第67話 東京秘境湯けむり修行 (6)

 風呂上がりの根岸が、薬を塗り終えてもう一休みしてから邸宅内に用意された座敷に向かうと、既にミケも諭一ゆいち志津丸しづまるも、宴会ムードになっていた。


 十二畳ほどの座敷には彼らだけでなく、数名の天狗も寛いでいる。

 鳥面の天狗が一人と、背の翼以外ほぼ人間と変わらない風貌の天狗が三人。概ね二十代くらいの、働き盛りといった顔立ちに見えるが、天狗の実年齢は掴みづらい。


「よっ、根岸さん」


 猫の姿のミケが、上機嫌に二本の尻尾を立てる。彼は阿古あこの膝の上で仰向けになって撫でくり回されていた。からすが猫を抱えるという風景はなかなか奇妙だ。


 阿古の前の箱膳には、レトロなデザインのオレンジジュースの瓶が置かれている。他の面々の前には瓶ビールや缶ビールだ。

 天狗というと、日本酒や焼酎を好みそうな勝手なイメージを抱いていたが、揃って「乾杯はビール」派とは意外だと根岸は思う。


「ネギシさーん、こっちこっち。一緒に怪異系チューバーの動画見よ」


 いくらか頬の赤くなった諭一がタブレットを掲げてみせる。画面上には、『飛翔OK! 怪異ルールで3on3スリーオンスリーやってみた』とのサムネイルが表示されている。


「何やってんですか」


 開け放たれた座敷の雨戸の向こうには、里山に沈む見事な夕陽と満開の桜が見えるというのに。こんな機会だからもっと風情ある飲み方をすれば良いではないか、と一旦は眉根を寄せる根岸だったが、どうも天狗達も動画に熱中している様子だ。


「おー今のすげー。スーパープレイだ」


 人型の天狗達の中でも大柄で、今にもバスケットなりラグビーなり始めそうな身体つきの一人が、感じ入った声を上げてコップを呷り、そこで根岸に気づいて腰を上げた。


「あっ、すまんすまん幽霊のお客人、挨拶が遅れたな。俺は芳檜ほうかいってもんだ。それとこいつが――」

「やーだわ、『こいつ』だなんて。あたし桜舞おうぶ。根岸秋太郎さんだっけ? よろしくね」


 そう言って片目を閉じてみせたのは、鳩羽色はとばいろがかった羽毛の混ざる髪を整え、顔にばっちりとメイクを施した細身の天狗である。まとった和服も華やかだが、骨格と声色は人間の男性に近い。

 天狗はその多くがヒトの男性に似た身体構造をそなえているが、元は植物なども含めた山の精気の集合体が顕現した存在だから、厳密には性別も性自認も持たないと聞く。まあ、個人的趣味による装いというものはあるだろう。


 桜舞に続いて、人型の三名の中で最も小柄な今一人が座布団から立ち上がる。


「どうも、わたしは甘柿かんしと申します。さっそくですが、里で醸造したクラフトビールいかが?」


 背丈が低い一方で顔も身体も目元も丸っこく、天狗と言うよりは達磨だるまさんのような印象だ。もしくは藤子・F・不二雄作品の子守ロボットあたりか。

 彼は傍らの盆に置かれた未開封の酒瓶を手に取って根岸に薦めた。


「クラフトビール?」

「ええ。そこにいる須佐すさとの共同開発でして」

「クェーエ」


 甘柿の紹介に、鳥面の天狗が高く鳴く。


 根岸は酒瓶のラベルをまじまじと観察した。これまた随分とレトロなデザインのラベルだ。


「キリンビー……」

です。ほら」


 甘柿は瓶の裏面を見せてきた。確かに、『帰村麦酒キソンビール』と印字されている。


「訴えられたらけるんじゃないかなこれ……」

「クエ?」


 須佐が首を九十度ばかり傾ける。しらばっくれているのか何なのか、よく分からない。

 阿古が飲んでいるジュース瓶にも、よく見れば『キソンオレンジ』と記されていた。無駄に芸が細かい。


「それぇ、人間の造る酒よりちょい度数たけぇから、オメー気をつけろよ根岸ィ」


 横合いから志津丸がありがたい忠告をしてくれたのだが、その志津丸は真っ赤な顔色で、完全に出来上がっている。

 以前にも彼は、夜中に酔っ払って音戸邸に落下した事がある。あまり酒に強くないのだろう。二十歳はたちやそこらで過分に飲み慣れていても問題だが。


 根岸もさほどアルコール耐性に自信はない。彼の地元は温泉郷であると同時に、日本有数のワインの名産地でもあるのだが、残念ながら体質上、その味わいを理解出来るほど飲めそうにはない。


(ここは他人の家だから気をつけよう……)


 へろへろの志津丸を見て、根岸はそう固く決意する。


「ねーねー、ミケちんもこれ出来る?」


 芳檜らと共に怪異系YouTuberの動画で盛り上がっていた諭一が、ミケの方へタブレットの画面を向けた。


「うん? 何だ?」


 阿古と小魚のおやつをつまんでいたミケが目を瞬かせる。


「富山県のご当地怪異系チューバー『毛勝けかちまにゃにゃ』。知らない? 結構人気だけど」

「ああ。猫又山ねこまたやま毛勝禍礼けかちまがれか。あいつ今そんな事やってんのか」

「え、友達なの? てかまにゃにゃの本名そんななの。ビミョーに怖くない?」

「友達って程でもないが、会った事はある。一九七〇年頃だったかな。で、あいつがどうした?」

「あっ……じゃあ五十歳以上なんだ……いやそのまにゃにゃが、ていうか禍礼まがれさんが、人型だけど猫耳と尻尾を生やしてるタイプの怪異でさ」


 諭一の持つタブレットを、根岸も覗き込んでみた。

 画面内では、フリルをあしらったミニスカート姿の、率直に美少女と呼べる容貌の若い女性が、バスケットボールを頭上に掲げて立っている。

 なるほど、髪の合間からは黒い毛に覆われた獣の耳が生えているし、腰の後ろからは先端の折れ曲がった二本の尻尾が伸びていた。尻尾も真っ黒だから、黒猫をベースとした猫又なのだろう。


『幸運のかぎしっぽと福を呼ぶ黒猫あんこねこでダブルラッキーだにゃーん! 3on3スリーオンスリー絶対勝っちゃうにゃーん! 応援よろしくねっ』


 と、黒い猫又はテンション高く宣言する。よわいを重ねた猫又が、皆ミケのように老成するかというと、そうでもないらしい。

 猫又山といえば富山県黒部くろべ市に位置する、標高二千メートル超えの高峰である。

 毛勝三山けかちさんざんと呼ばれる山岳群のうちの一つで、その名が示すとおり古くから猫又伝説で知られており、怪異パンデミック後には化け猫達の縄張りとなった。

 現在は安全面の理由から、人間の入山は原則禁止とされているはずだ。


「ほら、猫耳と尻尾ってイイじゃん。ミケちんも出来るかなーって」

「出来るには出来るが……どっこらせ」


 阿古の膝から降りて、ミケは人の姿を取った。共同浴場で借りたらしい、『おおゆどの』と書かれた浴衣を羽織っている。

 立ち上がったミケが軽く頭を振ると、癖のある黒髪の合間から、黒毛と赤毛の尖った耳がにゅっと生えた。浴衣の帯の下あたりにも二本の尾が揺れている。


「きゃーカッワいーっ」


 桜舞がやや野太く黄色い声を上げた。


「やっべ、ミケちんも大学で正体明かせばいいんじゃね? コレで合コン出たら女の子大喜びだって絶対」

「そうかあ?」


 はしゃぐ諭一に対して、ミケはピンと来ない様子で顔をしかめる。


「これな、変化へんげの応用なんだが、頭と尻にずーっと集中してなきゃ消えちまうんだよ。嫌だろ歓談の席で自分のケツばっか気にしてる男」

「ええーっ!? そういう夢のない話やめてよ」


 諭一は失望に目を剥いた。


「じゃあまにゃにゃもずっと気合い入れっぱなしってことに……」

「それは分からんな。得意不得意はあるし、慣れもある。天狗は逆に、翼を隠し続けるのに最初は気合いが必要だけど、人間社会での修行中ずっと翼を消して暮らすから、すぐ慣れるって言うだろ」

「そーそー、オレなんてもう自由自在。ほれ見てな」


 志津丸がけらけらと笑って、背中から生やしていた翼を消し去る。――かと思いきや、消えたはずの片翼がぽよんと間の抜けた音を立ててまた背からはみ出した。

 近くにいた須佐が翼に顔をはたかれ、「クワッ」と抗議の声を上げる。


「あれぇ?」

「あれ、じゃない。酔って正体を現しちまうのは、怪異が一番やりがちなミスだぞ。神話の中だったら退治されてた」


 翼で頭を掻く志津丸に、猫耳を生やしたままのミケがよく分からない説教をする。彼も多少酒が入っているのかもしれない。


 場の雰囲気に乗り遅れた気分の根岸がまごついていると、襖が開いて瑞鳶ずいえんがひょっこりと顔を覗かせた。


「何だ。若い連中が明るいうちから、随分出来上がってんな」

「は、はぁ。そのようです」


 曖昧な苦笑を浮かべて、根岸は肯定する。


「根岸くんは飲めないタチかい?」

「ええ、あまり……今日は久しぶりに運動したし、悪酔いしそうで」

「それなら――」


 瑞鳶は何事か思いついた様子で人差し指を立てて、廊下を示した。


「もうじき夕食が運ばれるが、その前にどうだ。コーヒーでも飲まんかね」

「えっ」


 志津丸の言葉を思い出す。『確実に師匠の淹れたコーヒー飲ませられるぜ』だったか――まさか本当に実現するとは。


「じゃあ、お願いします……」

「そう来なくっちゃァ」


 まあいいか、と根岸は瑞鳶に付き合う事にした。国指定重要特殊文化財建築の中で、天狗の淹れたコーヒーを飲む。そう滅多には味わえない体験だろう。

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