第72話 恩讐、峰々を穿ちて (3)

 フゥーッ、と『灰の角』が息を吐く。超低温のその吐息が空気を氷の粒へと変え、繊細な音を立てて辺りに散りばめられる。

 『灰の角』の内部から間近でそれを眺める諭一ゆいちは、綺麗だな、とつい呑気なことを考えた。


『――いっけね。ぼくも集中しないとだよね?』


 すぐさま慌ててそんな風に問いかける。

 身体の主導権を『灰の角』に預けているので口は動かしていないが、意志は通じる。エスパーにでもなったような、何とも不可思議な感覚だった。


『そうだ』


 と、『灰の角』は左腕に英文をつづって応じる。彼は更に続けた。


『空腹に備えよ。。頼むぞ血族よ』


 意味の取れない文字の羅列に、諭一は『なんて?』ときょとんとする。

 直後、『灰の角』がその場を飛び退すさった。

 一瞬前まで彼のいた場所の地面が、黒ずみ歪んだ腕によって大きく抉られる。言わずもがな、上空から一直線に仕掛けてきたブギーマンの攻撃だ。


「ぅるぎぃいいぃぃいっ」


 先程よりも不安定な声音で、ブギーマンが吠えた。布を被った頭を苛立たしげにぶんぶんと振る。諭一を始末出来なかった事に怒っているのだろうか。


 再び布を翻して飛びかかってくるブギーマンに対して、『灰の角』は迎撃体勢を取った。

 日本刀とほぼ同等の長さを誇る牡鹿の角が風を切って突き出される。相手は寸でのところでそれを回避する。

 宙へと浮き上がったブギーマンは、巧みに身をかわしながら背後に回ろうとした。その挙動に鋭く反応し、『灰の角』は振り向きざま、掬い上げるような鉤爪の一撃ではためく布の裾を切り裂く。しかし手応えありとはいかなかった。


『あっちだけ空飛べるってのはズルくない!?』


 人間の動体視力では追えなくなってきた両者の攻防のさなか、諭一は意識だけで抗議する。

 すると、樹上まで浮遊したブギーマンを見上げて『灰の角』が高く雄叫びを上げた。


「グオォォォォッ!」


 自分に賛同して文句でも言ったのか、と一瞬驚く諭一だったが、そうではなさそうだ。『灰の角』が叫ぶのと同時に、音波以外にも何らかの不可視の波が周囲へと拡散されたのを感じた。

 そしてその波を浴びたブギーマンが、がくりとぎこちない動作で高度を下げる。上手く風に乗っていた凧が、突如として骨を破損させたかのようだった。


『……何、これ――!?』


 諭一の意識にもまた、異変が起きていた。

 両肩にどっとしかかる疲労感、そして飢餓感。

 喉がからからに乾いている。水が欲しい、食べ物が欲しい。足元に転がる落ち葉や木の皮にすら食欲が湧き上がる。頭がどうにかなりそうだ。


『あ……! これ、ウェンディゴの異能、ってやつ……?』

『そうだ。感覚を狂わせ……冬の飢餓の恐怖を今そこにあるかのように思い起こさせる力。憑依先であるお前にも影響が出る。だが耐えてくれ』

『ひょっとして、ぼくが踏ん張れなきゃまた例の『暴走』って状態に入っちゃう?』

『可能性はある』

『あーもうっ。備えよってそういう意味か』


 もう少し分かりやすく教えてよ、とぼやきながらも諭一は、意識を散らさないよう呼吸を整えにかかる。


 先程、『灰の角』の精神に曾祖父の気性を見出した諭一だが、思えば先祖の魂は、この複雑な出自のウェンディゴを構成する一部分に過ぎない。

 身体を共有しているのは諭一だ。

 ならば、彼のコントロールを務められるのは諭一の他にいない。

 再びウェンディゴの暴走を許す訳にはいかない。


『大丈夫。ネギシさんに噛みつくのも、ミケちんに殴られるのも、もう二度とイヤだからさ……!』


 姿の見えない仲間達の身を案じつつ、諭一は今ひとりきりの相棒に呼びかけた。


 ブギーマンの方はというと、ウェンディゴの異能の波を浴び、もがき苦しみながら空中を蛇行した末、ついには地面に落下した。三本の腕が地面を掻き毟り、口元に空いた布の穴から唾液がだらだらと零れる。


『エグっ……てか、怪異にも効果あるの? ウェンディゴの飢餓の力って』

『上手く機を狙い、隙を突けば。腕力の振るい方ととそう変わらない』


 淡々と英文を表示させる『灰の角』の左腕、その先端の鉤爪が力強く広げられた。

 彼はブギーマンを許さない。とどめを刺し、殺すつもりでいる。

 諭一は意識下でこっそりと息を呑む。とっくに抜き差しならない命の遣り取りになっている事は知っている――知ってはいるが、そんな現場に彼はまるで慣れていないのだ。


 『灰の角』が大股に一歩、ブギーマンに近づいた時だった。


「マジっスかぁ? 同類の力かと思って駆けつけてみたら、なんか全然知らない怪異が喧嘩してんスけどぉー……」


 唐突に、明後日の方角から聞き覚えのない声が上がる。

 声の元に視線を注げば、鬱蒼とした森の中、苔むした大岩の上に、少年が一人ぼんやりと突っ立っていた。


 岩に生えた苔とよく似た色合いのパーカーを着てフードを深く被り、だぶついた印象のハーフパンツを履いている。首元にはヘッドフォンを提げ、とても山歩きに相応しい装いとは言えない。

 フードのせいで顔がはっきり見えないが、年齢は中学生くらいだろうか。


「こ、子供!? ちょっと、危ないよキミ!」


 咄嗟に諭一は、『灰の角』の姿のまま喉と口だけ主導権を戻し、言葉を発した。


『違う』


 『灰の角』が警告めいた大きな文字で告げる。


『あれは怪異だ』

『怪異?』


 問い返すその間にも、少年はぽいと岩から飛び降りてこちらへ歩み寄ってきた。パーカーのフードの下から顔が覗く。


「ひえぁっ!?」


 うっかりと現実で素っ頓狂な悲鳴を上げてしまい、諭一は急ぎ声の主導権を『灰の角』に明け渡した。

 しかし、これは声も出るというものだろう。


 苔色のフードの下から現れた少年の顔面。目鼻のあるべき位置に、ぽっかりといびつな形の暗く深い穴が空いている。ニュース番組で未成年犯罪を報道しようとして、プライバシー保護のための映像処理を間違えたような有り様だ。

 やや大きな、犬歯の目立つ口だけが顔に貼りつき、にたりと三日月状に笑う。


「ヘーンなひとらだなぁ、どっから来たんだか……まあ、ジブンらの縄張りで堂々と暴れまくるクソ度胸はぶっちゃけリスペクトっスけどぉ……」


 腰に巻いたベルトの背中側に挿していた道具を、少年が抜いた。大振りのなただ。唯一の山仕事らしい装備品である。


「縄張り荒らしは何モンだろうと喧嘩両成敗。そっスよねブラザーズ?」


 さほど張り上げた風でもない少年の声が、森の中で幾重にもこだまする。

 彼の声に呼応するかのように、木々や草、岩までもがざわめき、それらの陰から無数の何かがうごめき出した。


『うわまた子供っ!?』


 いっそうんざり気味に、諭一は零す。

 辺りそこらじゅうから這い出て来たのは、痩せ細った手脚に土気色の肌の子供達――と言えるのだろうか。ぎょろりとした眼で虚ろにこちらを睨み据え、掴みかかってくる様からは、少年少女らしい可愛らしさなど全く感じ取れない。


「るうぅぅえええええッ!」


 地面に倒れていたブギーマンに、小柄な怪異達が折り重なるようにして群がった。その数は十体か二十体か、もっといるだろうか。群れをなす怪異に押さえ込まれ、巨体と呼べるサイズのぼろ布の固まりは覆い尽くされて既に見えない。


『ヤバっ――『灰の角』っ!』


 諭一は相棒に呼びかけた。すぐ足元の地面からも、枯れ木のように細い手首が数本伸び、『灰の角』の毛皮を掴んでいる。


「グルアアァー!」


 『灰の角』も流石に焦燥に駆られた様子で、威嚇の咆哮を上げた。下半身をよじ登ってきた怪異の一体を、力任せに振りほどこうとする。


『ちょい待ち曾祖父ひいじいちゃん! これ以上喧嘩相手が増えたら、いくら何でもやってらんないって! 頼む、しばらくぼくに喋らせて!』


 真剣に諭一は乞うた。

 元より、彼が自分から委ねない限り『灰の角』が諭一の身体を占拠する事はない。

 ウェンディゴの獣のごとき肉体は雪が融けるように掻き消え、へばりついていた小柄な怪異達は、後に残された諭一の姿にいくらか戸惑った様子で顔を見合わせる。


「おん?」


 小柄な怪異達を指揮していたパーカーの少年も、鉈の背を肩に引っ掛けて怪訝な声を漏らした。


「あのさ、まず聞きたいんだけど! 縄張りって何のこと? ぼくら何も不法侵入するつもりとかなくて……ここ、高尾山たかおさんだよね? 天狗の里のある」

「高尾ぉ?」


 少年はいよいよ疑念に首を捻る。


「あんた、なーに言ってんだかサッパリっス。あー、ジブン一応自己紹介いっスか?」


 自己紹介。確かに彼の名前も知らない。とりあえず諭一は先を促した。


「ジブンはここらの……熊野くまのの『餓鬼がき』の顔役、『ヒダルがみ』って怪異っス。雲取くもとり辺路番へチバンって呼ばれてんス。……ここまでオーケイ?」


 何一つオーケイな部分はなかった。

 諭一は唖然として周囲を見回し、辺路番ヘチバンなる怪異が口にした地名を頭の中で反芻する。


 よくよく見渡せば、何故気づかなかったのか――高尾とは景色が違う。植生が違う。


「くっ、熊野ってつまり、わかっ、和歌山県んん――!?」


 世界遺産・熊野古道の難所に、諭一の絶叫が響き渡った。

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