第56話 秋の初風、石のおと (8)

 「何なんだよ!」


 空き教室の片隅で、小塚こづかに掴まれた腕を振りほどき、志津丸しづまるいきどおった。


「しっ!」


 更に言い募ろうとする志津丸を制止して、小塚はぴしゃりと閉めた扉の向こう側へと耳をそばだてた。


「佐藤、まだ教室だよな?」

「あ? ……じゃねえの」


 眉間に皺を寄せて、志津丸は答える。

 志津丸が教室を出る時、佐藤はまだ座席の傍らに立っていた。

 あそこから、気づかれないうちに一瞬で何メートルも移動するような事があればそれは怪異だ。無論、佐藤の匂いは人間のそれである。


 それよりも、何故小塚が佐藤の居場所など気にするのだろう。


大垂水おおたるみ、お前さっき佐藤に何か言われてたよな。家に行くとか」

「ああ、そういう話になったけど」

「やめとけ」

「何でだよ。小塚には関係ねえだろ」


 ひょっとしてこれは、かつて伽陀丸から聞きかじった、人間の子供にありがちな生態からくる行動ではないかと志津丸は疑った。


 ヒトの年齢が十代に差し掛かる頃、異性を生殖相手として意識する個体が出現し始める。しかし彼らは精神的には未成熟なため、好意を持つ相手に素直になれず冷たい態度を取ったり、嫉妬心をコントロール出来ず周囲にも攻撃的になったりする。何とも不条理な生態である。


 要するに、小塚が佐藤を恋愛対象にしているのではないかと志津丸は考えたのだ。


 ちなみに、この世界に顕現する怪異は物質生命体の魂や精気をベースに構築されているため、生殖能力を持たないにもかかわらず、疑似的な生殖欲求を発露させる場合がある。つまり、怪異も『面倒臭く不条理な十代の恋』を経験し得る。

 幽霊など、顕現する動機自体が恋しい相手のためというケースもままあった。


 好意だの恋だの嫉妬だの、そんな無意味なものが自分にも発露するとは考えられない。かつての志津丸はそう述べたものだが、すると伽陀丸は「どうだか?」と笑うのである。時々意地の悪い事を言う兄貴分だった。


 ――ともあれ、人間の子供の頓珍漢な求愛行動に巻き込まれるのは御免だと志津丸は思う。


「関係なくないんだよ。とにかくやめろって」

「意味分かんね。もう行くぜ。授業始まっちまうじゃん」

「待てよ!」


 扉を開けて出ようとする志津丸を、小塚が体当たり程の勢いで引き止める。むっとして彼の身体を押しのけかけたところで、不意に志津丸は気づいた。


 目の前の少年は、震えている。

 手の平まで冷や汗でびっしょりだ。今にも泣きそうな顔をしている。


 ……恐怖の感情にしか見えない。嫉妬だか何だかで、こんな風になるものだろうか?


「おっ……おれんも、にばれて」

?」

「母さんとナナが――」


 ナナ、という名前は志津丸の知らないものだったが、察しはついた。小塚には妹がいる。同じ小学校に今年入学したばかりだ。最近交通事故で片脚を骨折したらしく、保護者が車で送迎していた。小塚が妹を介助しているのも見た覚えがある。


「……さっきから何の話してんだお前」


 ひりひりと、嫌な予感が首筋を焼くのを感じながら、志津丸は問いかける。


「あいつって、誰?」

「あれぇ、小塚くん」


 その声は教室の窓際から、唐突に上がった。

 志津丸と向き合う小塚が肩越しに窓の方を見て、顔を引きつらせる。志津丸は彼の視線を追って素早く振り向いた。


 いつの間にか開け放たれていた窓辺に、佐藤真由が腰掛けている。


「さ、さと……」


 小塚が名前を呼びかけて、半ばで息を呑んだ。


 ――どこから入って来た?


 と、まず志津丸はそう訝しむ。いや考えるまでもなく、彼女は窓伝いに侵入したのだろう。しかしこの教室のあるフロアは三階だ。


 窓から射し込む陽光のせいで、彼女の顔はよく見えなかった。ただ、こちらに照準を合わせる両眼が、室内の灯りを反射してぎらついているのは分かった。つい先程まで黒々としていたはずの彼女の瞳は、荒天の海を想起させる濁った青だ。


「だめじゃない。どうしたの?」


 彼女は小首を傾げてみせると、ぶらつかせていた足を床に降ろしてこちらへと歩み寄って来た。

 片手に緩く握っているのは、教室の棚に仕舞われている工作用のカッターナイフだ。ダンボールも切れるやや大型のサイズである。


「わたし、言ったよね。命令どおりに動かないと、次はナナちゃんの――両腕と両目をえぐり取ってあげるって。お母さんもお揃いにしてあげるって」


 幼児に絵本でも読み聞かせるような、ゆったりした彼女の声の合間に、小塚が「ごめん」「ゆるして」と小さく呻くのが聞こえる。

 両者の間に立つ志津丸は、佐藤の姿をしたものから目を逸らせないまま、小塚を後ろ手に扉の方へと押しやった。しかし、回れ右をして扉を開け放つだけの余裕はない。


 ふっと、彼女は短い息を吐いた。


「天狗の勢力を遠ざけると同時に、吸血女との仲を裂いて、ついでにいずれは潰す人狼の群れに探りを入れる……。流石に欲張り過ぎちゃったかなぁ。ざーんねん」


 呟きつつ、カッターを器用に手の中で回転させる。

 彼女が立ち止まったのは、志津丸から五、六歩の距離。


 ――の、はずだった。


 突如として、少女の姿をしたそれがあり得ない跳躍を見せた。

 笑みの形に歪んだ口元が、青く濁った両眼が、志津丸のすぐ鼻先に迫る。そしてカッターナイフの刃が、定められた装置のような正確な動作で彼の心臓の真上へと突き出される。


(刺される!)


 確信と恐怖に、志津丸は硬直した。


 更に予想を超える事態となったのは次の瞬間だ。


 教室の扉上部に張られた曇りガラスの窓が、外から叩き割られた。そこから飛び込んできた小さな影が、小塚の肩口を踏み台にして、少女と志津丸の間へと強引に割り込みをかける。


 その影の正体が三色の毛を逆立てた猫だと気づいた時には既に、猫は人の形を取っていた。癖のある黒髪に吊り上がったまなじりの、細身の少年。

 まさかと志津丸は目を疑ったが、間違いなく音戸おとど邸のミケだ。


 志津丸目掛けて突き出されたカッターを、ミケは正面から握り込む形で受け止めた。小学生の少女の片腕にどういう膂力りょりょくが篭められていたのか、弾丸と同等の速度の刃は彼の手の平を穿うがち、貫通にまで至ったが、ミケはまるで怯まず金縁きんぶちの瞳で相手を睨み据える。


「フシャァァッ!」


 威嚇音をひとつ吐くなり、ミケは握りしめたカッターを刃側からもぎ取ってみせた。体勢を崩した佐藤の胴体に、蹴りを叩き込んで大きく吹っ飛ばす。


「ぐるがぁッ!」


 少女が獣の咆哮を上げる。

 床に背中から打ちつけられるかと見えた彼女は、くるりと回転して即座に起き上がり、臨戦態勢を取った。


「音戸の使い走りか、クソ猫が!」


 怒りと苛立ちに満ちた声で彼女は吐き捨てた。その声色は明らかに『佐藤』のものではなく、低い男のそれである。ミケよりも余程年嵩に聞こえた。

 そして同時に、人ならぬ存在の匂いを志津丸は彼女から感じ取る。冷え冷えとした温度を持たない獣と――血の臭い。


変化へんげの術の最中は匂いまで誤魔化しきるのか。予想以上の使い手だな」


 血まみれのカッターを自分の手の平から引き抜いて、ミケは冷徹に両目を細めた。


「しかも予想以上にクソ野郎だ、霧中のイーゴリイーゴリ・ヴ・トゥマネ


 そこで教室の扉が勢い良く開き、二頭の狼が室内に雪崩れ込んでくる。

 一頭は栗色の毛並みで、丸みを帯びた鼻面から陸号ろくごうの狼形態だとすぐに分かった。陸号は志津丸の袖を咥えて、「逃げるぞ!」と叫ぶ。

 もう一頭の狼は灰色混じりの白毛はくもうで、志津丸の知らない個体だったが、恐らく陸号の仲間の人狼だろう。こちらは、へたり込んでしまった小塚のシャツの襟を咥え上げた。


「とにかく外へ。他の子も教師も、全員避難させないと」


 白毛の狼が、年配の女の声で落ち着いた指示を飛ばす。


「ペトラ、陸号、子供らは頼んだ」


 カッターを放り捨てて、ミケは対峙する相手から目を逸らさずに背後へと告げた。


「ミっ――ミケ、怪我……!」


 混乱の中、どうにかそれだけ志津丸は言葉を絞り出す。

 思わずミケの方へ足を踏み出しかけた志津丸に対して、彼の袖を引く陸号が大きく首を振って制止した。


「大丈夫だ、ここはミケさんに任せて!」

「けどオレのせい――」

「詳しい話は後でするから!」


 小塚ともども、志津丸は教室の外へと引っ張り出される。

 その間にも、『佐藤』は外見を変貌させつつあった。

 身長は二メートル近くまで伸び、真っ直ぐな黒髪は、ごわついた純白に近いプラチナブロンドに染まる。尖った耳に複数のピアス、両手の指にはシルバーのリングが現れた。肌は青白く、顎下から胸元、指先に至るまで複雑なモチーフの刺青タトゥーに覆われている。


「オレの名前を知ってるってことは……細かい話は省略出来そうだな、手っ取り早い」


 長身の男へと姿を変えた怪異――ミケは『イーゴリ』と彼を呼んだ――は、ジャケットのファーを煩わしそうに首から払いながら語りかけた。


「この場所をオレは気に入ってる。周りじゅう美味い飯だらけだし、人間の子供ガキは脅せばすぐ言いなりだ。オレは何体か腹を空かせた人狼の下っ端を従えてるんだが、こいつらもそこそこ変化へんげが上手いから、さらった子供ガキと入れ替えとけばしばらくは騒ぎにもならねえだろ? つまり――」


 人差し指を回し、イーゴリは淀んだ青い眼をミケに向けて眇める。


「さっきの人間と天狗の子供ガキをこの部屋に残して、テメエは黙って出て行けば、それでだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る