第65話 東京秘境湯けむり修行 (4)

 根岸によって音戸邸おとどていから天狗の里へと連れて来られた怪異は、実は雁江かりえだけではない。

 もう一体、人間の補修作業員に決して近づけてはならない怪異が邸宅にいた。は霊験機器の結界つきアタッシュケースに入れられて里へとやって来た。


 その通り名を『血流し十文字』。戦国時代の末期、八王子城の合戦にて戦死した武将の強い怨念から顕現した、十文字槍の穂に宿る怪異である。

 この怪異は触れただけでも容易に人間を祟り、浄化された刀剣にまで呪いを感染させる。しかしその力によって根岸やミケは助けられたのだ。

 根岸は、このコミュニケーションの取りづらい怪異にいくらか懐かれたらしく、トクブンから管理を任されていた。


 現在、根岸は柄を付けた血流し十文字を握り、槍の構え方の基礎から志津丸しづまるに教わっている。

 志津丸が得意とするのは薙刀なぎなたであるが、槍術も棒術も基本的な所は学んでいるというから心強い。


 二人が立っているのは、瑞鳶ずいえんの邸宅内にある板間の道場だった。

 広い部屋の片隅には、瑞鳶とミケと諭一ゆいち、それに先程根岸達に飛び掛かってきた鴉天狗の少年、阿古あこまでもが揃って座り込んでいる。

 居並ぶ見物人の視線を感じて何とも居心地が悪いが、この際監督者は多い方が良いだろう。少なくともミケと瑞鳶は根岸より強い怪異だ。助言が参考になるに違いない。


「……それにしても、いきなり本物の槍で、それも呪われた槍で型の基礎から練習ってのは、危な過ぎじゃないですか?」


 志津丸に姿勢を指摘されて足の位置を正しながら、根岸は問いかけた。首を動かさないよう、視線だけミケに向ける。


「いやあ。血流し十文字の動かし方はから聞くのが一番だよ」

「本人……?」


 ミケに注いでいた視線を、根岸は槍の穂先へと移動させる。


 ――この槍に聞く?


 根岸はミケの助言に期待していた先程までの自分を、にわかに疑った。怪異のトレーニングは人間の常識とは異なるのかもしれない。



   ◇



 かつて根岸に、ごく断片的な映像情報――思念と呼ぶべきものだろうか――を見せて意志を訴えてきた血流し十文字だが、あの夜以降、この怪異は沈黙を保っている。幸い誰にも呪いを振り撒いたりはしていないものの、根岸からの呼びかけにも応じない。


 生みの親である名匠、山本内記康重やまもとないきやすしげの幽霊の元にも再び連れて行ってみた。康重は再会を喜んでくれたが、やはり十文字との対話は出来なかった。


「数百年ぶりに外の世界に晒され、思わぬ形で力を振るい、混乱なり疲弊なりしておるのではなかろうか」


 刀鍛冶の霊として、というよりも『鍛冶の妖精』として、様々な刀剣の命運を見守ってきた康重は、そんな風に十文字の沈黙を解釈した。


「おぬしに身を委ねておると言うならば、今しばらく預かって頂きたい。いずれ呪われた刃にも見出だせる道はあろうというもの」


 康重はそう告げて、改めて十文字を根岸に託したのだった。



   ◇



 「あんたが真面目な人なのは知ってるがね、根岸さん」


 のんびりと板間で胡坐あぐらをかいて、ミケは呼びかける。


「俺達は人間みたいに真っ当な修行をやる必要はないんだぜ」

「あ、やっぱりそういう展開……」

「やっぱり?」

「いえ」


 急いで首を振って先を促す根岸に、ミケは怪訝な顔をしつつも続けた。


「初めてあんたに会った頃にも言っただろう。幽霊は、やろうと思えば生きてる人間と同じ事が大体出来る。飯も食えるし布団で眠れる。それに付け加えると、やろうと思えば人間が出来ない事も出来る」


 そこでミケは、少しばかり苦い笑みを浮かべる。


「怒りや怨みから生まれた怪異が強いのはそのためでもあるんだ。憎悪ってのは我を忘れさせる。この世の常識も……猫は普通空を飛べないが、怒り狂った猫の怪異は飛べる」

「え、ミケちん空飛べるの?」

「今は出来るか分からん。長らくやってないからな」


 口を挟んだ諭一に対して、ミケは素っ気なく答えた。

 ミケが思い出しているのは、太平洋戦争中の事だろう。雁枝の語ったところによれば、彼は東京大空襲を敢行した米軍の爆撃機を数機撃墜している。今の彼にとって、あまり楽しい記憶でないのは明らかだ。


「漫画とかだと、怨みつらみよりも愛や勇気や希望とかの方が強い、なんてのが定番じゃん?」

「基本的には、愛だ希望だなんてのは淡くてはかない感情さ。諭一、お前の曾祖父ひいじいさんの魂がここに在るのも、ウェンディゴという『冬の飢餓への恐怖』から顕現した強力な怪異がいてこそだろ」


 だから、怨念も恐怖も妄執も、必ずしも災いばかりを振り撒くものとして否定する必要はない。それもまた生命への執着の形であり、戦いにおいて怪異の武器になる――と、巨大な怨嗟から生まれた猫又は説くのである。


「はぁー、人間バンジー再オートマってやつね」

「諭一くんよ、人間万事塞翁ばんじさいおううま、じゃねぇかなそれは」


 瑞鳶が部屋の隅からやんわりと、諭一の頓珍漢なことわざを訂正した。

 諭一は一応、名門大学の文学部に所属する学生のはずなのだが(英米文学専攻であるらしい)。


「つまるところ、呪いの槍を振るうには、『こいつと一緒に世の中祟ってやる』くらいの気概と思い込みも必要……かもしれん。と言っても、実際に十文字の抱える憎悪に呑まれちまったらまずいんだけどな。拒まず溺れず、塩梅あんばいが大切だ」


 人間の理論では到底理解しがたいミケの説明に、根岸は首を竦める。


「筋トレの方が簡単じゃないかって気がしてきました」

「アーホー」


 絶妙に脱力するタイミングで、阿古が鳴いた。鴉の鳴き声と分かってはいるのだが、嘲られたようにしか聞こえない。


「阿古、黙っとれ」


 瑞鳶が阿古を叱責し、次いで根岸に向けて小首を傾げた。


わしの見立てでは、根岸くんきみァ――」


 存外砕けた口調で、大天狗の頭領は語る。


「怨念から生まれた幽霊じゃなさそうだな。この世に顕現した理由は何か心残りがあったか、誰かを想ってか……とにかく随分と攻撃性が低い。霊威も強くはないし、ベースが亡者だから成長もしづらい。正直なところ、雁枝の姐さんが君を『もがり』の後継に選んだって話にはまだ戸惑ってるくらいだ」

「はい……でしょうね」


 複雑な面持ちで、根岸は彼の言葉を肯定した。

 特異な眼力をそなえているのか、瑞鳶の分析能力は正確だ。しかし『誰かを想って』幽霊に化けて出たなどと、真正面から見破られるとかなり気恥ずかしい。


「雁枝ばあちゃんの、後継……? 根岸が? 師匠、そりゃどういうこったよ!?」


 志津丸にとってこの話は寝耳に水だったようだ。根岸の真向かいで構えられた稽古用の棒が、目に見えて揺らいだ。


 先刻、根岸は邸宅の中に通され、瑞鳶に挨拶を済ませた。その折に思い切って『もがり』の異能を宿す事を打ち明けたのである。そういえばあの時志津丸は、この道場を使う準備をすると言って席を外していた。

 諭一と阿古は挨拶の場にいたのだが、『殯』の存在自体を知らないらしく、今も「ねえさっきから何の話?」ときょとんとするばかりだ。


「志津丸ッ。動揺が構えに出てんぞ情けねえ」

「いやでも、ちょっとタイム……」

「根岸くん。隙ありだ、打ちかかってみな、全力で」

「は――はいっ!」


 不意打ちのようで気が引けたが、瑞鳶に指示されるがまま、根岸は志津丸の方へと歩を進める。

 槍の柄は、物干し竿と舞台劇用小道具を組み合わせて改造したものだった。伸縮式で、最長二メートル少々。ホームセンターとネットオークションを駆使して材料を集め、休日を丸ごと使ってのDIYぶりにはそれなりに満足した根岸である。


 歴史番組などで知ったところでは、槍は刺突するだけでなく叩いても有効だと言う。そもそもこの槍の穂には本物の刃が付いているのだから、万が一にも志津丸を刺す訳にはいかない。

 当然根岸は、叩きつける戦法を選択した。

 斜め上から、余所見をしている志津丸の死角となる肩口へ。否、肩より先に彼の翼を打ち据える事になりそうだ。


「――ヤッ!」


 気合を入れ、全力を以て柄を振り下ろす。


 次の瞬間、両手に痺れる程の衝撃が走った。

 相手の棒に弾き返された、という事を理解したその時には、志津丸に間合いの内への接近を許している。咄嗟に後退しようとしたが間に合わない。

 続けざま、今度は足首に鈍い痛み。

 くるぶし近くまで沈めた棒の先で、足元を払われた。鈍痛で済んだのは手加減されたからだろう。もし棒に刃が付いていたら、根岸は両足を失っていた。


 掬い上げるようにしてひっくり返された根岸は、床板の上へと派手に倒れる。


「いッ……てて……」


 しばしの沈黙ののち、彼は辛うじて呻き声だけを漏らした。


「うわぁ、痛そう。だいじょぶネギシさん?」


 傍らから諭一が覗き込んでくる。


「受け身から教えねーとなのかよ、おい」


 あっさりと根岸を撃退した志津丸の方が、盛大な溜息をついてみせた。


「つーか……根岸が雁枝ばあちゃんの後継って、マジ? エイプリルフールとかじゃねえだろな師匠?」

「いくら儂でもそんな嘘をつくか」

「師匠の冗談ってちょいちょい洒落になんねぇし」


 ヒュッ、と風を立てて棒を回し、志津丸は元の位置へと戻る。


「ま、ただのリーマンのテメーが急に鍛えてくれなんて言い出した理由は分かったけどよ。ものになるまでにどんだけかかるか」

「いやいや」


 と、ミケは鷹揚に首を振る。


「やり方次第さ。俺も根岸さんも亡者がベースで肉体の成長は望めないが、身体の動かし方は学習出来る。そう言いたかったんだろ瑞鳶さん」

「……ううん」


 対する瑞鳶の返事は、妙に歯切れの悪いものだった。


「儂の見立てでは、根岸くん君ァ――やっぱあまり槍の筋は良くねぇかもな」

「あのな瑞鳶さん、そこは調子を合わせてくれよ」


 赤銅色の両目を細めて言う瑞鳶に、ミケが渋い顔で横髪を掻く。全く千里眼ってやつは、と彼は口の中で愚痴った。

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