第73話 恩讐、峰々を穿ちて (4)

 暗闇を抜け出した途端、身を切る程に冷たい風がミケの顔を叩く。

 鉛色の空と、残雪の映える険峻な山肌。

 高尾山麓の景色とは明らかに異なる――どころか、四月の関東地方の気候とは思えない。


(どこか別の山に出ちまったな)


 ミケはすぐさまそう判断した。


(日本国内だとは思うが)


 いわゆる『ワープ』に近い空間穿孔能力だが、何でもありのどこでもドアという訳ではない。

 山の麓から山頂までといった、直線距離上ごく短い場所同士を繋げるか、もしくは霊的な繋がりのある場所同士を繋げるか。穿孔の異能持ちが使えるのは、大抵それくらいの力だ。


 霊的な繋がりとは、例えば人の信仰の歴史の中で関わりがあったとか、性質の似た神や怪異の存在が信じられている、といった所である。そういう土地同士の『坑道』――霊脈とも呼ばれるものだ――は、自然と繋がりやすくなる。異能の使い手はその繋がりやすさを感知して、風穴をこじ開ける。


 だから、信仰・文化・そこに生きる物の血脈に隔たりがあるような異国の地までひとっ飛びとは行かない。また行き先を完璧にコントロール出来る異能の使い手も、ごく限られる。


 よって天狗の里のリフトのように、誰が通っても決まった場所へと安全に出入り出来る形にするには、人間の方術知識と工事が必要だったのだ。

 知識や技術の大規模な体系化は、怪異の苦手分野である。


「よっと」


 空中に投げ出されていたミケは、巨獣に姿を変えて、傾度の強い岩場の上へと降り立った。斜面にわだかまっていた雪の固まりが、ざざっと音を立てて滑落する。


 正面の方角、少し距離を取って黒狼が着地し、即座に身構えた。ミケの背後にはブギーマンの気配もある。


「ブギーマンってのは、怪異同士でもちっと話の通じにくい連中のはずだが」


 視界の端にはためく色褪せた布を捉えつつ、ミケは黒狼に呼びかけた。


「よく仲良くやれてるもんだな。お前ら、一体どういうつもりでこんな真似を?」

「その答え――」


 低く唸り声混じりに黒狼は発言する。


「お前が知る必要はないな怪猫バユン!」


 岩盤を踏み切り、雪煙を蹴立てて狼が跳躍した。人狼は寒冷地の怪異である。この環境下での地の利は相手にある。


怪猫バユン。東欧の猫の怪異の呼び名か。流石に会ったこたぁないが)


 狼の牙とブギーマンの爪から身をかわし、大きく後退してミケは考えた。


(ロシア語圏の人狼……俺と因縁のある……ああ、嫌な奴を思い出しちまった)


 軽く眉間に皺を寄せ、ミケは嘆息を漏らす。


「聞きたい事は山程あるが、どうせ喋ってくれそうにもないし――俺も急いであるじの元に戻らにゃならん。悪いが余裕がないもんでな」


 愚痴でも零すように語りながら、ミケは自身の魂をいましめる枷を、一つずつ開錠していった。

 顔の半分と背中を覆う炎が逆巻き、火花と熱風をはしらせる。金と朱の混じる瞳が、鉛色の空の下で稲妻を伴って煌々と輝いた。


「本気でやらせて貰う。お前ら、まとめてッ!」


 八十年かけて、霊威の制御をミケ自身の意志で行えるよう教え込んだ雁枝が、最後に残した主従契約による呪縛。ミケに開錠出来ない唯一の枷を残して、それ以外の全てを解き放つ。

 空襲警報を模した咆哮が、高峰の果てまで響き渡った。


 正面に立つ黒狼が思わずといった風にたじろぐ。


「こっ――これほどの霊威とは――」


 黒狼はそれなりによわいを重ねた怪異である様子だ。だからこそ、自身の経験則を覆す敵にはおののく。

 一方、ミケの背後を取ったブギーマンは躊躇する事なく仕掛けた。


「ブギーマン、逸るなッ!」


 黒狼の制止も聞かない。元来、ブギーマンは本能のままに行動する怪異だ。獲物と見做した相手にどこまでも食らいつく、それだけが彼らの意志である。


「ぎぃぃイイイイッ!」


 空中でぐるりと身を捻り、ブギーマンがミケの横腹に爪を立てようとする。

 が――その彼の布に包まれた顔面を、閃光が高速で貫いた。


「るぎぃいいアアあああッ!?」


 金属の捩じり切れるような悲鳴がその場に響く。

 ミケの燃える二本の尾のうち一本が、先端をブギーマンの方に向けていた。尾の先から、金属加工用のバーナーのごとく超高熱の青い火炎が噴き出したのだ。


「ぎぃ、アアアアアッ!」


 身体を覆い隠す布が燃え上がり、三本の腕でそこらじゅうを搔き毟って彼は悶える。

 今度はミケが飛び掛かる番だった。ブギーマンの全身に回り始めた炎をものともせず、ミケは標的の頸部へと牙を立て、続けて長い爪で所構わず布を引き裂く。べきべきと何かのへし折れる異音と共に、真っ黒な血と臓腑が布の内側からまき散らされた。


「ちっ、間抜けドゥラークが!」


 悪態をついて黒狼が、両者の側面に回り込む。現在ミケは目の前の獲物を切り裂くのに集中している。その隙を突く。そういう算段だったのだろう。だがミケの反応速度は、黒狼の予測を遥かに上回った。


「ガァッ!?」


 もう一振りのミケの尾が高熱の火炎を放射する。両目を焼かれ、攻撃の姿勢を取っていた黒狼はもんどり打つ。

 しかし狼の怪異には、視力を奪われようとも鋭い嗅覚がある。今のミケは怪異の体液にまみれ、たとえ目を閉ざしていてもつぶさに匂いを追える。ブギーマンはとどめを刺されたが、肉体が完全に消滅するまでの数十秒間は強い残り香がまとわりついているはずだった。


「おのれ怪猫バユン――!」


 牙を剥き、渾身の力で岩場を蹴る黒狼の方を素早く振り仰いだミケは、ひとつ火柱を上げるなり人間の少年の姿へと変化へんげした。そして瞬時に身を屈め、巨大な狼の身体の下へと潜り込む。


 一切の容赦なく勝敗は決した。

 ナイフ程の刃渡りまで伸びたミケの手指の爪は、狼の喉笛を掻き切っていた。


 ぐひゅっ――と、奇妙な断末魔が黒狼の断たれた喉から漏れる。


「フシャアアアアアアッ」


 怒りとも歓喜ともつかない凶暴な声を、覚えずミケは上げていた。

 敵の喉に食い込んだ彼の右手はそこから更に肉を掻き分け、頸椎を掴むと、狼の背骨を首から体外へ、力任せに引きずり出す。


 残雪の山肌が一面、赤黒く染まった。二体の怪異の死体は原型をとどめない状態で辺りに散らばる。


 全身に鮮血を浴びたミケは、狼の骨と肉塊を放り捨てたところで、ふとわらっている自分に気づき、顔をぬぐった。


(ああ畜生)


 これほどに力を解放したのは久しぶりだが、相変わらず嫌な気分だった。

 身体の奥底に沈殿し続ける残虐な本能――生ける者への憎悪、目に映る生命すべてに復讐せよと訴える怨嗟の炎。それが沸き立ち、魂ごと侵食される恐怖。

 自分が戦災の化身であり、生命を奪う側に立つ者だと思い知らされる。


 ――出来れば、根岸の前ではこういう戦い方はしたくないものだ。


 ミケの両手にべったりとこびりついた血肉は、徐々に薄れ始めている。二体ともかなり高い霊威を蓄えた怪異だったので多少時間はかかるが、間もなく死体の痕跡も消え去るだろう。


「さて……そんでここは、どこなんだ?」


 ひとり呟いたミケが、周囲を見回したその時だった。


「かっ、怪異! そ、そ、そこで止まられま!」


 震えを伴う声が飛ぶ。


「トマラレマ?」


 意味の分かるような分からないような言葉に、ミケは首を傾けて声の方を向いた。


 視線の先には、一人の人間が立っていた。厚手の登山用ジャケットをしっかりと着込み、バックパックを背負い、無精髭の目立つ四十そこそこの男性。一見すると登山家のようだ。ただし、陰陽庁おんようちょう支給のスペル・トークンを片手に掲げている。


「ん、何だ。陰陽士おんみょうしかい」


 ミケは平静に問いかけつつ、慎重に力を抑制していった。

 全力で暴れた直後なので、昂揚感と飢餓感が身の内に残っている。どうかすると人間を襲ってしまいそうだった。

 陰陽士と怪異とは、敵対するものではない。寧ろ怯えがちな一般人より対話の容易な相手だ。事情を話せば、道案内くらいはして貰えるだろう。ここは友好関係を築きたい場面である。


「陰陽庁、富山県怪異対策局所属……黒部くろべ支局副士長の……堀田ほっただが」

「はぁどうも、堀田さん。丁度良いところに。……ここ富山かよ」


 ぺこりと頭を下げるミケに対して、未だ警戒を解かない堀田なる陰陽士は複雑な眼差しを向ける。

 考えてみればミケは、大分薄れてきたとはいえ血まみれだ。周囲には、こちらも消滅しかけているが二体分の大型怪異の惨殺死体。

 たとえミケが人間の少年だったとしても、この状況なら確実に警察沙汰である。警戒されるのも無理はない。


 しかし富山県とは、随分と遠方に飛ばされたものだ。

 北陸地方は修験道が盛んな土地だった。信仰を集める山同士という霊的繋がりから辿ったのだろうが、もう少し近場に風穴を開けて欲しかった、とミケは埒もない不平を胸中で零す。


 東京都内の陰陽庁支局や中央怪異対策局内であれば、ミケと雁枝の存在は概ね敵意のない怪異として知られている。が、この土地で彼の名を知る相手となるとかなり限られていた。


(一応、以前にも来たことはあるし知り合いもいる。ただ厄介なのは……)


 つらつらとミケが考え込むそこに、新たな声が沸いた。


「ええっ!? あっ……貴方ミケじゃない!」


 声の主は、堀田の肩口から現れた。登山用ジャケットの厚い襟とリュックの間に隠れていたようだ。


 黒猫である。華奢な身体つきで、メスと思われた。根元から二本に分かれた鍵しっぽが生えている。

 猫又だ。


 流石にミケも、予想外の出逢いに目を丸くした。


「お前は――禍礼まがれ! 毛勝禍礼けかちまがれか?」

「キャアーッ! ミケ!」


 けたたましい歓声を上げて、黒猫が堀田の肩からぱっと飛び立った。

 猫は空中で一回転し、フリルの目立つワンピース姿の少女へと変貌する。ミケと違って、黒く尖った耳と二本の尾はそのままだ。


 少女の姿になった猫又は、押し倒さんばかりの勢いでミケに抱きつき、ふさふさした黒い耳を頬に擦りつけた。


「ミケぇーっ! とうとう会いに来てくれたにゃーん! まにゃにゃに発情したにゃーん?」

「するかバカタレ! つつしめ!」


 思わずミケは怒鳴る。


「えぇー? してないの? もう今年の春も過ぎるにゃーん。早く繁殖するにゃーん」

「だから無理だ。なんで半世紀もそんな調子でいられるんだお前さんは」


 唐突過ぎる二体の怪異の遣り取りを眺めて、堀田はぽかんとしている。

 ミケはげんなりと息を吐いた。この近辺で数少ない『知り合い』に、こうしてすぐに再会出来た事を、幸運と呼ぶべきか否か。とてつもなく厄介な相手ではあるが。

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