第66話 東京秘境湯けむり修行 (5)
以前ウェンディゴに襲われた時には、幽霊も凍傷を負うのかと意外に思ったものだが――
「幽霊には……打ち身も出来るんだな……」
変色した脛や手首を鏡の前で
なんでも、この家の風呂には天然温泉が引かれているらしい。
出発前は温泉を一番の楽しみにしていた根岸だが、数時間にわたる
ともあれ、浴室自体は随分広々としていて、シンプルで古風ながらも贅沢な造りだ。せっかくだから堪能しよう、と眼鏡を外して服を脱いだところで、カラリと脱衣所の引き戸が開いた。
「根岸ィ、ミケがよ……」
顔を出したのは志津丸と
阿古は裸の根岸を見るなり、
「ギャッ!」
と声を上げて飛び上がり、志津丸の顔面に翼で抱きついた。
「うお!? こら阿古!」
「アァー!」
突然どうしたのかと首を傾げつつ根岸は自分の身体を見下ろす。――いつもどおり、致命傷となった胸と手首の傷が消えない血まみれの裸身である。
「あ、そうか。いきなりこの姿見たらびっくりしますよね。ごめん阿古くん」
「天狗が幽霊にビビってどうすんだよ。お前ももう何年かしたら里の外に修行に出るんだぜ」
顔から阿古を引っぺがした志津丸は改めて、片手に携えていた陶器の小瓶を根岸の前に突き出した。
「これ。ミケがよ、風呂上がりに塗っとけってお前に」
「ミケさんが?」
小瓶には何やら複雑な漢字の列が記されているのだが、眼鏡を外しているためどうもボンヤリとしか読めない。小瓶を受け取り、根岸は目を凝らす。
「打撲に効く河童の妙薬、だってよ」
「……そんなの持ってきてくれてたんですね」
つまりミケは、根岸の槍の腕前が志津丸相手では全く勝負にもならず、散々打ちのめされる事を予想していた、という訳だ。根岸も一応は覚悟していたが。
「それで、ミケさんと諭一くんは? 風呂はいいのかな」
「他の天狗連中に誘われて、里の
「へえ……歓迎してくれる天狗もいるんですね」
「色々いるっつっただろ。オレはこっちの風呂入るわ、汗かいちまったし里まで下りるのダリィ」
言うなりスポンと着物を脱ぎ、そこらを飛び回って羽根を散らす阿古を引きずるようにして、志津丸は一足早く浴室へと消えた。
◇
「はぁ……染みるけど……効いてる気がする……こういう時は単純温泉の刺激の薄さが寧ろありがたいというか」
「なに、オメーそんなに温泉好きなのかよ。一家言あるみてーな」
「山梨県内でも有数の温泉郷に生まれ育ちまして」
「へー。そりゃそんな身体になっちまって、なんつうか、困るな。銭湯に行きづらいっつってたろ」
湯船の中で、珍しく志津丸は根岸を気遣う表情を見せた。
いつも気合を入れて金髪を逆立てている彼だが、今は洗い髪でぺったりと下りているので、幾分か印象が変わる。
「まあ困る事は多いですけど、今更恨んでも仕方ないですよ。僕を殺した怪異はとっくに消滅してしまったし、彼女も被害者でした」
「恨んでも仕方ない、ねえ。……普通幽霊って『うらめしや』じゃねえの?」
「古典過ぎるでしょ。僕それなりに仕事やプライベートで怪異に会ってきましたけど、実際そんな発言する個体は見た事ないです」
「そういやオレもねえや。はっはは」
「カァー」
湯船の底の浅い場所で、鴉の行水よろしくばしゃばしゃと湯を跳ね上げていた阿古が、志津丸の笑いに唱和した。
「え、志津丸さんって笑い声とか上げるんですか」
思わず目を丸くする根岸である。
「テメー、オレを一体何だと思ってんだよ」
「いえその――」
一転、じろりと志津丸に睨まれて根岸は口を噤んだ。まさかここで、「いつも無駄に不機嫌そう」などと正直に答える訳にもいかない。
いささか居心地悪く湯の中に沈んでいると、やがて志津丸が視線を逸らし、「はぁー」と深い溜息をついた。
「……わーってるよ」
「何がです?」
いきなり一人で分かられても困る。
「ミケの前では万年反抗期のガキみてーだって言いたいんだろが」
「そんな」
半ば図星だっただけに、根岸は
「あいつと出逢ったのは、ほんとにガキの頃だったけど」
と、志津丸は湯気に曇る天井を見上げる。
「いつかぶっ飛ばしてやるってずっと狙ってたんだぜ。乗り越えて、認めさせてやらなきゃならねー敵だった。九年かけて、そろそろ並び立てるくらいにはなったかと思ったら」
そこで志津丸は視線を下げ、再び根岸を睨みつけた。
「なんか出来立ての幽霊が、いきなりあいつの相棒みたいなツラして隣に立ってやがるし。腹も立つだろうがよそんなもん」
「はぁ、申し訳……って謝るのもおかしいか……」
濡れた髪を掻き混ぜて、根岸は首を傾げるしかない。
根岸がミケの相棒を名乗るのは、流石に大分おこがましい気がする。いやしかし、
それよりも――と根岸は、曖昧な裸眼の視界の中で志津丸を見つめ返した。
「乗り越える敵、って言いますけど……志津丸さん、多分それはぶっ飛ばしてやりたかったんじゃなくて、憧れてたんですよね、ミケさんに」
彼とミケの遣り取りは幾度か目にしてきたが、どう考えても敵対者同士のそれではない。しょっちゅう
「あァ!?」
志津丸の目つきが剣呑な苛立ちを帯びる。
「ミケさんはとっくに貴方の事を認めてるし、そう無理矢理に肩肘張る必要はないと思うんですが」
「……」
反射的に何か言い返しかけた志津丸だったが、結局その口は罵倒も恫喝も吐き出す事なく閉ざされた。
彼もとっくに自覚していたのだろう。ただ、ミケや根岸の前で公然と認める訳にはいかないという意地があっただけだ。
沈黙する二人を
「ああ、おう。上がるか」
ふっと、先程とは異なる短い嘆息を吐いてから、志津丸は立ち上がった。
前髪を掻き上げて手櫛で整え、根岸の方を見遣る。
「やーっぱ、オメームカつくわ」
「は」
「いかにもものが分かってますみてぇな顔してんの腹立つ。何だよ眼鏡なんかかけやがって」
「か、かけたくてかけてる訳じゃないですよ! 今外してるし!」
理不尽な言い草に、根岸はつい語気を強めて反論した。
「寧ろ怪異になっても視力〇.一のままなの結構不満ですから」
「ってか『
「こっちが聞きたいですよそんなの! なんで僕!?」
それこそ、根岸が常々自身に対して抱いていた疑問である。
憤りついでに思いの丈をぶつけた根岸を前に、志津丸はいくらか
「あー……逆にオレも驚いてんだが、お前って怒れるんだな……」
相手が声のトーンを鎮めたものだから、根岸もつられて落ち着く。
――らしくもない真似をしてしまったかもしれない。
「や、別に怒ってるつもりは」
「いんじゃねえの」
イヒヒ、と歯を見せて妙な笑い方をする志津丸である。
「お前、どうせミケ相手だと愚痴れねー事あんだろ。雁枝ばあちゃん絡みの事とか」
これまた、図星と言えた。
自分の身に降りかかった運命を、一先ず受け止める決意だけは固めたものの、根岸は未だ戸惑いの中にある。しかし言語化もしきれず沸き続けるばかりの
「まー、ムカつく奴だけど――二泊三日くらい、やりたいように付き合ってやんよ。明日もキッツイぜ」
一つ手拭いを振り回し、志津丸は阿古を連れて脱衣所の方へと去って行った。
湯船に残された根岸は、のぼせてきた額にばしゃりと湯をかける。
「明日も、キッツイかぁ……」
今日の疲れがさっぱりと洗い流された、とは言えない。にもかかわらず不思議と、根岸の気分はいくらか晴れている。
決して侮っていたつもりはないのだが、予想を大きく超えて、志津丸は器の大きい人物なのかもしれない。
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