第63話 東京秘境湯けむり修行 (2)

 一行の先頭に立った志津丸が住宅のインターホンを鳴らすと、「はいどうぞ」とすぐさま応答があり、玄関扉のロックの外れる音がした。


「やあ志津丸、お疲れさま。ミケさんも久しぶり」

柳葉りゅうよう、世話んなるな。仕事の調子はどうだい」


 玄関で頭を下げる男に対し、ミケが砕けた調子で声をかける。

 作務衣さむえ姿で、どこか朴訥ぼくとつな雰囲気の男である。髪型は普通だが、気の良い住職か何かのように見える。


「ぼちぼちですね。まあ何事も、平穏が一番ですから」


 作務衣の男はミケにそう応じてから、根岸と諭一の方へ爪先を向けた。


「どうも、神隠し管理天狗の柳葉りゅうようです」

「……神隠し?」


 諭一が柳葉の言葉をおうむ返しに繰り返す。


「そうです。天狗の里にご用なんでしょ?」


 事も無げに柳葉は頷いた。

 彼らにとっては日常的な用語であるらしい。


「近代以前、人間が天狗の領域に迷い込む事をそう呼んでたんで」


 根岸は声を低めて諭一に説明する。


「天狗側は今も、人間や余所者の怪異が里の結界の入口を通過する事を『神隠し』と呼ぶんだそうです」

「えー、言葉のイメージめっちゃ悪くない?」

「人間にとってはね」


 天狗にとってはそうでもない様子だ。怪異との文化的相互理解は、なかなか困難を伴う。


「どうかしました? ――あ、そちらのお二人は神隠しが初めてなんで、データベース登録と同意書へのサインをお願いします」

「サイン?」


 諭一ともども、クリップボードに挟まれた書類を受け取った根岸は、「土足でどうぞ」と案内されるがままに家の奥へと足を進めつつ、手の中の書類を眺める。

 書面には免責事項と思われる文章がずらずらと並び、注意点もいくつか記されていた。『妊娠中の方、お酒を飲まれた方は神隠しご遠慮下さい』との事だ。


「役所が関わるってこういう事だよね……」

「登山用リフトの注意書きに似てるなあ」


 神秘体験への興を削がれたような顔つきで名前と住所を記入していく諭一の横で、根岸はそんな感想を述べた。


「ああ、まさにリフトだよ根岸さん。あんな感じの乗り心地だ。あれが入口」


 ミケが家の奥を指差す。

 玄関を上がって右手側にはリビングを改装したらしい事務所があり、デスクにパソコン、コピー機、ファイルの並ぶ棚が据えられている。ミケが指し示したのは事務所のドアを素通りした先、廊下の曲がり角の向こうだ。


「――これは……」


 角を曲がり、目の前に現れた扉と正面から向かい合った根岸は、我知らず息を呑む。

 少しの逡巡ののち、彼は言葉を吐き出した。


「あの……これトイレでは?」

「いや、リフト乗り場」


 そう言ってるじゃないか、とミケは怪訝な眼差しを返す。

 しかし、二つ並んだ簡素な木製のドアはどう見てもよくあるトイレのそれだ。ドアにはピクトグラム表示まで貼りつけてある。


 ただよく観察してみると、ピクトグラムは男女の区分ではなさそうだった。左側は緑色の人型のピクトグラムで、右側は蛍光オレンジの人型、ただし頭に二本の角が生えている。

 これは怪異を示す一般的な表示である。『怪異出没注意』などと高速道路の電光掲示板に表示されているのを、根岸も見た覚えがあった。


「人と怪異で入口を分けろという意味ですかね?」

「ぼくは? 怪異憑きの人間だけど。今は引っ込んで貰ってる」


 諭一がスポーツ用のサポーターを付けた左腕を、ひらひらと振る。

 彼に憑いている怪異は北米大陸の精霊ウェンディゴ、呼び名を『灰の角』。諭一の曾祖父の魂と融合し、今は左腕に刺青タトゥーの形を取って曾孫を見守っていた。


「その場合、人間用の方をお使い下さい」


 今までにも前例があるのか、柳葉は迷いなく応じた。彼は根岸と諭一が記入した書類の内容を、飲食店の注文入力用ハンディのような機械に打ち込んでいる。


「まーったくお前らウルセーな。騒がしくしてワリぃ、柳葉」


 玄関のポスト前で何事かごそごそしていた志津丸が、遅ればせながらリフト乗り場前までやって来た。片手にいくつかの封筒と小包を抱えている。


「里宛ての郵便、これ持ってきゃいいのか?」

「ああ仕分けしてくれたのか、ありがとう。そうだ、ついでにこれも頼む」


 ハンディを一旦懐に仕舞い、礼を述べた柳葉は、事務所の机の上から雑誌風の本を一冊拾い上げた。


「なにこれ?」

瑞鳶ずいえん頭領から頼まれてた、『季刊コーヒー名人』のバックナンバー」

「……」


 雑誌を受け取るなり、志津丸は眉間に皺を寄せて口角を捻る。


「頭領、今コーヒーにハマってて」

「あのひとマイブームが分かりやす過ぎんだろ。物好きっつーか数寄者っつーか」


 溜息をつき、金髪を掻く志津丸である。


 彼には天狗仲間に気を利かせたりする一面もあるのだな、と根岸は、胸の内で密かに志津丸に感心していた。


 志津丸の年齢は二十歳だとミケから聞いている。外見の成長速度も、怪異としては珍しく人間と同等だ。しかし彼は、ミケに対しては長年の付き合いからか多少子供っぽい面を覗かせるし、根岸や諭一に対してはしがちである。

 が、天狗の身で人間社会の高校まで卒業して、今は都内のバイクショップでアルバイト中という話だから、社会経験は豊富な青年なのだ。


 根岸を気に入らない風なのも、ややこしい事情を抱えた幽霊を音戸邸に住まわせ、世話まで焼いているミケを心配しての事だろう。タイから迷い込んだ妖怪ピー・ガハンを助けたりもしているし、多分本来は、しっかり者で情にも厚い気質なのだと思われる。


「志津丸。この前の『人狼ゲームを楽しむ人狼の会西東京支部』との新年会、私は仕事で出られなかったから――」


 リフト乗り場へ向かう志津丸の背に、柳葉は呼びかけた。


「また改めて。修行を終えてもまだしばらくは、人間の街で働くつもりなんだって?」

「……ああ」


 振り返った志津丸が、照れ臭そうに返事をする。


「修行完了っつっても、すぐに何がどうなるってんじゃねえからな。このまま人間の街で馬鹿やらかしそうな怪異達を見張るってのもアリだし……バイクいじる仕事は楽しいし。まあ、里にはちょいちょい顔出すようにするよ」

「それなら今度ご飯でも」

「メシな、オーケー」


 軽い口調で承諾した志津丸は、そこでばさりと、背中から猛禽類を思わせる大きな翼を生やした。

 ミケが人間の少年と二尾の三毛猫、それに燃え盛る巨獣の姿を自在に使い分けるように、天狗の志津丸にも多少の変化へんげ能力がある。

 全身を全く異なる動物に変える事は出来ないものの、着ている衣服を特定の形状に変容させる異能は得意らしく、翼を生やすと同時に彼の服装は、派手なスカジャンにTシャツという出で立ちから金地の山伏装束に変わっていた。こちらも非常に派手である。


「うわスッゴい。気合い入れ過ぎた成人式みたい」


 諭一が目を輝かせ、すぐさま自身の左腕のサポーターをずらしてその下の刺青タトゥーに話しかけた。


「ねえ『灰の角』! ぼくらもああいう事出来ない? やってみない?」


 諭一の呼びかけに対し、線刻状の刺青がぐにゃりと形を変え、


『NEVER』


 と大きめの英単語が表示される。老齢のウェンディゴである『灰の角』としては、たとえ能力上可能だとしても金地の袈裟は断固拒否したい様子だ。


「志津丸は早着替えが得意だよな。俺はどうも人間の服自体が苦手なもんで、その手の術に興味が持てん」


 ミケが感心半分呆れ半分といった様子で肩を竦める。彼は旅の装いにしてはシンプルな、ダークグレーの春物のアウターを引っ掛けている。近所のショッピングモールで買った服しか持っていない高校生、といった風情である。


「雁枝ばあちゃんが言ってたじゃんか。怪異には舐められない威厳が必要な時もあるって」

「威厳なぁ。服なんぞで?」


 ピンと来ない声色で、ミケは首を傾げた。


「ミケさん、宿泊先では風呂上がりに裸でうろついたりしちゃ駄目ですよ」


 俄かに不安を覚えた根岸は、小声でミケに言い聞かせる。

 素が猫のミケは衣服を好まず、時に全裸で音戸邸内を歩き回ったりして、出くわした根岸を困らせている。猫の姿でいると着衣かどうか本人も忘れがちなので、朝起きて猫のまま外出した場合などたまに大事故を起こすのだった。


「招かれた先でそんな失礼はせんよ。何だと思っとるんだ根岸さん」

「そういう所は猫だと思ってます」

「ニャア」


 金縁の目を瞬かせて、心外そうにミケは鳴いた。


「ははは……」


 笑い声に根岸が振り向けば、柳葉が堪えきれなくなった様子で口元を押さえている。


「――すみません。志津丸、ちょっと会ってない間に友達が増えたんだな」

「いやっ、こいつらは……友達っつうか別に」


 しみじみと柳葉に語りかけられ、志津丸はまたも気まずそうに首裏を掻いた。


「頭領は志津丸が立派になったのを喜んでるよ。多分、今の君を見たら伽陀丸かだまるだって――」


 そこまで言いかけて、柳葉ははっと息を呑んで口を噤む。


「あ……いや、すまない」


 謝られた方の志津丸も、一瞬ではあるが強張ったような、懐かしむような、酷く複雑な表情を浮かべていた。しかしその顔はすぐさま、いつもの渋面に近い仏頂面へと戻り、「ん」と短い相槌だけを返す。


 伽陀丸、という人物名は根岸の知らないものだった。現代人につけるには古風な印象だが、天狗の誰かの名だろうか。しかし深掘りはしづらい空気だ。

 そこに、


「かだまる? 誰?」


 全く遠慮する事なく、けろりとした口調で諭一がたずねた。思わず根岸は、「ちょっと、諭一くん」と肘先で彼をつつく。


「……同じ峠生まれの天狗。オレよりちょい上。人間の関係で言うと、『兄貴』みたいなやつ?」


 ぶっきらぼうではあるが、特に怒るでもなく志津丸は回答を寄越した。


「里の罪になる事をしでかして逃げたから、もう何年も行方不明のままだが」

「えっ」


 諭一がようやく狼狽を見せる。


「あの、ゴメン。立ち話で済む感じじゃなかったね?」


 場の空気を掻き混ぜるかのように両手を振る諭一の横で、「全くもう」と根岸は息を吐いた。

 諭一の左手首には、『SORRY』と文字列が浮かんでいる。『灰の角』は謝罪というより、気の毒に、とのニュアンスでその単語を表示したのかもしれない。彼も多くの身内を失ってきた怪異だ。


「いーって。天狗にも色々いるってこったよ。柳葉は人間の役人連中とも上手くやれるからこの仕事に就いてるけど……中には人語が苦手な奴とかもいるからな」

「そうなんだ」


 いくらかしおらしく、諭一が首を縦に振る。


「そういう事だよ。じゃ、志津丸。先行してくれるか?」


 ミケが扉を開けて志津丸を手招いた。

 おう、と頷いた志津丸が一人で扉の中へと入る。すぐにそこは閉め切られ、柳葉がハンディを操作した。

 そうして、ものの十五秒ばかり後。


「はい、神隠し完了です。お次は?」

「根岸さん行くかい。御主人も一緒に頼む」


 指名を受けた根岸は雁枝の眠るキャリーバッグを担ぎ直して、おっかなびっくり扉に手をかけた。

 開けてみると、やや広めのトイレ程度の広さしかないその室内に、既に志津丸の姿はない。代わりに、成る程リフトに使われていそうなベンチが一つ置かれている。

 置かれている――というよりそのベンチは、天井の穴から吊り下がっていた。穴の先は奇妙な程に暗く、観察出来ない。


 ――これで本当に部屋の中がトイレで、便器に飛び込めとでも言われたら流石に嫌だったから、一先ずそこは安心だ。


 我ながら頓珍漢な安堵を覚えつつ、根岸はベンチに腰掛ける。


「じゃあ、リフト動かしまーす」


 扉の外から柳葉の声がかかった。

 肘掛けに添える手に力を篭めた次の瞬間、高速のエレベーターが稼働したかのように、身体がベンチごと浮き上がる感覚に襲われる。

 感覚だけでなく、視界もまた唐突に、真っ暗闇の中へと放り込まれた。移動している気はするが、上昇しているのか下降しているのかよく分からない。


 以前一度死んだ時に少し近い気分だな、と根岸は不吉な事を考えた。もしくは幽霊になった最初期の頃、肉体の顕現が安定せず、急に『次の木曜日』まで意識が飛んだ時もこの気分に似ていたように思う。


「時間と空間の飛躍は、怪異の特技の一つだか――らぁあああっ!?」


 『天狗の神隠し』に使われている技術について、根岸が独り考えをまとめかけた矢先、視界が開け、彼は叫び声を上げた。


 絶景だ。

 青空と眩い日光、間近に浮かぶ雲。眼下には新緑を一面に湛えた山。


 ジェットコースター並みの速度で山肌目掛けて落下していく最中さなかでなければ、存分にこの眺めを堪能したいところだった。

 だが生憎と、根岸は遊園地の絶叫マシンですらさほど楽しめない性質たちである。


「――ぁああああああ!!」


 地面に叩きつけられる寸前、ベンチは体勢を整え、スキージャンプ競技のメダリストのごとく滑らかに草原の上へと着地し、数メートルの滑走ののち停止した。


「ほら根岸、立て。着いたぞ」


 ベンチの上で放心している根岸の前に志津丸が現れて、片翼を持ち上げて促してくる。

 根岸はふらつきながら立ち上がり、汗ばんだ黒縁眼鏡を一旦外してからかけ直して、周囲の様子を窺った。


「……うわあ」


 今一度改めて、彼は感嘆の声を上げた。

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