で生きることを選んだ友。


 天狗が縄張りの山との繋がりを捨てるという事は、長寿をも捨てる事を意味する。


 あるいは、人間の生き肝なり怪異の生き血なり――他者の命を手当たり次第に己に取り込めば、寿命を延ばす事も可能だっただろう。

 しかし志鷹しようという天狗はその方法も選ばなかった。数十年程で命尽きる生涯を受け入れた。


 全てを捨ててでも同じ時の中で生きて、共に死にたい相手が出来たのだと志鷹は打ち明けた。相手の名を瑞鳶は知らない。種族も聞かなかった。


 ――引き止めたくなかったかと言えば嘘になる。未だにふと、彼がここにいてくれればと悔やむ事すらある。


志津丸しづまるもなァ。わしとしちゃあ長生きして欲しい。だがあの子は、他の怪異や人間に惹かれとる。ならば自分の好きなように生きて欲しくもある。……しかし、この里もまた儂にとっちゃ我が子だ。相応ふさわしい実力のある者に次代を継いで欲しい。あの子は……いずれ、お前も儂も超える大天狗になる」


 瑞鳶は目を開けた。今一度、口角を吊り上げてみせる。


「情けねえな。四百年も生きて、赤子みてぇな駄々っ子のままだぜ?」


 ひとり呟きながらも瑞鳶は、着々と結界解除の準備を進めていた。

 座り込んだ自身の周囲に、里から採取した砂を円状に落としていく。


 自分の周りをぐるりと砂のラインで取り囲む格好になった所で、彼は千里眼の異能を発動させた。


 山の上空に流れる風へと霊威を乗せ、里を覆う結界を俯瞰ふかんで視認する。不定形の結界の頂点を見出し、そこから西側に向けて、幾重もの幕をめくっていくイメージを構築する。


 ――「四枚重ねの風呂敷包み」と形容したら、格好のつかない例え方をするなと文句を言ったのも志鷹だったか。


 そんな記憶を浮かべかけた時、瑞鳶は視界に映る里の異変に気づいた。


 彼の視覚を乗せる風に、血が混ざっている。尋常な量ではない。何らかの毒素も感知した。そして更に――


甘柿かんしッ!」


 思わず瑞鳶は、声に出して叫んでいた。

 妙薬調合の名手である若天狗が、里の外れで息絶えるのをたのだ。風に吹き散らされた怪異の魂が、山へと還って行く。


 ――何が起きたというのか。


 ミケ達が交戦した人狼とブギーマン。それらの他の個体が里の近くに潜んでいる可能性は考慮のうちだ。

 しかしこの事態。敵は既に里の中に侵入しているということか。


 瑞鳶は手探りで自分の周りを囲む砂を掴んだ。結界の解除は進行し、西側は最早、完全に外界と通じていた。術を打ち止めにし、再度結界を張り直す必要がある。


 同時に、瑞鳶は医療所の方向へと千里眼を飛ばす。甘柿はそこで、柳葉りゅうようの治療にあたっていたはずだ。


 ここまでの彼は千里眼を発動させ、山風のせる景色に視界を明け渡しながらも、自身の近く、蔵の周辺の気配にも注意を払っていた。


 しかし、ほんの数秒間――


 術の中止と再構築、そして医療所にいるはずの天狗達の無事を祈る意思が、僅かながら彼を無防備にした。


「――……!?」


 頬に風が当たった。

 蔵の中に、瑞鳶以外の何者かがいる。


 即座に瑞鳶は、千里眼を中断した。現実の光景が目の前に戻ってくる。

 薄暗い蔵、錫杖、ごく細く開かれた扉の隙間から入り込む陽光。その陰に立つ人物が、こちらに凶器を向けている。


 二振りの両刃の短剣だ。剣よりも針に近い形状だろうか。身幅が狭く真っ直ぐで、刺突向きの武器に見える。


 瑞鳶は目を瞠った。相手の持つ武器に驚いたからではない。


 そこに立っていたのが柳葉だったからだ。


 根岸によって里に搬送されてきた時と変わらない状態である。翼が折れ、胴体に鋭利な爪で掻きむしられたような無惨な傷が走っている。血まみれの作務衣もそのままだ。


りゅう――」


 名を呼ぼうとして、瑞鳶はとどまった。

 この怪異は柳葉ではない。極めて巧妙に――瑞鳶ですら、里に担ぎ込まれた時には気づけなかったほどに――偽装されているが、微かに別物の霊威の匂いがした。


 それも、瑞鳶のよく知る天狗の。


「……伽陀丸かだまる


 穏やかとさえ形容出来る声音で、瑞鳶は彼の名を呼んだ。


 そこからの動作は反射のなせるわざに近かった。

 背に畳まれていた瑞鳶の翼の片方が、彼の身体を覆う形で瞬時に前方へ広げられる。僅かに遅れて暗がりの中、刃が閃いた。


 柳葉の姿を借りた怪異が突き出した短剣の刃先は、瑞鳶の翼の付け根近く、人間で言う上腕部を貫きすぐさま引き抜かれる。


「ぐっ!」


 痛みに短く呻きながらも、瑞鳶はその場から素早く飛び退いて距離を取った。相手もまた入口近くまで後退する。


 双剣を手の中で回して構え直すその怪異は、もう柳葉の姿を取ってはいなかった。

 黒髪を長く伸ばし、それで顔の右半分ほどが隠れているが、整った柔和そうな顔立ちは相変わらずだ。瑞鳶の記憶よりも身長はいくらか高く、恐らく現在の志津丸と同程度だろう。和装だが山伏装束ではなく、暗色の小袖と袴を着用していた。


 ……大きくなったな。


 そんな言葉が口を突いて出そうになり、流石に場違いか、と瑞鳶は思い直した。

 伽陀丸が里の掟を破るに至ったのは、自分が接し方を誤ったためだ。そういう反省が瑞鳶にはある。


「流石は大師匠おおせんせい


 伽陀丸が言った。心が揺らぐほどに懐かしい呼び方だ。


「これだけ入念に、一瞬の隙を作るために、散々苦労したっていうのに。なおも初太刀しょだちを防いでみせた。本当に貴方は……会うたびにプライド傷つけてくるなあ」

「柳葉はどうした?」


 会話には乗らない形で、瑞鳶は問い質す。

 伽陀丸が薄暗闇の向こうで笑った。


「同族を食らったのは実は初めてなんですが、それなりに美味いですね天狗は」


 予想された回答ではあったが、瑞鳶は絶望に両目を伏せる。

 柳葉に、あの真面目な青年に、あまりにも残酷な最期を遂げさせてしまった。


 そして、伽陀丸の踏み外した道は最早戻り難いところにある。

 かつて志鷹が選ばなかった手段。他者の命を奪い、己の内に取り込んで寿命を延ばし――故郷の精気の力を借りることなく霊威を蓄える。伽陀丸はその道を選んで生きてきた。


 そうやって顕現し続け、力を誇示する怪異は多い。だが大半は狂気と暴走の果てに破滅する。

 所詮は怪異も生き物だ。『殺し過ぎ』で均衡が保たれるようには出来ていない。


「さっきの姿。柳葉の重傷を負った状態も、血の匂いすらも再現していた……それほどの変身能力者シェイプシフターの異能を、天狗が身につける事はまずあり得ない。……伽陀丸、お前はまだとつるんでんのかい」

「ええ」


 思いのほかあっさりと、伽陀丸は認めた。


「俺に変化へんげの術をかけたのは、彼です。人狼にして稀代の変身能力者シェイプシフター霧中のイーゴリイーゴリ・ヴ・トゥマネ。自分が化けるだけならともかく、他者にも施せるようになったというんだから大したものですね」


 随分情報を開示してくるものだ、と瑞鳶は思う。

 何か他に狙いがあっての行動だろうか。例えば――経過観察のため。


大師匠おおせんせいは結局直接会ってないんでしたっけ? 彼の方も、あまり天狗の里には興味ないみたいで。もっぱら猫にばかり執着してますから……」

「伽陀丸」


 口上を遮った瑞鳶は、油断なく相手を見つめながらも自身の立ち位置をずらす。入口側を陣取られているのが手痛い。飛翔しようにも、大きな問題が起きていた。


 ――片翼が動かない。


 先程短剣の一刺しを受けた翼だ。掠り傷とは行かなかったが、骨や筋を断たれるのは回避したはずだった。にもかかわらず、身体の一部ではなくなったかのように麻痺している。

 それだけではない。片翼の傷からじわじわと全身に、重い疼痛とうつうが広がり始めているのを瑞鳶は感じ取った。


「その短剣、毒か」

「……回ってきましたか?」


 挑むような口調で、伽陀丸が問いを返す。


「この毒のことは、貴方も知っているはずです。の個体は最終的に大師匠おおせんせいが預かって、千里眼の霊威によって消滅させたと聞いた」


 無論、瑞鳶は伽陀丸の言う『あの時』の事を覚えている。彼が対峙した禍々しい呪物の事も。


「お前はまさか……『ヴィイの魔眼』を!」

かせました」


 短剣を握ったまま、伽陀丸は長い髪の右側を掻き上げた。

 隠れていた右目が露わになる。


 白目はなく、光も吸い込みそうな程の漆黒の眼球。ところどころにでたらめな絵の具を落としたように不明瞭な色が混ざっている。


「片方だけ。自分の眼球をえぐり出さないといけないので、なかなかしんどくてね。――連合国アメリカでは今、こういう技術が発達しつつあるそうですよ。怪異融合だとか何とか」


 流石に瑞鳶は愕然とした。


「何を考えてる伽陀丸ッ。あれは乱用すれば、その土地を丸ごと――」

「そう、この魔眼は土地をけがし毒に変える。そして俺は礫塵れきじん使いだ。……里の創始者の一角、旋風の志鷹とも……千里眼の瑞鳶とも違う、見下されがちな異能」


 と、伽陀丸は自嘲気味な笑みを零す。


「でも、魔眼の呪いに侵された土地から毒素の塵を抽出して、武器に篭める……そういう術なら、簡単に使いこなせました。そして俺はどんな怪異でも殺せる毒を手に入れた。初めてこの異能を誇れた」

「怪異の得手不得手えてふえてに優劣なんかねえ。何度もそう教えただろう」

「それは所詮、建前でしょう?」


 嘆息を漏らすしかない。


 伽陀丸が幼少の頃から、瑞鳶や遠い昔の怪異たちに、極端なまでの憧れを抱いているのは知っていた。


 丁度数日前、茶室で根岸に語ってみせた――気まぐれに人を捕って食い、弱者を罰する。昔々のお伽話に描かれたような恐るべき怪異に。


 伽陀丸は軽蔑する人間を、己の意のままに『罰する』力を欲していた。

 しかし、成長した彼に身についたのは礫塵れきじん使いの異能だった。

 優秀な使い手だったが、決して暴力や殺人向きの能力ではない。


  ……同じ峠で生まれ弟分となった志津丸に、瑞鳶以来と言われる風使いの才覚がそなわっていると明らかになって以降だろうか。

 伽陀丸は瑞鳶と距離を置くようになり、気性も落ち着いた。

 子供染みた異種族に対する優越感や、戻らない過去への妄執を捨てて、成長してくれたのだろうと考えた。


 しかしそうではなかった。思い込みからあやまちを犯したのは瑞鳶自身だ――そう気づいた時には手遅れだった。


「……。どこから……こんな事になっちまったんだかな……」


 踏み出しかけた足が上手く動かず、瑞鳶は片膝を土間につく。

 どんな怪異でも殺せる毒。そう誇った伽陀丸の言葉に嘘はなさそうだ。

 甘柿も恐らく同じ毒にやられている……他に一体何人の里の者が犠牲になったのか。


「伽陀丸……お前がわしを憎むのは分からんでもない。素直にくたばってはやる気はないが、好きに挑んでくりゃァいい。だが、里の者は……これ以上は」

「残念ながら天狗の里は消えますよ。間もなくね」


 また双剣を手の中で回して、淡々と伽陀丸は告げた。


大師匠おおせんせいがその末路を見届ける必要はありません。流石に俺だってそこまで酷な真似はしたくない……」


 双剣の一振りが逆手に持ち替えられる。

 慎重に、隙を見せる事なく伽陀丸は距離を詰めてきた。

 初太刀と同じく、狙うのは身を屈めた瑞鳶の首筋だ。


 酷な真似はしたくない、というのはきっと本音だろうと、この状況下で瑞鳶は可笑おかしみを覚えた。先刻も、本当は一撃で仕留めたかったのだ。


 停滞する蔵の冷えた空気を、細い刃が切り裂く。


 しかし次の瞬間、伽陀丸の双剣の立てる微かな音は、盛大な破砕音によって掻き消された。


 蔵の天井が上から破られたのだ。


「伽陀丸――ッ! てめえいい加減にしやがれえええッ!」


 激突、と呼ぶに近い速度で蔵の土間に降り立った、はねっかえりの弟子の大音声が、蔵の中央に突き立つ錫杖をも震わせた。

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