第61話 秋の初風、石のおと (13)

 根岸秋太郎ねぎししゅうたろうが幽霊となってから、初めての春が訪れた。


 人間だった根岸が死んだのは昨年の八月末の事だ。あれからもうじき八ヶ月が経つ。

 あっという間だったな、と根岸は、窓から柔らかに射し込む春の陽光に感慨深いものを覚える。


 実際、彼の時間感覚ではまだその半分程度しか経っていないのだ。幽霊になって最初の三ヶ月、彼は現実の月日の経過を認識出来ず、永遠の『八月末の木曜日』の中にいた。

 ミケの助けによりそこから抜け出して以降も、度々翌週の木曜日まで意識が飛んだり、乗ったはずのバスに乗っていなかったり、いつもの通勤路で道に迷ったりしていた。根岸が生きた人間と同じように安定して時間や空間を認識出来るようになったのは、年明け以降である。


 それからも、北米大陸の怪異ウェンディゴに食われかけたり、反怪異を掲げる人間のテロリストに殺されかけたり――公益財団法人に勤務し真面目なのが取り柄と言われた根岸の、かつての安穏な日々は、なかなか戻って来ない。


 しかも彼には、普通の怪異とは違う異能がそなわっているようで、音戸邸おとどていあるじにしてもがりの魔女・雁枝かりえから、『殯』の後継に指名されるに至ったのだった。


 などと、根岸がぼんやり物思いに耽っているのは、音戸邸の台所にて、餅の生地をちぎり分けるという作業に勤しんでいるためである。こうした手指を使う作業中は、取り止めのない事を考えがちだ。


「根岸さん、餡子あんこも良い具合になったから、俺こっちから餡を詰めていくよ」


 テーブルで作業をしていた根岸の隣に、調理用バットを掲げたミケが並んだ。バットの中には手製の粒あんが盛られている。


「やぁ、よもぎの良い匂いだ。あの河童かっぱの先生からの土産物は、毎度モノは良いんだよな。……量が多いんだが」


 くんくんと、人の姿ながら猫らしい仕草で、ミケは深い緑色に染まった餅の匂いを嗅いだ。


 河童の先生というのは、音戸邸のかかりつけ医の怪異である。日本の伝統的な妖怪『河童』の相当に高齢な一個体で、評判の名医らしく、根岸も何度か世話になった。


 その河童の先生が、質の良いよもぎを手に入れたから少しお裾分けしようと言う。それを聞いて、料理好きのミケが草餅をこしらえると張り切るので、根岸も楽しみにしていたところ、五百グラムはあろうかという大量の蓬が風呂敷いっぱい届いた。


「こりゃ三十個は出来るぞ」


 さしものミケも、そう呟いて呆然とするしかない。


 そこで根岸は、草餅を食べきるための応援を呼んだ。相手はミケの友人であるウェンディゴ憑きの諭一ゆいち・アンダーソンと、天狗の志津丸しづまるだ。


 現在、明治期に建造された音戸邸は、文化財保護のための耐震補強工事の真っ最中である。

 屋敷の主たる雁枝が、座敷の棺の中で長い眠りに就いているため、棺桶を連れてホテル暮らしという訳にも行かない。住人一同はそのまま暮らし、工程が進むごとに部屋の家具や荷物を移動させて凌いでいた。


 草餅が完成する前に音戸邸に到着した諭一と志津丸は、段ボール箱と古めかしい家具でぎっしり埋まった二階を見物しつつ暇を潰しているところだった。


「餅が出来た。そろそろあいつらを呼んでくるか」


 手際良く餡を餅で包み、三十余りの草餅を大盆に積み上げたミケは、天井を見遣る。


「流石ミケさん、慣れてますねえ――」


 根岸は感嘆の声を上げた。ミケの特技が料理だという事は知っていたが、菓子作りもこれほど得意とは予想外だ。何となく、根岸の幼い頃に他界した曾祖母を思い出す。

 しかしミケ自身は、さほど甘い物に惹かれる様子を見せないな、とも彼は考えた。


「……御主人が好物でね。餅だとか最中もなかとか」


 根岸の眼差しに気づいたのか、ミケは横顔で微笑を返す。


「ああ、それで」

「寝坊した朝なんかでも、俺が小豆炊いてるとのそのそ起きてきたりしたもんさ」


 持ち上げていた目線を、ミケは少し下ろした。この屋敷でのあるじとの思い出をぎらせたのか、笑顔ではあったが、そこに一抹の寂しさも滲んでいる事に根岸は気づく。


「こうやって草餅作ってたら、またひょっこり起きてこんものかなぁ」

「……そうですね」


 我ながら気の利かない相槌を打ってしまった。根岸は胸中でこっそり反省する。


 以前は根岸の前で飄然とした態度を崩さなかったミケだが、最近になって、雁枝との遠い思い出も、彼女の寿命が残り少ない事への不安も、時折ぽろりと零すようになった。

 『客分』扱いだった根岸を、仲間――あるいは身内と認めてくれているという事なのだろう。それは嬉しくもあるが、居たたまれない気分にもなる。


 根岸はそう弁の立つ方ではない。

 それに、ミケは見た目こそ少年のようだが、根岸より大分年嵩で人格も老成しているのだ。そんな彼が八十年仕えたあるじとの別れを前に、覚悟も備えも済ませた上でなお寂しさを吐露するのに対して、生半可な慰め方など出来るだろうか。


 根岸がどう口を開くべきか思い悩んでいると、二階からどたばたと騒々しい物音が聞こえてきた。


「何です?」


 眉をひそめる間にも、二人分の足音と声が階段を降りてくる。


「おい返せよ! ンなもん関係ねえ奴が見てもつまんねーだろうが!」

「なんでさーいいじゃんちょっとぐらい! 関係ないんだったらさぁー」


 言い合いながら台所に飛び込んできたのは、布張りの分厚い本を抱えた諭一とそれを追う志津丸だ。

 諭一は一八〇センチを超える長身の持ち主、志津丸の方も割り合い大柄である。天狗の翼を今は消しているが、それでも民家の台所で駆け回るには、体積だ。


「こらっ、工事中の家で埃を立てるんじゃない! 何歳いくつのつもりだお前さん方は!」


 追いかけっこをする二人の前にミケが立ち塞がり、まなじりを吊り上げて叱りつける。

 すぐさま両名は我に返り、しおらしくその場で停止した。ミケの本気の叱責は、何しろ迫力がある。


「ごめんごめんミケちん。ところでねえ、これ見てもいい?」


 北米先住民の血を引くはずの諭一が、両手を合わせて頭を下げるというやけに日本的な謝罪を見せてから、小脇に抱えた大判の本を掲げた。


「何だ……アルバムか? 随分と懐かしいものを」


 布張りの表紙を見つめて、ミケは両の眉の角度を下げる。


「別に構わんぞ。大騒ぎしないのなら」

「しないしない」

「ミケぇー」


 首を縦に振る諭一に対して、傍らの志津丸は恨めしげな声を上げた。


「そんなに膨れてどうした志津丸。お前さんはほんの数枚しか写ってないぞ」

「何でオレの写真入れんだよ、雁枝のばあちゃんのアルバムだろ!?」

「そりゃ御主人が一緒に写ってるからだよ。これとか」


 テーブルの隅に置かれたアルバムのページをミケがめくり、一枚の写真を指し示す。

 どこかの小学校の校門前を写したものだ。まだつぼみの小さい桜の木の下、雁枝とミケ、それに根岸の知らない、短い顎鬚の青年が立っている。

 三人に囲まれる形で、いかにも正装にといった風情の少年が、不機嫌そうな面持ちをカメラに向けていた。年齢は十二歳前後、胸に『卒業生』と書かれた赤い花型のリボンを付けている。


「あれ、これって志津丸さん? 小学校の卒業式ですか?」

「うわーお、志津ちゃん可愛いじゃん」


 思わず誰にともなく問い質した根岸に被せる形で、諭一も感想を述べる。


「しづちゃんって」


 根岸は諭一に怪訝な視線を注いだ。


「そんな仲になるチャンスありましたっけ?」

「ネギシさん知らなかった? ほら、前に一緒に戌亥いぬい小学校って怪異だらけの廃校に行ったじゃん。あれから仲良くなったんだよ」

「なってねえ! 変な呼び方すんな!」


 腹立たしげに志津丸が口を挟む。一方ミケは、何故か我が事のごとく自慢げに胸を張った。


「可愛いだろう。この頃の志津丸は素直で……いや、もう大分反抗期だったかな……」

「今の志津ちゃんの金髪キンパって染めてたんだ。天狗って地毛が金色なんだなーっなんて感心してたのに。美容院でやってる? どこ?」

「だから志津ちゃんてのやめろ! ミケも! 何しみじみしてんだよ!」


 頬を紅潮させて声を張り上げた上で、志津丸はミケの鼻先に人差し指を突きつけた。


「この際言っといてやるけどなミケ、いつまでもガキだと思ってんじゃねえぞ! オレぁもうテメーに負けねえからな! 勝負ならいつでも受けてやんぜ!」


 突如目の前で宣戦布告が行われ、根岸と諭一は揃ってぽかんとする。


「なに? なんかのゲームの台詞?」

「さぁ……?」


 諭一に小声で質問されるも、根岸としては首を傾げるしかない。


「――そうだなぁ」


 と、一旦両目を丸くしたミケが、ちょっと眩しげにそれを細めた。


「今のお前さんを相手にするのは、なかなかきついかもな。俺はベースが亡者だから、何年経っても霊威自体が成長する訳じゃなし。背丈もとっくに抜かされちまったし」


 背丈と言ってもこっちの身体での話だけどな――ミケは呟き、自分より頭半分ばかり高い位置にある志津丸の横髪をわしゃわしゃと撫でる。


「全くでかくなってくれたもんだよ。陸号ろくごうもこの前『人狼の会』の新年会で会えたのを喜んでたぞ。あまり飲ませ過ぎるなと注意しといたが」

「なんッ……」


 一息に毒気を抜かれた表情となり、志津丸は口を何度か開閉させてから、改めてミケへと食って掛かった。


「なん――だよ、いきなり年寄り臭ぇこと言ってんじゃねえ! テメー元気に長生きしろっつーんだよクソジジイ!」

「それは一体、罵倒しとるのか元気づけとるのか」

「うっせえや!」


 呆れるミケの前で回れ右をすると、志津丸は足音も荒く台所を出て行ってしまった。


「おーい志津丸、草餅は食わんのかい」


 ミケが廊下に首を出して呼びかける。


「食うよ! 先に雁枝のばあちゃん見舞ってくる! ばあちゃんアンコ菓子とか好きだろ、起きてくるかもしれえねえからよ!」


 志津丸はそう答えて、雁枝の眠る棺が置かれた座敷へと消えた。


「ミケちんの周りって、案外賑やかだねえ」


 盆の上の草餅を摘まみ上げつつ、諭一が他人事のように呟く。


「諭一くんを筆頭にね」

「ぼくぅ? なんで」


 根岸の言葉に、諭一は全く心外だと言いたげな表情を浮かべた。無自覚が過ぎるその反応にこそ驚かされる。

 諭一の隣の椅子に腰掛けた根岸は、そこでつい笑いを漏らした。


「ちょっとネギシさん、人の顔覗いて笑うこたないっしょー?」

「すみません。――いえ、皆さんを呼んで良かったと思っただけです」

「そりゃ、餅を余らせるよりはね」


 草餅を頬張った諭一は、「あ、うまっ」と目を瞠る。


 ――何も、自分だけが気負う必要はないのか。


 そんなことを根岸は考えて、ひとり納得した。

 ミケは長い時を生きてきて、ああいう性格だから知り合いも慕う者も多い。根岸は怪異としてはほんの新米だ。周囲の力を借りられるだけ借りて、守るべきものを守っていけばいい。


「補強工事って、次どこやんの?」

「次は風呂場と洗面所の水回りだな。何日か風呂が使えないらしいから、近所の銭湯に行って、洗面は台所だ」

「何だよ、不便じゃん。じゃあ雁枝ばあちゃんも連れて、オレんところ泊まりに来いよ。師匠にも言っとくから」

「天狗の里に?」


 ミケと志津丸は、座敷前の廊下で何やら話し込んでいる。


 一先ず根岸は、志津丸が今、ミケの傍らにいてくれる事に感謝した。



 【秋の初風、石のおと 了】

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