第69話 東京秘境湯けむり修行 (8)

 ――誰かが泣いている。


 ひっそりと、すすり泣くような声だ。少女のものに思える。


 根岸は目を開けた。視界はぼんやりとして薄暗い。眼鏡をどこかに落としたのだろうか。

 泣き声の主は、すぐ傍らに座り込んでいた。腰まで届く長い黒髪の少女である。横髪が俯いた顔に打ちかかり表情は見えないが、頻りに肩を震わせているところからして、泣いているのは彼女で間違いない。


 彼女は小袖こそで姿だった。形状からして、織豊期か江戸初期に流行したものだ。

 根岸の知り合いではない――それどころか、現代の人間とも思えない。しかし、この着物には何故か見覚えがある。


 いつ、どこで目にしたものだったか。

 いや、のではない。あれは根岸のものではない記憶――



   ◇



 「根岸さん、根岸さん。おーい」


 ひたひたと冷たい布が頬に当たり、根岸は目を瞬かせた。

 陽光の射し込む木造りの天井。瑞鳶ずいえんの屋敷の道場だ。

 真上から、濡らした手拭いを握るミケが覗き込んでくる。


「お、気がついた。やれやれだな。最終日だってのにあんまり飛ばすなよ」


 そう言って彼は根岸の側頭部を撫で、「あーあータンコブになってら」と嘆いた。

 撫でられた箇所がずきずきと痛い。


「今日はリフトで里の外に出て、それから電車に乗って帰るんだぜ。大丈夫かねこれ」

「電車、ミケちんも苦手だしねえ」


 諭一もミケの後ろから顔を出す。


「行きの時は平気そうな顔してたけど、よく見ると尻尾が二本ともブワーなっててさ……」

「今は俺の話はいいだろうが」


 二人が言い合う様子を見上げつつ、根岸はつい先程までの状況を思い起こした。


 天狗の里を訪ねてから三日。あっという間に時は経ち、音戸邸に帰る日となったが、根岸はぎりぎりの時間まで志津丸との訓練を粘っていた。

 二日目からは芳檜ほうかい達若手天狗らも見物に来て、あれこれアドバイスをくれたのだ。しかし指導者が増えたからと言って、すぐめきめきと成長出来るものではない。


 成果らしい成果もないまま音戸邸に帰るのが惜しくて、根岸は焦った。その挙げ句踏み込み方を誤り、槍先を払われた拍子に派手に転んで頭を打って、数分ばかり目を回していた。そういう事のようだ。


「だっ……大丈夫です。すみません」


 上体を起こして頭を振り、眼鏡をかけ直す。傍らでは血流し十文字が、使い手とは違って傷一つない刃を鈍く光らせていた。


「志津丸がやり過ぎなんじゃないか、今のは?」

「だって根岸の奴が本気で来いっつうからよー」


 芳檜の指摘に、棒を肩にもたれさせた志津丸が不服顔で反論する。


秋太郎しゅうたろうさん、あんまり武芸向きじゃないわね。見た目そこそこ凛々しいのにね」


 と、桜舞おうぶは何故かがっかりした様子で溜息をついた。


「武芸なんか苦手でも、もっと平和な特技を磨けばいいんですよォ。商才とかアートとか。ねえ須佐すさ

「ケーェ」


 甘柿かんしと須佐は槍術に興味がないらしい。二人で茶を淹れたりしている。


「いや……今、何か掴みかけたような気がするんですよ。引っくり返ってる間に」

「引っくり返ってる間に?」


 甘柿から受け取った湯呑みを根岸にも渡してから、志津丸は眉根を寄せた。


「掴めたというか、ええと……誰かの姿が見えたんですが、それが……」

「そりゃ走馬灯か何かか」


 ミケの持つ冷えた手拭いが、根岸の腫れた患部にぺたりと当てられる。


「根岸さん、前に話してた菓子作りの得意な曾祖母ひいばあさんに、川向こうから呼びかけられたりはしとらんだろうな」

「そういうのじゃないですって! 第一、三途の川なら僕だって渡ってるじゃないですか」

「それもそうか」


 一旦納得してから、ミケは「そうかな?」と首を傾げた。

 厳密には、幽霊の根岸と人間・根岸秋太郎は違う生き物である。だから彼が三途の川を渡ったというのは、怪異学的に不正確な表現だ。しかし話がややこしくなるので、根岸はスルーを決め込んで漢方茶を飲んだ。


 ――あの少女は一体誰だったのか。


 夢うつつの中に浮かび上がった映像。その正体は根岸にも分からない。単に疲労と痛みのせいで、意味のない幻覚を見たのかもしれない。

 ただ、根岸の身の内にそなわった『もがり』の異能は、しばしば彼に奇妙な――そして有意な――幻視ビジョンを見せてきた。コントロールが利かないのが厄介なところだが。


「何か掴めそう、か。ふうむ……」


 道場の入口近くで、飛び回りたがる阿古あこの首根を押さえていた瑞鳶ずいえんが、何か思う所ある風に腕を組んで呟いた。


「君の時間さえ許すなら根岸くん、もっと滞在してもらってもいいんだがね。あとはまあ、地味な反復練習になるだろうが」

「そうしたいのは山々なんですが、明日から仕事なもので」


 根岸は苦笑いで応じる。

 休暇明けの明日は早速、日野ひの市の現場に直行の予定だ。

 この旅行前は、まさか幽霊に筋肉痛は起きないだろうと高を括っていたのだが、恐ろしいことに昨日今日と、普段は使わない二の腕や背筋はいきん回りが心なしか軋む。これこそ怪奇現象だ。


「そうかい。まあ、いつでもまた来なよ。一部失礼な里の者もいたかもしれんが……儂は歓迎するぜ」

「アー」


 ちょっと拗ねたように、阿古が鳴いた。



   ◇



 「いやー久しぶりの温泉気持ち良かったなー!」


 リフト乗り場前の空き地で、諭一は両腕を上げて大きく身体を伸ばした。


「ウチ、父さんアメリカ生まれじゃん? 大浴場とかあんまりーって感じみたいで、家族旅行で温泉宿行くと露天風呂付き客室とかになるんだけどさ。でもたまにはいいよね皆で大きい風呂ってのも」

「ビミョーに嫌味なセレブ臭ぇな」

「なーにー、しづちゃん酷くない?」

「しづちゃん言うな」

「志津丸、お前さんも里を降りるのかい?」


 不意にミケが、志津丸の方を振り向いて問う。

 彼は空き地の片隅の、簡易な電話ボックスを思わせる設備の前に立っていた。

 そこには木造りの雨避けに覆われた操作盤があり、ボタンを押す事でふもとからリフトが飛んでくる仕組みになっているのだという。


 操作説明どころか看板一つ立っていない不親切な乗り場である。神隠しのシステムを知らない余所者が、単独で里に出入りする事はまずあり得ないためだろう。


「ああ、バイトあるし。夜にはまた戻る」

加冠かかんの儀が近いからな。準備で忙しいだろう。俺と御主人も、当日は祝いに行くよ」


 笑いかけるミケに、志津丸は「ん」と照れた様子で不愛想に相槌を打った。


「カカンって? 勇猛果敢とかの?」


 諭一が小声でたずねてきたので、根岸は首を横に振る。


「いや、冠を被る儀式。成人式の事でしょう。高尾の天狗は春に執り行うんですね」


 現代日本の成人の日といえば一月の上旬である。これは昔、小正月に行われていた元服の風習に由来する――らしい。


「お前さん、新しい名前は決めたのかい?」

「んー? 年寄り連中がいくつか候補挙げてっけど……なんかピンと来ねえんだよな」

「あ、しづちゃんの名前ってそれ幼名なんだ」


 諭一が人差し指を立てた。


「他の天狗は、瑞鳶さんとか柳葉りゅうようさんとか、何だかお坊さんみたいな名前だもんね。阿古くんも幼名?」

「鴉天狗は改名しない奴が多いぜ。自分の名前を発音出来るようになるまでに時間かかるからな。例えば須佐はずっと須佐だ」

「へぇー面白い……わっ!?」


 はしゃいでいるそこに、突如虚空からベンチが出現した。地面すれすれを滑空してきたベンチに驚いて飛び退いた諭一が、根岸に抱きつくような格好になる。


「ちょっとちょっと」

「ごめーんネギシさん。あ、これ人間用リフトって書いてある」


 じゃあお先に、と諭一はベンチに腰掛けた。


「シーユー天狗の里! 楽しかったよ!」

「テメーは始終やかましかったな」


 大袈裟に両手を振ってみせる諭一に対して、追い払う仕草を返してから、志津丸は続けてやって来た怪異用のベンチに座る。

 次に根岸とキャリーケース内の雁枝かりえ、それに結界つきアタッシュケースに入れられた血流し十文字。殿しんがりは再びミケという順番で、一行は里を後にした。



   ◇



 がくん――と、つんのめる程の勢いでリフトが急停止する。


「うわ、えっ!?」


 思わず声を上げて戸惑い、根岸は周囲に視線を走らせた。

 しかし見渡すまでもない。周りは完全な暗闇だ。リフトは里の遥か高空へと飛び上がり、そこから墨汁で塗り潰したような暗黒の空間へと突入した所だった。行きの道程とは真逆の形である。


 上下すら曖昧な暗闇の中、根岸は慎重に肘掛けを掴む。足元に地面の感触はない。このベンチから落ちたらどうなるのか分からないが、あえて試そうとも思えない。


「何が起きたんだ……皆は……?」


 そう呟いた途端、異臭が鼻を突いた。

 物質世界の『匂い』とは違う。怪異同士でのみ感知しあえる怪異の気配だ。


 同じ空間のすぐ近くに、ミケと志津丸の気配を感じる。

 そして、。何者かが間近に迫っている。


 咄嗟に、根岸は血流し十文字を仕舞ったアタッシュケースを手元に引き寄せていた。雁枝が眠るキャリーケースは小脇に抱え、背後を振り仰ぐ。


「フゥウッ!」


 ほとんど耳元で上がる、凶暴な獣の息遣い。

 暗闇の幕を引き裂くようにして、突如それは姿を現した。

 黒い、ごわついた毛皮に濁った灰色の両眼の、犬――いや、違う。これは狼だ。

 体高だけで根岸の身長を優に上回る巨大な狼が、ベンチの金属柱に前脚を引っ掛けてこちらを睨み据えている。


「なんっ――」


 金属柱の軋む音が、根岸の誰何の声を掻き消す。


「ガアアアアッ!」


 顎門あぎとを開いて狼が吠えた。

 鋭く生え揃った牙が、真っ暗な視界の中で異様に白々と映った。



 【東京秘境湯けむり修行 了】

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