第71話 恩讐、峰々を穿ちて (2)

 リフト乗り場の小部屋は、大の男二人が立つといくらか窮屈に感じた。気もいていたがしかし、すぐに飛び出すのは危険だ。

 根岸は血流し十文字をケースから取り出して組み立て、それを待って薙刀を構えた志津丸しづまるがゆっくりとドアを開ける。

 そして直後に、根岸は息を呑んだ。


「これっ……何が――」


 廊下のそこらじゅうに、血痕が飛び散っていた。壁紙には鋭利な爪で抉られたような破損も見られる。


柳葉りゅうようっ!」


 志津丸が廊下を駆ける。

 探していた相手はすぐ見つかった。リビングの入口に、翼の生えた作務衣姿の男がうつ伏せで倒れている。翼は片翼が異常な方向に折れ曲がり、ざっくりと裂傷の走った背も手脚も血だらけだった。


「柳……ッ畜生、こんな……おいしっかりしろ! 何があった!」


 血相を変えた志津丸は、倒れた柳葉に取り縋る。

 根岸も衝撃と混乱で、眩暈に近いものを覚えて壁に手をついた。ごく平和な、事務所風の内装にされているだけの民家が血の臭いにまみれている。その異様さが困惑に拍車をかける。


 ただ、自分と志津丸以外の怪異の匂いも、血の臭いに混じって確かに感じ取れた。柳葉はまだ生きている。

 そもそも怪異の遺体は、そう長くは形をとどめない。どんな霊威を誇った大物怪異でも、その痕跡は死から数分以内に全て消滅する。

 人間や動物、人形などに取り憑いている場合はまた別だが。例えば、諭一ゆいちと『灰の角』に万一の事があれば――


「そうだ、諭一くんは?」


 譫言うわごとめいた根岸の一声に、柳葉を介抱していた志津丸がはっと顔を上げる。彼の視線の先にはデスク上のパソコンがあった。


「リフトの管理画面見てみる」

「操作方法分かるんですか?」

「知らねえけど。最低限は何とか」


 ディスプレイは暗くなっていたが、マウスを動かすとすぐに点った。リフト管理用システムと思われるソフトが、既に画面上に表示されている。柳葉が操作中だったのだろう。


「人間用のリフトは――こっちか!」


 いくらか乱暴に、志津丸がキーボードを引っ叩く。

 幸いというべきか、トクブンで使われる結界式の危険物保管庫の管理システムと、見た所はよく似ていた。怪異対策関連のソフトウェアは寡占市場気味だから、UIは似たりよったりだ。

 すぐに目が慣れた根岸は、ディスプレイを指差す。


「ここ。諭一くんが乗り場を通過したのはカウントされてるけど、こちら側のゲートから出てきてないみたいです。なのに内部の人数はゼロになってる」

「……マジかよ。リフト自体は普通に動いてるっぽいがよ」

「この、『要点検』アラートが出ているのは?」


 根岸は指先をスライドさせ、画面右上に赤く点滅する警告文を指し示した。


「ええと……『坑道』内に貼った護符が一枚剝がされてるらしい」

「護符?」

「人間用リフトの『坑道』――って奴。そっちには、陰陽士連中が護符を貼り巡らしてんだよ。安全のためとかで。別に怪異も人間用の『坑道』を通れるんだが、あんまりこっちを動かすとメンテに金がかかるんだと」

「ああ、それで人と怪異で通り道を分けてるんですね」


 護符というのは登山用リフトで言うところの、セーフティネットのような仕掛けだろう。決して安くない維持費がかさむのは想像がついた。案外、現実的な事情からの区分けだ。


「その……『坑道』内のセーフティのための護符が、一箇所剥がされた――」

「諭一の奴、まさかそこからさらわれて……?」


 二人の間に重い沈黙が降りる。

 人間用リフトの方には、怪異用ほどの破損は見られない。諭一には『灰の角』がついている事も知っている。しかし楽観的は気分にはとてもなれなかった。


「りっ……柳葉を」


 ややあって志津丸が、俯きがちに柳葉の方を振り返った。


「とにかくあいつを助けてぇんだ。天狗の里まで運ぶ」

「――分かりました」


 根岸は素早く頷く。

 怪異を人間の病院や陰陽庁おんようちょうに担ぎ込んだところで、可能な処置は限られている。これほどの重傷から救えるとすれば、同じ怪異だけだろう。今は出来る事をやるしかない。


「里に戻るとして、雁枝さんはどうしましょう。さっきからずっとケースの中で揺られどおしで」


 雁枝は相変わらず、起きる様子がない。窓から覗き込む限り異変は見られない。

 しかしそれは、ミケが無事でいる証でもあるように思われた。過去に根岸が目覚めた彼女と顔を合わせたのは、ミケが窮地に陥った際の一度きりだ。


「ばあちゃんか。……けど、ここに置き去りにも出来ねえし」


 根岸が肩から提げたままの雁枝のキャリーケースを、志津丸は撫でる。


「ごめんなばあちゃん。もうちょっとだけ我慢しててくれ」

「なるべく丁寧に運びますから」


 今までに見せた事のない志津丸の沈痛な表情に、根岸は覚えず、彼の肩を叩いていた。


「柳葉さんも。向こうの部屋が仮眠室っぽいです、毛布とかシーツがあるかも。止血だけでもしてから運びましょう」


 志津丸は軽く驚いたような目の瞠り方をしてから、再びいつものむすっとした顔に戻り、「ああ」と短く同意する。


「こんな事言うのムカつくけどよ、根岸お前――」

「何です?」

「弱っちい割に、変に頼りになるよな」

「は?」


 褒められたのか貶されたのか、一体どういう意図で、と根岸は問い返すべき言葉を探ったが、その時にはもう志津丸は、事務所を横切って奥の扉へ向かっていた。



   ◇



 諭一の目には今――深い森が映っている。

 彼は空中を浮遊していた。


 ほんの数秒前まで確かに諭一は、暗闇を移動するリフトのライドを楽しんでいたはずだ。それが全く突然に、何者かに両肩を掴まれてリフトから連れ去られた。

 どこをどう通ったのか。まるで幾重もの暗幕を擦り抜けるかのように、境界も定かでない虚空の壁を突き破り、その後はこのとおり、森の上空にぶら下げられてしまっている。地面からの距離は、ざっと十メートル以上だろうか。かなり高い樹木が生い茂っていた。


 諭一は恐る恐る後ろを振り返り、自分の肩を吊り下げている者の正体を確認する。


「うっ――わああああっ!?」


 と視線がかち合い、彼は絶叫した。

 大判のぼろ布を纏った何者か。いわゆる『シーツおばけ』風の出で立ちで、これがハロウィンパーティーの最中であれば笑ってキャンディーでも差し出すところだ。

 しかし今はパーティー中ではない。そして、汚泥にまみれた布の破れ目から僅かに覗く濁った両眼と捻じれた口、それに彼を掴む三本の黒ずんだ腕は、とても人間のものとは思えないときている。


 昔からの『引き寄せ体質』で怪異は見慣れている諭一だが、別段肝の据わった方ではない。寧ろ怖がりだと自認していた。ミケ達の姿も見えず、半ばパニックに陥りそうなのを辛うじて堪える。


「き、君すごいオバケって感じだねっ……ぼくも人の事言えないけど……!」


 と諭一は、恐怖を紛らわすべく怪異に話しかけた。

 米国系の知人の多い彼は、日本では珍しいこの怪異の名称と伝説を一応知っている。


 ブギーマン――ベッドの下から、クローゼットの中から、ほんの身近な暗がりから顕現する『恐ろしい何か』。人類の想像力によって際限のない恐怖の対象となってきた存在だ。


「でさぁ、ブギーマン……って呼んでいいかな? 何してんの!? どこ連れてくつもり!?」

「るぅううううぇええエエエッ」


 彼の言葉を遮る形で、身の毛もよだつ咆哮が布の奥から吐き出される。


(あっ、これ話通じないやつだ)


 すぐさま諭一は悟った。彼もそれなりに怪異を見てきた人間である。その経験から言わせて貰うと、「分類しづらい鳴き声で鳴くやつは大体危ない」だ。実は巨大化した時のミケもこれに当てはまって怖い。


「逃げっ……は、『灰の』……!」


 自身に取り憑くウェンディゴに助けを求めようとして、そこで諭一は躊躇ためらった。ウェンディゴは頑強だが、天狗のように翼が生えている訳ではない。空中に投げ出されれば、成す術がないのではないか。


 しかし彼の必死の思考は、文字通りの形で振り払われた。

 ブギーマンが諭一の肩口を掴んだまま、腕を大きく持ち上げる。肩が抜けるかと思うような勢いに「った!?」と悲鳴を上げるも、当然相手は意に介さない。

 野球のピッチャーのごとく諭一の身体を振り被った怪異のその眼下には、鋭利な枝先の針葉樹があった。


「ちょ、ちょ、やめっ! 死ぬって! 『灰の角』っ!」


 加速を付けて放り投げられた瞬間、諭一の口からウェンディゴの仮の呼称が飛び出す。最早彼を頼る以外に選択肢はなかった。


「うぉオオオオッ!!」


 即座に、諭一の血族ともいうべき怪異『灰の角』は呼応し、諭一の口を借りて獣の咆哮を上げる。落下する彼の身体をブルーの刺青タトゥーに彩られた黒い毛皮が覆い、側頭部からは灰白色かいはいしょくの牡鹿の角が生えた。


 更に遠吠えを続ける『灰の角』の周囲では冷気が吹き荒れ、水蒸気が細やかな氷の粒となって舞う。


「ぎぃいッ!?」


 灼ける程に凍てつく空気に触れたブギーマンが腕を引き、さっと『灰の角』から距離を取った。

 相手は自在に飛翔できる。だが『灰の角』の落下は止まらない。大木の先端が間近に迫っている。


 と思いきや――『灰の角』は熊を思わせる鉤爪を、落下先の木の枝に突き立てた。

 瞬間的に極度の低温に晒されたせいだろうか。『灰の角』の一撃によって、尖った枝先は粉砕といって良いレベルまで破壊された。そこから轟音と共に、よわいを重ねた風の大木の幹は凍てつき、ばきばきと縦に裂けて行く。


 裂け割れる木の幹を後ろ脚で蹴立て、斜めになったそこを半ば滑りるようにして、『灰の角』は強引に減速した。


 やがて、ずしん、と重低音を響かせて『灰の角』は地面に降り立つ。もしかすると百年ものの貴重な老木を凍裂によって倒してしまったかもしれないが、ともあれ『灰の角』と諭一は無事だ。


「ウオゥゥッ」


 上空へ向けて威嚇するように、『灰の角』が短く吠えた。ブギーマンはまだそこに漂い、枝々の向こう側からこちらの様子を伺っている。


『すごっ、あんな事出来るの? ああえっと、毎度毎度大ピンチの所で交代してゴメンよ曾祖父ひいじいちゃん!』


 と、諭一は『灰の角』の内部で、感心したり謝ったりと忙しい。

 すると『灰の角』の左腕の刺青が変形し、英文でメッセージを寄越した。


『次はもっと早めに呼べ』

『クールぅ』


 危険外来怪異に指定された人食いの精霊であるはずのこのウェンディゴは、存外英雄的ヒロイックな性格の持ち主なのだった。

 曾祖父の遺志との融合がそうさせたのかもしれない、と諭一は思う。

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