第62話 東京秘境湯けむり修行 (1)
――
東京都
都心部からでも電車を使って気軽に
実際、春休みシーズンの週末であるこの日の朝、京王電鉄高尾山口駅は、ハイキングの装いの家族連れやカップル達で賑わっていた。
「ねこちゃん! にひき!」
つばの大きな帽子を被った五、六歳の少女が、
諭一のキャリーバッグの中に三毛猫の姿で納まるミケは、小窓から外を覗いて「ニャン」と愛想良く応対した。
その正体は怪異・猫又であり、実年齢八十歳近いミケだが、彼は人間全般に対して友好的で、気性も至って穏やかである。
普段であればミケの身柄は根岸が預かるところだが、現在の根岸は、こちらも三毛猫の姿で眠りに就く、
都内有数の大物怪異と呼ばれる彼女も今は寝たきりの身であるから、扱いは丁重にしなければならない。
何しろ、雁枝が音戸邸内に張り巡らされた結界から外に出るだけでも久しぶりの事なのだ。
「大体二年ぶりくらいかな」
とはミケの証言である。話を聞くに、元気な頃の雁枝は旅行に凝っていて、寧ろ乗り物嫌いのミケの方が専ら留守番を務めていたそうだ。
「今から思うに、あれは『
ミケはそんな風に振り返る。
邸宅は現在、文化財保護のための耐震補強工事の最中である。今日からは風呂場と洗面所の作業で、数日ばかり水回りが不便になる。
そこで、ミケの昔からの友人である天狗の
「あっ、志津ちゃん来た。しづちゃーん! こっちこっち」
駅の出口で周囲を見回していた諭一が、志津丸の目立つ金髪を見つけて大きく手を振る。
志津丸の方もこちらを振り向き、大股で近づいて来るなり、思い切り諭一の頭をはたいた。
「あいてっ。何すんの」
「大声で『しづちゃん』はやめろっつーんだ、馬鹿!」
水色と群青に染め上げられた長い髪を乱され、顔をしかめつつ撫でつける諭一を前に、志津丸は彼を親指で指し示す。
「大体、何だってこいつも一緒なんだよ。ミケと雁枝のばあちゃんだけならともかく」
「え、僕も許可されてなかったんですか」
根岸は困惑に目を瞬かせた。彼は勿論、諭一がくっついてくるという話も、一応事前に通してあったはずだが。
「……師匠は歓迎するっつってる。そんならまあいいけどよ」
と、志津丸は口を尖らせて視線を逸らす。どことなく気まずそうだ。
「でも根岸お前、オレに長柄の使い方教えて欲しいって――オレそんな、人にもの教えるようなガラじゃねえし――」
「何を照れとる」
「照れてねえ!」
キャリーバッグから顔を出したミケが小声で突っ込み、志津丸は慌てて否定した。
「どうかよろしくお願いします」
頭を下げる根岸に対して、志津丸はどうやら本当に照れているらしく、「だからそういうのやめろよぉ」と
そう――根岸はこの小旅行を利用して、
何しろ根岸は、稀少な異能を持って顕現した幽霊であり、何度かトラブルにも巻き込まれているというのに、今の所ろくに自分の身も守れない。
生前の彼には格闘技経験などなかった。中学時代に陸上部に入っていたから、逃げ足と持久力くらいは平均以上かもしれないが、その程度だ。
ミケの傍にいれば、彼は根岸どころか町内近隣の怪異も人もまとめて守れるくらいには強いのだが、しかし無敵という訳ではない。それに、このままミケに頼り切りではあまりにも自分が情けないという思いもあった。
無論、二、三日武器の扱いを教わったとして、すぐさま強くなれる訳ではないだろう。そもそも、幽霊に身体を鍛えるなどという事が可能なのかどうかすら怪しい所である。
それでも、根岸はミケに宣言してみせたのだ。雁枝から後継に指名された身として――まだはっきりと今後の指針を立てられてはいないものの――ミケと力を合わせて、彼らの大切なものを共に守っていくと。
あの言葉を空虚な気休めにするつもりは、毛頭ない。
「何だ何だ、シャッキリしてみせろ志津丸」
と、ミケは説いて聞かせる。
「お前さん、この春で修行期間は終わりだろう。こっからは一人前の天狗として、周りの怪異を導く立場だぞ」
「わーってるっつの。何だよ、一人前になったのにお説教かよ」
いよいよ志津丸はむすっと不貞腐れてしまった。
「そう膨れるな。ここは根岸さんに協力して貰って、教育実習と行こうじゃないか。お前さんの
「呑気な修行だなオイ。オメーらこないだ殺されかけたんだろ? 大丈夫なのかよ。……つうか、結局この人間は何でついて来たんだ?」
「ぼく?」
諭一が自分の顔を指差した。
「ぼくはほら、今回御猫様お運び要員が二人いるって言うから。あと温泉入れるって聞いて」
「あぁ? 温泉?」
「ぼくウェンディゴ憑きになってから、腕に
「ミケてめー、人間にペラペラと里の話広めるなよな」
「すまん。口が滑った」
これは申し訳ないと思っているのか、ミケは素直に謝罪して前足で耳の裏を洗う。
「しづちゃん大丈夫だよぉー、ぼくこう見えても口は固い方」
「微塵も説得力ねえ……」
「いえ、諭一くんは本当に信用出来ます。こう見えても」
すかさず根岸はフォローに回ったが、諭一からは「ネギシさんてビミョーに酷くない?」と不服そうな顔を向けられた。
「それに温泉の話は、僕が楽しみだって言い出したんですよ。僕も大浴場とか普段入れないんで」
「お前も? 何で?」
「身体が死んだ時の状態のままなんです。つまり服を脱ぐと血まみれ」
「……そういやそうだったか。人間の作法って細けぇや」
未だに根岸の胸元と手首には、致命傷となった傷が深々と、たった今斬りつけられたかのように生々しく開いている。
傷口は乾いているのだが、幽霊になりたての頃はシャツにもしばしば血痕が浮き上がって困らされた。
今は服を駄目にする事はないものの、この姿で裸になって銭湯にでも入れば騒動は必至、すぐ
「まあそんな訳でだ。今日から二泊三日、よろしく頼むぞ」
ミケがその場をまとめるように発言し、やれやれといった様子で志津丸は
「よろしくー」
諭一も志津丸に続いて歩き始め、駅から続く道路の向こうへ目を凝らした。
人通りの絶えない道の先には、ケーブルカーとリフトの発着場がある。
「にしても、天狗の山里って言葉のイメージからすると大分観光地だよねこの辺。こんな所に秘湯ってマジ?」
「そっちじゃねえよ。こっちだ」
と、志津丸は諭一の眺める方角と逆方向を指差した。
「え、あっち? あの神社とかある方?」
「ええ。僕も実際に行くのは初めてなんですが、高尾の天狗の山里というのは、その全域が国指定の重要特殊文化財でして。里への入口は、天狗と陰陽庁、文化庁の共同事業によって隠されているそうです」
歩みを進めながら根岸は、
国指定と都道府県指定の特殊文化財では、当然に扱いが変わる。具体例を挙げると、保存や整備、隔離にかけられる予算額が変わる。
保存や整備は通常の文化財でも行われるが、『一般市民の安全を考慮した隔離用予算』は、特定の特殊文化財だけにあてがわれるものだ。
何しろ特殊文化財には、怪異が憑いている。迂闊に観光客が近づけば事故に繋がりかねない。
天狗の山里はその『特定』の条件を満たしていた。
実は、都指定特殊文化財
「隠された入口? うっわー、ロマンじゃん。トラップだらけのダンジョンがあって、呪文で扉が開いたりとか?」
「陰陽庁と文化庁がそんな違法建築に予算出します? えーっと、地図だとこの辺だったけどな……」
トクブン所蔵の資料にあった地図を頭の中に思い描きつつ、田畑とまばらな住宅ばかりとなった前方の景色を見回す根岸に対して、志津丸が「あれだよ」とぶっきらぼうに応じた。
「ええー!?」
諭一が素っ頓狂な声を上げる。
志津丸に顎先で示されたのは、どう見てもごく普通の民家だった。和風家屋ですらなく、スレート葺きの屋根に白い外壁の、ここ十年以内くらいの建売住宅によくある造りだ。
「ええ? これが『天狗の山里』? 重文指定?」
これは根岸にとっても予想外である。
ぽかんと口を開けていると、隣に立つ諭一の背負ったキャリーバッグからミケが這い出てきて、地面に降りると同時に人の姿に化けた。周囲の人通りが途切れるタイミングを狙っていたらしい。
「やあ、天狗の里の事務所も久しぶりだな。根岸さんは来た事なかったのかい。三、四年前に建て替えられてるんだよ」
「……重要文化財の建て替えって、建設時の工法や素材を再現するものだと思ってましたけど……」
神社や城郭を修理する場合は、それが重要だ。宮大工など今や人手不足で技術継承が大変という話は、文化財に関わっていれば必ず耳にする話題である。
「前の事務所も普通の家だったぜ? 別に建物が大事ってんじゃないだろ。第一、あんまり大仰な入口にすると人間が集まって来ちまう」
志津丸が素っ気なく肩を竦めた。
「間違いなくこの建物が、国指定重要特殊文化財『高尾天狗の山里』の入口兼事務所だよ、根岸さん」
少年の姿のミケは、猫らしい大きな瞳を笑みの形に細め、悪戯小僧のように笑った。
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