第64話 東京秘境湯けむり修行 (3)

 降り立ったその地の、一見したところの印象として根岸が思い出したのは、子供の頃に家族旅行で訪ねた白川郷しらかわごうである。


 岐阜県に位置し、豪雪地帯独特の建築、合掌造がっしょうづくりで知られる世界遺産の集落だ。根岸は当時から古い建造物に惹かれる気質だったので楽しんだが、幼かった弟と妹は、何故か土産物屋のさるぼぼに怯えてぐずったような記憶がある。


 ただ、異なる点も多い。まず目の前の景色は白川郷ほどは開けておらず、勾配の急な坂道と棚田の合間に家々が建ち並ぶものとなっている。

 そして家屋の形状も合掌造りではなかった。構造としては兜造かぶとづくりに近いだろうか。養蚕ようさんを生業とする家によくある、上層階の風通しを重視した造りだ。


 視線を上げると、坂道を上った先、集落の最奥と思われる辺りに、ひときわ立派な屋根を持つ巨大な邸宅がそびえ立っていた。


 三角屋根を逆さまにしたようなそれは、シルエットだけで言えば、江東区にある東京国際展示場、ビッグサイトに似ている――無論、あれほど大きくはないが。

 しかしあの近代的なコンクリートに覆われた建造物と違って、こちらは茅葺屋根を山風に晒し、恐らく柱も木製だ。現代の人間の工学では建築不可能な気がする。


「ここが、天狗の里……?」


 何歩か足を進めた根岸は、そこではたと自分の抱える荷物の事を思い出した。


「あっ……ああそうだ雁枝さん! 大丈夫でしたか!?」


 慌ててキャリーバッグを開き、中の様子を見る。

 バッグの中では、雁枝――今は白毛がちで淡い斑点のあるほっそりした三毛猫の姿を取っている――が、綺麗な真円に近い姿勢で静かに眠っていた。目を覚ます素振りすら見せない。


「雁枝のばあちゃんは神隠し慣れしてるもんよ、このくらい全然平気だ」

「そう――なんですか」

「出来りゃあこれで起きて欲しかったけど」


 無愛想に、しかし僅かに寂しげな視線を伏せがちにして志津丸しづまるは零す。

 彼もまたミケと同じく雁枝を慕い、現在の彼女の容態を深く案じているようだ。

 『もがりの魔女』と呼ばれてきた齢五百の怪異の生き様について、根岸は想像を巡らせる。自分が『殯』の称号を継いだとしても、とてもこんな風にはなれそうもない、などと。


「――アアアアアアア!!」


 突然、耳の間近で絶叫が響いた。

 根岸が咄嗟にその場から飛び退くと、ベンチに座った諭一ゆいちが虚空から姿を現し、百貨店のエスカレーターくらいの速度で、ごく穏やかにスーッと地面を滑って停止する。


 どうやらこのリフト、乗っている側の生きた心地もない感覚と実際の動作にギャップがあるようだ。

 物理的に身体が揺さぶられるよりも、魂が揺さぶられる方が大きな衝撃に感じる――という話は聞いた事がある。例えば結界術もそうだ。結界が張り巡らされた時の冷え冷えとした硬質な感覚は非常に独特なのだが、外側から物理的に観察しても、結界内で大きな異変が起きたようには見えないものである。


「うひゃーっ、ああびっくりした! でも結構クセになるかも。ジェットコースターっぽい感じ。ね、もっぺん乗ろーよネギシさん」

「なんで僕を誘うんですか」


 どうせ帰りにもこのリフトには乗る事になるのだ。


 袖を引っ張る諭一を適当にあしらっていると、そこにミケが到着した。彼も慣れているのだろう、猫の面影を残す澄まし顔でけろりと地面に降り立つ。

 皆の乗ってきたベンチは、再び虚空へと消え去った。


「すっげ、ドラえもんのひみつ道具みたい。霊験機器れいげんききってこんなに何でもアリ感あったっけ?」

「多分、物凄く高性能なんでしょう。陰陽庁と文化庁と天狗の共同事業か……国指定文化財は予算豊富でいいなあ」


 感動する諭一に対して、根岸はつい愚痴を零す。都や市町村区の事業ではこうは行かない。一応は民営の財団法人扱いである特殊文化財センタートクブンなど、霊験機器どころか照明器具一つ買い足すのも一苦労だ。


「金の力もあるだろうが、大部分は天狗の術のお陰だからな」


 根岸の愚痴を聞きつけた志津丸が、ふんと鼻から息を吐いて腕を組んだ。


「ここは人間が言うところの、数少ない怪異共同体ってやつだ。瑞鳶ずいえん師匠の手腕でここまでやり遂げた」

「お前さんの鼻が高くなっとるぞ志津丸」

「いいじゃねえかよう」


 ミケにからかわれて、志津丸が膨れる。

 実際、独自の文化と技術を形成し集落まで一から築き上げる怪異は、世界的に見ても稀少といえた。群れて暮らす習性のある怪異でも、大抵は人間の造った建物を利用するくらいのものである。


「よし、そんじゃその天狗の離れ業を拝みに行こうじゃないか」


 と、ミケは眩しげに坂の上の逆三角の屋根を見上げた。


「瑞鳶さんは達者かな」

「まず確実に、師匠の淹れたコーヒー飲ませられるぜ」


 志津丸が小脇に抱えていた『季刊コーヒー名人』をひらひらと振ってみせる。

 高尾天狗の頭領はなかなか趣味人らしい。ミケも料理やガーデニングをはじめいくつかの趣味を楽しんでいるが、知的生命体が長生きをすると大体そういう風になるのだろうか。


 志津丸とミケに続いて、根岸は坂道を歩き始める。


 見回せば、畑や家々の庭先にちらほらと天狗とおぼしき影があった。

 作務衣さむえから着流し、洋装まで服装は様々だが、皆一様に背中から鳥の翼を生やしている。中には顔まで鳥面の者、人間の顔の一部に羽毛や鶏冠とさかが生えている者、脚だけが鳥類のそれである者もいた。


「……どうもお邪魔します」


 近くの畦道あぜみちに立つ鳥面の一人と目が合ったため、根岸は軽く頭を下げる。

 相手は猛禽類独特のきょろりとした眼球をこちらに向けて、会釈ともつかない首の傾げ方をした。フクロウのように首が真横まで倒れたものだからぎょっとする。何事かくちばしを動かしてもみせたが、言葉は聞き取れなかった。


 必ずしも歓迎ムードではなさそうだな、と根岸は思う。

 怪異が集団で暮らす場所に行けば、大体毎度味わう気分だった。自由奔放で個人主義的なイメージの強い怪異だが、彼らには排他性もある。守るべき文化や不動産を築き上げれば尚更だ。


 やがて一行は大きな木造りの門まで辿り着いた。

 その先は広々とした庭園、更にその向こうに、例の逆三角屋根の邸宅が建っている。志津丸とミケが迷いなく門を潜ったところからして、この邸宅が瑞鳶の住まいか仕事場なのだろう。


「ギャッギャッギャッ」


 唐突に、頭上からそんな声が降ってきた。

 鴉の鳴き声――を、もう少し凶暴そうにしたような印象だ。根岸は声の方へ視線を上向ける。


「うわッ!」


 その視界が真っ黒に覆われたものだから、彼は悲鳴に近い声を上げた。

 顔面をしたたかにひっぱたいてきたのは、翼である。尻餅をついたその傍らに、漆黒の羽根が一枚舞い落ちる。


「ケェェッ!」

「わーっ!? なになにっ!? は、『灰の角』っ!」


 根岸を襲撃した黒い翼の持ち主は、今度は諭一へと飛びかかった。

 狼狽うろたえた諭一は、自身に取り憑く怪異の名をぶ。


「グルォオオオオッ!」


 ウェンディゴ『灰の角』が、助けを求める諭一に呼応して表へと現れた。灰白色かいはいしょくの見事な牡鹿の角に、ブルーの刺青が走る黒い毛皮、山羊を想起させるみどり色の瞳。

 日本では見慣れない幻想的な巨躯の怪異に、里全体がざわついた空気を走らせる。


「グゥ――ウウウ!」

「カアアアッ!」


 『灰の角』は即座に上体を低め、角を前方に向ける攻撃体勢を取った。空中から地面へと降り立った黒い翼の持ち主が、それを真っ向から威嚇し返す。


 その黒い翼の天狗は、怪異というよりは鴉そのものに近い姿形をしていた。尾羽を膨らませてみせても全長は一メートル少々、鴉としては法外に大きいが天狗にしては小柄だ。山伏風の頭襟ときんを被り首から小さな篠懸すずかけを提げてはいるが、動物園か何かのマスコット染みた風情である。


 一触即発の緊張感が二体の怪異をひりつかせた、その直後。


阿古あこ! 何してんだやめろっつーの!」


 志津丸が怒鳴り声を上げつつ両者の間に割って入った。


「カー」

「カーじゃねえ!」


 不服そうに鳴く鴉を志津丸は更に叱る。そこでミケが、鴉の頭の羽毛を後ろから掻き乱した。


「おう、誰かと思えば阿古か。こんな大きくなっちまって、鴉天狗からすてんぐは成長が早いな」


 そう言ってミケは鴉に片手を添えたまま、根岸と『灰の角』に頭を下げる。


「根岸さん、『灰の角』、驚かせたな。この子は里の外も知らんほんの子供だ。それと人語は理解出来るんだが、喋るのが難しいタイプらしい。今のは悪戯が過ぎたが、勘弁してやってくれ」

「いえ僕は、そんな」


 根岸は強引にこうべを垂れさせられた鴉に向かって手を振った。

 翼に叩かれた鼻の頭はまだ痛むが、出血はしていないし眼鏡も無事である。目くじらを立てるつもりはない。


 高尾の天狗には、十二歳から二十歳までの若い個体を里の外で修業させる風習があると聞く。志津丸のように人間に化けるのが得意な個体は人間社会へ。変化へんげが得意でない者は、狐や狸といった他の怪異の集落にでも赴くのだろう。

 修行期間にも入っていないという事は、この鴉天狗は十歳かそこらか。天狗は長命な分、新しい個体が生まれづらい種だから、これほどに幼い者は珍しい。少なくとも根岸が対面するのは初めてだ。


 横を見れば、『灰の角』も警戒の構えを解き、諭一の姿へと取って変わっていた。


「もー、さっき無茶苦茶びっくりしたばっかだってのに。花やしきのびっくりハウスか何か? 天狗の里って」


 と、諭一は群青の前髪を掻き上げて溜息をつく。


「はっは――いや、笑い事ではないな。里の者が失礼な真似をした。謝罪するよ」


 またも新しい声がその場に響いた。野外だというのに舞台上の役者を思わせる、よく通る低い声音である。

 と同時に、邸宅の方からこちらへと、体格の良い初老の男が一人歩いて来るのが分かった。

 ロマンスグレーの髪を無造作に一括りにして、一見したところは完全に人間と変わらない姿だが、鋭い赤銅色しゃくどういろの光の宿る瞳だけが人ならざる強靭な存在のそれだ。


 まさかこの人が、と根岸は胸中で予測を立てる。

『まさか』というのは、今目の前にいる彼が、ブランドものの爽やかなポロシャツを着て胸ポケットにサングラスを引っ掛けるという出で立ちで、天狗とも四百歳を超える老人とも、関東一円の怪異から敬意を払われる大物とも、まるで認識出来ないためだ。


 しかし彼は、根岸の予感したとおりに名乗った。


「よく来てくれたなミケ坊。志津丸も案内ご苦労だった。そしてウェンディゴ憑きに、幽霊の若いの。心から歓迎する。わしは瑞鳶、この里の頭領を務める者だ」

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