第68話 東京秘境湯けむり修行 (7)

 屋敷の離れの部屋へと、根岸は通された。

 和洋折衷ながらシンプルな内装である。ほんの四席分のカウンターと、給湯室程度のキッチン。やや低い位置に設えられた窓から坪庭が見えた。

 元は茶室だろうか、と根岸は考えたが、しかし一般的な茶室よりは、広さも天井の高さもある。


「元々は、三百年ばかり昔に儂がこしらえた茶室だったんだ」


 と瑞鳶ずいえんは言う。


「茶室にしちゃ広いだろう。その頃の怪異には、図体のデカいのが多くてな。数自体は今よりずっと少なかったが」

「三百年前……ですか」


 勧められるまま椅子に腰を落ち着けて、根岸は思いを馳せた。


 近代以前。人類は当然のように神仏に祈りを捧げ、死後の世界を夢想し、そして怪異をおそれた。異なる世界層レイヤーに棲まう精神生命体は、そういった人々の思念に反応し、怪異としてこの世に顕現した。


 そう――かつて、怪異は稀な存在だったのだ。

 現代人からすると奇妙にも思える。前近代の人々の方が敬虔だったのは確かだろうに、彼らのほとんどは実際に神の奇跡も怪異も目撃する事なく人生を終えた。


「江戸の街がひらかれていくのを目の当たりにして、儂は思ったもんさ。遠からず怪異は皆、この世から去るとね。結果的に思わぬ形で、予想は外れたが」

「江戸時代にそんな予測を?」

「ご先祖さんを侮っちゃあいかんぞ、若いの。人間達は夜の街も明るく歩けるようにと奮闘していたし、正体の分からんものらへのおそれを克服しつつあった」


 人は自然のメカニズムを解明し災害を乗り越え、死や苦痛に対する恐怖すらも軽減していく。その営みは怪異の存在を遠ざけ、いずれ人類の天敵たり得る存在は同じ人類のみとなる。

 瑞鳶はそんな未来を察したが、しかしだからと言ってその流れに抗おうとは考えなかった。


「儂らが人をおびやかし、再び恐怖の対象となれば」


 湯の沸いたケトルを片手に瑞鳶は語る。


「怪異はえ、栄えるかもしれん。そんな思いも一応は巡らせた。気まぐれに人を捕って食い、好き勝手に弱い連中を罰する。昔々のお伽話に描かれたような恐るべき怪異だよ」

「……それは」

「嫌そうな顔するない、君も素直な性分だなァ」


 根岸が眉をひそめると、瑞鳶は可笑しそうに笑った。


「そんなやり方を選んだらオメーさん、行きつく先は人間との全面戦争だ。こうしてコーヒーを飲む暇もなくなるぞ、冗談じゃぁねえ」


 同意します、と返事をしてから、根岸は間を置いて再び口を開く。


「でも――いるんですよね。そういうやり方を選ぶ怪異も」


 耐熱ガラスの中に注がれていく液体を、根岸と瑞鳶は向かい合って見つめている。


「ああいるとも。この里にもいた。かつて何人かな」


 不思議と、どこか懐かしげな吐息を瑞鳶は漏らした。


「最近も……といってもそろそろ九年前になるか。ごく若い天狗が、人間を危険に晒した。……人間だけじゃなく、ミケ坊や雁枝の姐さんもだ」


 ひょっとして――と根岸は振り返る――天狗の里に来る前、神隠しの事務所で志津丸が語った話。志津丸と同じ峠で生まれ、彼が『兄』と呼んだ天狗。罪を犯して逃げ、今はどこにいるかも分からないという。

 瑞鳶が思い出しているのは、その人物の事ではないだろうか。


「しかし結局、あの子が何を考えてたのか。今何を考えてどこにいるのか……儂は話を聞いてもやれなかった。心底悔やんでるよ。ああ、思い返せば山ほど、悔いの残るいさかいをやらかしてきた」


 そこで瑞鳶は一旦話を区切り、「カップはどれにするね」と根岸にたずねた。

 根岸は棚にいくつか並ぶカップから、渋味のある色合いの一つを選ぶ。厚手の陶器で、ちょっと茶道具を思わせる趣きだ。


「四百年生きようとも、儂はまあこんなもんだが」


 と瑞鳶は肩を竦めて謙遜してみせる。


「だが、雁枝の姐さんはな。恐らく儂よりもう少しばかり長生きで……その年の功だかなんだか知らんが、を見る目がある」

「ひとを――」

「勿論怪異を含めだ」


 音もなく、根岸の眼前に湯気の立ち昇るコーヒーカップが置かれた。


「『もがりの魔女』として、人とも怪異とも違う世界を眺めて暮らすってのは並大抵の一生じゃなかったろう。付き合う相手を見極めるのは得意だが、儂とは違って、眷属を集めてお山の大将を気取るような真似はしてこなかった。そんな姐さんが、ここに来てわざわざ後継ぎを選んだ」


 プレッシャーをかけるつもりはないが、と前置きして瑞鳶は続ける。


「何かしら考えがあって、君を見込んだんだろうさ。槍の腕前よりももっと大切な何かがあった」

「……やっぱ、槍の筋の方は酷いものでした? 僕」

「あー……」


 瑞鳶が気まずげに根岸から目を逸らす。駄目そうだなこれは、と根岸は密かに落胆した。


「案外と」


 と、口調を改める瑞鳶である。


「ミケ坊を気にかけての人選かもしれねえな」

「ミケさんを?」

「きっと姐さんにとって、最後の『息子』だ。ひとりのこしてくのは心配だろうさ」


 根岸はカップを見つめて考え込んだ。

 雁枝にとってミケが唯一の使い魔とは限らない。五百年の生涯だ。あるいは伴侶と呼べる相手も幾人かはいたかもしれない。だが、雁枝自身の語ったところによれば、八十年前の彼女は孤独の中でその命を手放そうとしていた。


 ――伴侶も眷属も、皆彼女より先に命尽きてしまったとしたら。最早ひとりで余生を過ごそうと、そういう気分にもなるかもしれない。そんな中で出逢い、命を救った相手が……


「最後の『息子』……か」


 自然と吐息が漏れた。どういう感情から来るものなのか、自分でもよく分からない。

 コーヒーに入れた砂糖をそぞろに掻き回してから、根岸は一口啜った。


「…………」

「どうかな、味の方は」


 うきうきした様子で瑞鳶がたずねてくる。


(これだけ拘ってるのに……意外とあんまり美味しくない……)


 それが根岸の率直な感想だったが、まさか正直には伝えられない。

 しかし実際問題、東京都特殊文化財センター事務所内給湯室に置いてあるインスタントコーヒーくらいの味わいなのである。それも、うっかりお湯を過剰に入れた時のあの感じだ。雰囲気に呑まれて、少々ハードルを上げ過ぎたかもしれない。


「あっ……あの、えーと結構飲みやすい……香りで……これってどこの豆です?」

「おう、豆は連合国アメリカ産だ」


 いささか無理のある根岸の話題のずらし方に、幸いにも瑞鳶は違和感を覚える事なく乗ってくれた。


 連合国アメリカとは、怪異パンデミック後に分裂したアメリカ三国のうちの南部を占める一国である。

 親怪異派の東アメリカ合衆国とも、反怪異派の西アメリカ共和国とも異なる、怪異崇拝国家。


 怪異に実効支配された地域は、崩壊ソ連にスコットランドなど世界中にいくつかあるが、怪異の支配を人間側が受け入れ主権を譲渡した国となると流石に少ない。連合国はその稀少な一例である。


 ただし、あまりにも個体差の大きい怪異という種族には、天狗の里のような村落規模の共同体運営までが限界であるらしい。実際に政治を回しているのは人類側だという。

 この国は西アメリカや東ドイツ以上に閉鎖的で、内部で何が起こっているのか他国は把握出来ずにいる。何しろ迂闊に踏み込めば、冗談でなく『取って食われる』国だ。


 人間の国際社会においては政治的断絶の続く連合国だが、怪異の間では文化交流が見られるという話は根岸も耳にした事がある。

 たとえば、「怪異の自宅に飾っても成仏しにくい呪われた生花」なる商品が幽霊によって日本に密輸されて、問題になった事件があった。

 他にも、一部の怪異が苦手とするニンニクや塩、酒、コーヒーや茶葉といった嗜好品、聖なるモチーフの使われたアクセサリーやパワーストーンを怪異向けにして売り出すのが、最近の連合国のトレンドらしい。


(怪異好みのコーヒーって事かな……)


 単に新米幽霊には慣れない風味、という事なのかもしれない。

 これも文化体験、と根岸は観念して、残りのコーヒーを飲み干した。

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