第80話 灯火の尖塔へ (1)
その
そこから分局までは人間の足で十五分程度だと、地元の
急ぎ東京へ戻りたいと気の逸るミケではあったが、闇雲に走り出す訳にもいかない。
彼は限界近くまで霊威を解放した直後で、更なる血肉への欲求を抑えるのに苦労していた。この上フルパワーで長距離を走るのは危険だ。
こういう時に怪異としての本能を落ち着けるには、主に二つの手段がある。眠るか、もしくは普通の猫らしい食べ物を摂るかだ。
しかし眠りに落ちるには時間が惜しい。
そこで堀田に
すると、分局に行けば複数種類の用意があると言うのである。
「さすが、猫又分局……」
猫の姿で分局の建物へと足を踏み入れるなり、ミケは感心して二本の尻尾を立てた。
分局といっても、要は山小屋である。小ぢんまりしたログハウスで、壁にも
その壁際の棚に、キャットフードが勢揃いしていた。
ドライからウェット、シニア向け、猫用ミルクまである。
「猫又山には、そちらの
ヒーターのスイッチを入れて堀田は語る。
そちらの、と彼が手のひらで示した先、ヒーター前のラグの上には黒い猫又の
「人間とのトラブルや暴走を防ぐための備えがここに揃っとるがよ。暴れ出しそうな怪異も、普通に生きとった頃を思い出させてやってよう言い聞かせれば、大体は大人しくなるもんでな。大袈裟な
地方の怪異対策局は、怪異より懐具合とのせめぎ合いが大変だと堀田は笑った。
陰陽士にも色々なタイプがいるが、幸運にも堀田は無闇に怪異と事を構える人間ではなさそうだ。禍礼との関係も明らかに良好である。
外見こそ山男風でいくらかワイルドだが、恐らく難しい仕事を細やかにこなしてきた経験があるのだろう。
ミケはそんな人物評を「ニャア」と鳴き声に乗せて、棚に並ぶキャットフードから気に入りのブランドを選ぶ。
ミケの味覚は、猫の姿でいる時は猫の食事の方が
一方、猫形態で玉ねぎやチョコレートを食べても死にはしないが、美味とも感じられない。人間形態時の好物である酒もそのつまみも、何が美味いのか分からなくなってしまう。
それでは日々の楽しみが減退するし、
が、キャットフード気分になる時も一応あるのだ。好きなブランドもある。カツオの旨味を味わえるものが特に良い。
「これけ?」
堀田はミケが前足で指したフードを器に盛って、そこで禍礼の方を振り向いた。
「禍礼さんもここで食べてくかね」
「うんうん。堀田、気が利くにゃーん」
ヒーターで背中を温めていた禍礼が、ぽんと一っ飛びにミケの隣へ着地する。
早々にドライフードをぱくつき始めるミケに、禍礼はゴロゴロと喉を鳴らして頬を擦りつけた。
「ミケ、一緒にあれやるにゃーん。一つのクリームソーダに両側からストロー刺してぇ……」
「カリカリをどうやってストローで吸うんだ」
「禍礼さん、器なら別に用意するがよ」
「いらないにゃーん。ミケと一緒のがいいにゃん」
「いや、自分の皿で食ってくれ」
淡々と自分の食事を続けるミケだったが、放置しているうちに禍礼はいよいよ興奮し出した。ミケの背に
「乗るな、オスメスが逆だ! 逆でも困るがフシャーッ!」
首に歯を立てられ、ミケはつい威嚇の声を上げた。
背中から振り落とされた禍礼は、我に返って数瞬ぽかんとしてから、両耳を垂れさせた。
「ごっ……ごめんにゃーん。まにゃにゃ、うっかりやり過ぎにゃん……」
自身の失態にしょげてしまったらしい禍礼は、大人しく堀田が差し出した自分の皿の前で
「あのー、私には猫同士の機微ちゅうもんは理解しきらんのですけど……」
禍礼の皿にフードを注ぎながら、堀田がおずおずと声をかけた。
「出来れば穏便に、ね? ここはひとつ」
「……ああ、そうだな。人ん
と、ミケは気まずくなって後ろ足で頭を掻く。
何も禍礼を邪険に扱いたい訳ではない。
積極的過ぎるアプローチには正直閉口するが――彼女の事情も、ミケは知っている。
◇
禍礼は生後八ヶ月ほどで死に至り、その直後猫又として顕現した怪異だ。
猫又に顕現するには、その猫自身が生前のうちに一定の霊威を身に宿していなければならない。これは生まれ持った体質次第といえる。
更に、死んでから化けるまでの間に、周辺から他の死者の思念や自然界の精気を取り込めるような環境が必要だ。
一個体のものにとどまらない混然とした魂の集合体、これが『幽霊』と『妖怪』を区分けする。一般に妖怪の方が、異能を使いこなす強力な怪異になりやすい。
例えば、ミケの姉である猫又コマ。
彼女は猫又を生み出しやすい血筋に生まれ、しかも代々住み着いていたのは墓地である。化けるにはうってつけの環境だった。
では、禍礼は何故『化けた』のか。彼女自身に適性があったためでもあるだろう。しかし他にも要因はあった。
彼女はとある別荘地に程近い山の中に捨てられ、そこで野犬に噛み殺されて死んでいる。
いわゆる『サマードッグ』の猫版だ。
長期休暇をリゾート地で過ごす旅行者が、その際の暇潰し相手としてペットを飼い、休暇が終われば置き去りにする。ペットは飢え死にするか、運が良くとも野良化して現地に被害をもたらす。それを『サマードッグ問題』と呼ぶ。
彼女を殺した野犬もまた『サマードッグ』だった。
禍礼の死体の周囲には様々な小動物の骨が散らばっていた。仔犬に仔猫に爬虫類。捨て置かれたペット達の
動物達の無念から成る霊威を取り込んで、禍礼は強力な猫又として顕現した。
自分を殺した野犬を群れもろとも全滅させ、自分を捨てたかつての飼い主の匂いを追って山を駆けた。
主要道路に出た禍礼は、目につく車を片っ端から蹴散らそうとする。あわや大惨事――という所で彼女を止めに入ったのがミケだった。
正確には彼だけではない。その時ミケは、珍しく
雁枝と猫又の力を借り、陰陽庁の出動前にどうにか禍礼の暴走を抑え込んだものの、今度は別の問題が生じた。
生後八か月、生まれて初めての発情期の最中に無念の死を遂げ怪異となった禍礼は、これまた初めて対面する若いオスの猫又、つまりミケに一目惚れしてしまったのだ。
しかしミケの方は、メスの猫に発情出来ない。
怪異は生殖能力を持たないため、性に関する本能や感情はあくまで生前の
ミケは本来メスとして生まれるはずの三毛猫だし、生前から身体が弱かった。だから怪異化は関係なく、元々生殖能力を欠いていたのではないかと彼自身は推測しているのだが、ともあれ、禍礼の気持ちはどうにも受け入れようがないものだった。
どのみち残酷な事実として、繁殖は不可能なのだ。
結局、復讐も果たせず失恋までして失意に沈む禍礼を引き取ったのは、山の主たる老齢の猫又だった。
彼女は新たな弟子に『
そんなばつの悪い出逢い以降、北陸にはなるべく近づくまいと、旅行嫌いをエスカレートさせたミケなのだった――
◇
五十年前の記憶に思いを馳せ、ミケは軽く溜息をつく。
禍礼は怪異化するには若過ぎた。本来そうなるべき個体でもなかった。人災といくつかの偶然が重なって、望まず、望まれもしない身として顕現してしまったのは、ミケも同じだ。
彼女が現在、暴走せずに安定した暮らしを送っているのは、既にこの世にない先代猫又山の主のお陰でもあるし、彼女自身の努力による所でもある。
しかしベースが永遠の若猫である以上、羽目を外しがちなのは致し方ない。
「禍礼。お前さんにも、久しぶりに会ったってのに見せる態度じゃなかったな」
鼻先で餌皿を禍礼の隣に押しやると、禍礼は顔を上げて目を瞬かせた。
「ミケ、怒ってないにゃん?」
「怒っちゃいない。首を噛まれるのは勘弁願いたいが」
「もうしないにゃーん」
いくらか安堵した様子で、禍礼は顔を近づけてきてふんふんと匂いを嗅ぐ。
堀田はというと、所在なく二匹の猫から距離を取っていた。
「どうすんがいけこの空気」
そうぼやいて彼は、リビングでテレビの電源を入れる。
途端、切迫した音声が小屋の中に響いた。
『――引き続きニュースをお伝えします。本日午後二時、東京都八王子市高尾山付近で発生した危険怪異の大量顕現について……』
「あっ――な、なあミケさん。あんたの言うてた話、ニュースになっとんがいぜ!」
堀田が泡を食ってリモコンでテレビ画面を指し示す。
『……八王子市全域に緊急安全確保、
ミケは一つ顔を拭うと、人間の姿を取ってテレビの前に立った。
画面には横倒しになったケーブルカーと、充満する煙。
パニックになった人々が坂道を駆け下り、「押さないで! 慌てずに!」と警備員や警官が声を張り上げている。
突然カメラが大きく揺れ、「おいあれ!」と画面端から入り込んだ腕が空を指差した。
空を漂う色褪せたぼろ布――ブギーマンだ。雲間から突然湧き出したかのようなそれらは瞬く間に数を増した。群れは五十か、いや六十か……続々と増え続ける。
「なっ、なんて数! にゃーん!」
禍礼もまた獣耳の生えた人の姿で、ミケの腕にしがみつく。
「ミケ、あそこに……戻る気にゃん?」
「ああ」
答えるよりも先に、ミケは
一刻も早く帰らなければ。事態は予想より深刻だ。
この分局に到着する前に、一度根岸に電話をかけたが出なかった。恐らく取り込み中という事だろう。
「腹ごしらえは十分。本当に世話んなったよ、堀田さん。遅くなるかもしれんが後で礼はする」
「
椅子の背もたれに掛けていたジャケットと登山帽を手に取り、堀田は急ぎミケに追いつく。
「どういうルートで東京に戻るんがけ?」
「……あんま道には詳しくないが、とりあえず西に真っ直ぐ行ったら富山市街だろ? あとは――」
「そいなら空路がええ。まだ東京行き最終便に間に合うか……」
堀田の取り出したスマホを覗き込むと、『富山きときと空港時刻表』とある。
「これなら、道路を無視して全力で走れば間に合うな。ちっと通行人を驚かせるかもしれんが」
「待って。ミケは体力を温存するにゃーん! ここはクロネコまにゃにゃが宅急便するにゃん!」
びっ、と大きく片手を挙げてみせる禍礼に、ミケは視線を注いだ。
「禍礼が――俺を運ぶってことか? しかし……」
「まにゃにゃはこれでも有名YouTuberにゃーん。ちょっと街を跳ね飛んでも地域の皆さんは慣れっこにゃーん」
「それ迷惑系に片足突っ込んどらんか?」
「いいから!」
再度、禍礼はミケの腕を両手で取る。
「ミケを忘れられないのは、恩返しのチャンスがなかったせいでもあるにゃーん。怪異は好きに生きていいけど、恩義と契約には忠実であれっておばあちゃんも言ってたにゃーん」
おばあちゃん、と彼女が呼ぶのは、先代猫又山の主の事だ。
「……分かったよ」
眉尻を下げ、いくらか物思いつつも、ミケは彼女の案に乗った。
「やったにゃーん! これより猫又山の毛勝禍礼、ミケに嫁入りするにゃーん!」
「おい」
「あ、間違えた。ミケに加勢するにゃーん」
どんな言い間違いだ、との言葉は飲み込んで、ミケは彼女が運搬しやすいよう、再び猫へと
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